全身麻酔の準備と聞けば、絶食、採血、画像検査、同意書を思い浮かべる。口の中は後回しに見えやすい。だが、気管へ入る管は口を通り、術後には咳や飲み込みの力が落ちることがある。唾液や口腔・咽頭の分泌物に含まれる微生物が下気道へ入る経路を考えれば、歯科の診察は手術の周辺業務ではなく、呼吸器合併症を減らす候補の一つになる。
徳島大学病院の新しい分析は、その候補を病院全体の長い時間軸で確かめようとした。対象は2009~2024年に同院で行われた全身麻酔手術約6万例。病院は2012年から、歯科医師と歯科衛生士による周術期の専門的口腔ケアを導入し、診療科と対象患者を広げてきた。大学発表によれば、対象者の増加とともに術後肺炎の発症率は低下傾向を示した。実施時期を分けて関連因子を調べると、術前の口腔ケアが低い発症率と関連した。
研究を発表したのは徳島大学病院口腔管理センター。センター長は青田桂子(あおた・けいこ)准教授・病院教授である。青田氏は5月16、17日に松本市で開かれた第23回日本口腔ケア学会総会・学術大会と第6回国際口腔ケア学会総会・学術大会で、「周術期等口腔機能管理の導入拡充が全身麻酔術後肺炎に及ぼす影響:経年変化と診療科別比較による検討」としてポスター発表した。
6万例という大きさ、空白のままの分母
約6万例は、単一診療科の小規模研究では拾いにくい変化を見る規模である。導入前の2009~11年を含み、2012年の開始後に対象を広げた過程を追える点も強い。肺、食道、胃、大腸など肺炎リスクの異なる手術を、診療科別に比較した発表題も、病院全体の運用を考えるうえで価値がある。
一方、読者が臨床的な大きさを判断するための数字はまだない。発表資料は「約6万例」とし、正確な対象数、口腔ケア群と非実施群の人数、年ごとの実施率、術後肺炎の定義、診断期間、導入前後の発症率、調整後のオッズ比またはリスク比、95%信頼区間を示していない。年齢、喫煙、基礎疾患、手術部位、緊急性、手術時間、術後嚥下障害など、何を統計調整したかも分からない。
仮に発症率が半分になっていても、10%から5%なのか、0.2%から0.1%なのかで、患者と病院への意味は大きく違う。必要治療数(NNT)や費用対効果は、絶対リスク差がなければ計算できない。「約6万人」は精度を期待させるが、標本数だけでバイアスは消えない。
大規模データで最初に問うべき数字は、症例数ではない。介入を受けた人と受けなかった人の肺炎が、それぞれ何人中何人だったかだ。
歯磨きの号令ではなく、感染源と機能を診る
「口腔ケア」を朝晩の歯磨きと同じ意味に縮めると、医療としての中身を見失う。徳島大学病院の公式説明では、口腔管理センターが全身麻酔手術、抗がん剤治療、頭頸部放射線治療の前に、歯科医師と歯科衛生士によって口腔内の感染源を除き、口腔衛生を整える。必要に応じて、う蝕治療や義歯調整の専門科へつなぎ、気管挿管時の歯の損傷を防ぐマウスプロテクターも検討する。退院後は地域の歯科医院へ紹介する。
肺炎につながり得る経路は一つではない。口腔・咽頭の分泌物を誤嚥する、挿管時に汚染物が気道へ運ばれる、手術後の痛みや鎮静、嚥下機能低下で排出しにくくなる。専門的清掃で細菌量を減らすこと、ぐらつく歯や感染巣を把握すること、本人が術後も続けられる清掃方法を整えることには、それぞれ異なる役割がある。
ただし、今回の分析がどの経路を測ったかは公表されていない。細菌培養、口腔衛生指標、嚥下評価などの媒介変数が示されていない以上、「口腔細菌が減ったため肺炎が減った」とまでは言えない。もっと早くから準備できる患者ほど全身状態が良い、診療計画が整っている、といった選択の影響もあり得る。
- 口腔内の診察、感染源、動揺歯、義歯、粘膜、清掃状態の確認。
- 歯科医師・歯科衛生士による専門的清掃とセルフケア指導。
- 必要な歯科治療、義歯調整、挿管時の歯の保護について専門科と調整。
- 手術後、退院後までの口腔機能維持と地域歯科への引き継ぎ。
実施内容は患者の全身状態、手術までの時間、治療目的で異なる。抜歯や薬剤の使用を患者が自己判断するものではない。
2012年、歯科が「手術チーム」の制度に入った
日本の転機は2012年度の診療報酬改定だった。厚生労働省は、歯科の重点配分に「チーム医療の推進」を置き、医療連携によって誤嚥性肺炎などの術後合併症を軽減する方針を示した。ここで周術期口腔機能管理の計画策定料と管理料が保険に組み込まれた。徳島大学病院の導入年は、この全国制度の開始と重なる。
