目を奪うのは顔ではなく、まず鏡の背である。小さな手鏡の金が、白い肌と黒い髪の間に硬い光を置く。女は鏡を見ながら、右手を頬に寄せる。襟の花文様は色を載せず、紙を押して凹凸を出す空摺。背景は雲母が銀白色に光る。髪は大きな黒い塊ではなく、彫師が木に残した細線の束として立ち上がる。

橋口五葉(はしぐち・ごよう)の《化粧の女》は、大正7(1918)年の木版画である。メトロポリタン美術館(The Met)の所蔵品記録には「橋口五葉画 化粧の女」とあり、素材を「紙本、木版、墨、色、金、雲母」とする。画像寸法は54.9×38.7センチ。同館は2024年に購入し、オープンアクセス画像を公開しているが、8月28日現在は展示されていない。

鹿児島市立美術館も同じ図柄の一枚を所蔵し、「作家の最高傑作との評価を得ている」と紹介する。同館の読みは《化粧(けしょう)の女(おんな)》、寸法は51.0×36.3センチ。寸法差だけで版の状態や紙の裁断を断定することはできない。重要なのは、一つの「原画」が残ったのではなく、版木から摺られた複数の紙が、それぞれの保存歴を経て各地に残ったことである。

作品と記事の境界:本稿は展覧会評ではなく、公開所蔵情報に基づく「今日の美術」である。The Metの作品は現在非展示。見出しの「失われた」は版木と残部在庫を指し、すべての作品が震災で消えたという意味ではない。描かれた女性の個人名は、確認した所蔵品記録では特定できない。扉画像は編集イラストで、作品の複製ではない。
1918年《化粧の女》が私家版として刊行された年。
7点The Metが数える、五葉の生前に刊行された美人版画。
14種ウォルターズ美術館が数える、生前の木版画デザイン総数。
1923年版木と残部