2014年度改定では、手術を行う医療機関と歯科医療機関の連携が評価され、管理を受けた患者に対する手術料の加算が新設されるとともに、術前の管理料が引き上げられた。その後、対象となる治療や疾患は広がり、現在の制度・臨床上の名称は「周術期等口腔機能管理」である。名称の「等」は、手術だけでなく放射線治療や化学療法などを含む広がりを示す。
徳島大学病院も仕組みを積み上げた。2014年には同院の「周術期口腔機能管理の現状と課題」が臨床研究倫理審査委員会で承認され、2015年に青田氏らが報告した。現在の口腔管理センターは、診断から入院、治療、退院までを周術期と説明し、地域歯科への紹介までを任務に置く。病院の品質指標では、5大がんの手術患者に対する実施率が概ね60%で推移しているとする一方、全例に広げることを課題に挙げている。
2009年 今回の分析対象期間が始まる。
2012年 国が周術期口腔機能管理を診療報酬に導入。徳島大学病院も専門的口腔ケアを開始。
2014~15年 同院で運用の現状と課題を研究し、学内誌に報告。
2017~18年 食道がん7大学539例、全国がん手術50万9179例の観察研究が相次いで公表。
2024年 今回の16年間の観察期間が終了。
2026年5月 青田氏が学会でポスター発表。
2026年8月25日 徳島大学が約6万例の分析を報道発表。
既存研究は背中を押すが、同じ問いではない
徳島の結果は孤立していない。2017年、国内7大学で食道がん手術を受けた539人を調べた多施設後ろ向き研究では、103人、19.1%が術後肺炎を発症した。傾向スコアでそろえた420人の解析で、手術時間の長さ、術後嚥下障害、口腔ケアを受けなかったことが肺炎と関連した。
2018年の全国診療データ研究は、2012年5月~15年12月に頭頸部、食道、胃、大腸、肺、肝臓のがん切除を受けた50万9179人を解析した。歯科医師による術前口腔ケアを受けたのは16.0%。背景を重み付け調整した後の肺炎は3.28%対3.76%で、絶対差は0.48ポイント、95%信頼区間は0.32~0.64ポイントの減少だった。30日以内の全死亡も0.30%対0.42%だった。大きなデータでも、観察研究である点は変わらない。
2025年の胸部手術に限る系統的レビューとメタ解析は、無作為化試験9件と観察研究16件、計5万2227人をまとめ、周術期口腔ケア群の肺炎は11.6%、対照群は12.6%、統合リスク比0.54だった。ただし研究間のばらつきは大きく、I²は72%。手術の種類、ケアの内容、実施者、肺炎の定義が同じではない。
| 研究 | 対象 | 主な結果 | 読み方 |
|---|---|---|---|
| 徳島大学病院、2026年発表 | 全身麻酔手術約6万例、2009~24年 | 実施拡大と肺炎低下が並行。術前実施が低発症率と関連 | 病院全体・長期。絶対値と調整方法は未公表 |
| 食道がん7大学、2017年 | 539人、傾向スコア適合420人 | 口腔ケアなしが肺炎と関連 | 高リスク手術に特化した後ろ向き研究 |
| 全国がん手術、2018年 | 50万9179人 | 調整後3.28%対3.76%、差−0.48ポイント | 大規模だが請求データによる観察研究 |
| 胸部手術メタ解析、2025年 | 25研究、5万2227人 | 統合リスク比0.54、I²=72% | 方向は支持。介入と研究結果の不均一性が大きい |
これらは「歯科が無関係ではない」ことを一貫して示す。だが、食道がんや胸部手術の大きな効果を、そのまま全身麻酔手術すべてへ当てはめることはできない。基礎リスクが低い手術では絶対的な利益は小さくなる可能性があり、反対に高齢者、嚥下障害、長時間手術では重要度が上がるかもしれない。今回の診療科別データが公表されれば、どこに人員を優先するかが見えてくる。
16年の改善には、16年分の別の理由がある
2009年から2024年までに、手術は変わった。内視鏡・ロボット支援手術の普及、麻酔管理、抗菌薬の適正使用、早期離床、嚥下評価、呼吸リハビリテーション、周術期栄養、患者構成、診断・コーディングが変化した。2020年以降にはCOVID-19対策も入る。口腔ケアの実施率上昇と肺炎低下が同じ折れ線を描いても、第三の変化が両方を動かした可能性がある。
さらに、介入を受ける人は無作為に選ばれていない。歯科紹介が早い診療科は、もともと標準化された手術経路を持つかもしれない。急患は歯科介入の時間を確保しにくく、同時に肺炎リスクが高いかもしれない。逆に、重症者を優先して歯科へ回せば、口腔ケア群の見かけのリスクは高くなる。この「適応による交絡」をどこまで調整したかが、結論の強さを決める。
次の公表で必要なのは、年齢・性別だけではない。緊急/予定手術、ASA身体状態、喫煙、慢性肺疾患、脳血管疾患、栄養、手術部位・時間、挿管・人工呼吸期間、術後嚥下障害、年次と診療科を含む解析、欠測値の扱い、肺炎の診断基準、感度分析である。発表題に「診療科別比較」とある以上、科別の分母と絶対発症率も欠かせない。
標準化するなら、予約表から変える
大学は、術前口腔ケアを標準的な医療の一部として定着させたいとしている。実装の成否は、患者へ「手術までに歯医者へ行ってください」と頼むだけでは決まらない。外科で手術方針が決まった時点で自動的に歯科評価へつなぐ、緊急度と肺炎リスクで優先順位を付ける、院内歯科のない病院は地域歯科へ必要情報と期限を送る、抗血栓薬や骨吸収抑制薬などを医科と共有する。予約、情報、責任の流れを設計する必要がある。
評価指標も「歯科へ回した割合」だけでは足りない。紹介から診察までの日数、手術前に完了した割合、診療科別の肺炎1000手術当たり件数、予定手術の延期、歯科処置の有害事象、入院日数、再入院、患者負担、地域歯科への引き継ぎを同時に見るべきだ。高い実施率だけを追えば、直前の形式的な介入が増え、意味のある準備時間を失う。
- 手術が決まったら早めに、外科・麻酔科へ「術前の歯科評価は必要か」と尋ねる。
- ぐらつく歯、歯痛、腫れ、口内炎、義歯、飲み込みにくさを伝える。
- 服薬、特に抗血栓薬や骨に関わる薬を歯科にも正確に伝える。
- 自己判断で薬を止めたり、抜歯を急いだりしない。
- 歯磨きや含嗽は、病院の絶食・飲水指示と個別の説明に従う。
これは一般的な確認事項で、個別の診断・治療指示ではない。緊急手術を歯科受診のために遅らせる判断は患者自身で行わない。
口の中を、手術の「前室」にする
約6万例の価値は、劇的な新薬のような一発の効果ではない。歯科医師、歯科衛生士、外科医、麻酔科医、看護師、地域の歯科医院が、手術前の短い時間を共有すると、肺炎という重い合併症を減らせるかもしれない。その可能性を、16年分の実診療が示したことにある。
同時に、科学的な説得力は「約6万」という丸い数字では完成しない。患者が知りたいのは、自分と似た手術で何人が肺炎になり、口腔ケアでどれだけ変わり、どんな不利益があったかだ。病院が知りたいのは、限られた歯科人員をいつ、誰へ、どの内容で配置するかだ。その答えには全文データが要る。
徳島の発表は結論ではなく、運用改善と検証の入口である。手術室の感染対策は、扉の中だけで始まるものではない。口の中を手術の前室として扱い、その価値を絶対数と透明な方法で測る。そこまで進んで初めて、「術前口腔ケアが標準」という言葉が制度から日常の診療へ移る。
- 徳島大学 — 「術前口腔ケアで術後肺炎を防ぐ」プレスリリース(2026年8月25日)
- 徳島大学 — 同プレスリリース本文(PDF)
- 徳島大学大学院口腔内科学分野 — 2026年5月の学会発表記録
- 徳島大学 教育研究者総覧 — 青田桂子氏の氏名、読み、職名
- 徳島大学病院 — 口腔管理センターの診療内容・スタッフ
- 徳島大学病院 — 周術期口腔機能管理の品質指標
- 厚生労働省 — 平成24年度診療報酬改定の概要(2012年4月27日版、PDF)
- 厚生労働省 — 平成26年度診療報酬改定の概要・歯科(PDF)
- 青田桂子氏ら — 「徳島大学病院における周術期口腔機能管理の現状と課題」(2015年)
- Soutomeら — 食道がん手術7大学の多施設後ろ向き研究(2017年)
- Ishimaruら — 全国がん手術50万9179人の後ろ向きコホート研究(2018年)
- Duanら — 胸部手術25研究の系統的レビュー・メタ解析(2025年)
編集注:研究結果の表現は、大学本文の「関連」「傾向」に合わせ、因果を断定する「防いだ」「効果が証明された」とはしていない。正確な対象数、群別人数、肺炎の定義、絶対発症率、効果量、95%信頼区間、調整因子、欠測処理、資金源・利益相反は、確認できた2026年8月25日の公表資料に記載がない。査読付き論文の公開も確認できず、本文では学会ポスターと大学発表の段階であることを明示した。青田桂子氏の読みと職名は徳島大学公式の研究者総覧と病院ページで照合した。「周術期等口腔機能管理」は2026年時点の正式な診療用語、「周術期口腔機能管理」は2012年当時の制度名として使い分けた。既存研究の数値はそれぞれ異なる対象・設計であり、徳島の未公表効果量の代用にはしていない。画像は編集用イラストで実在の診療風景ではない。表示為替の2026年8月25日午後7時48分UTCは、日本時間の8月26日午前4時48分に換算した。
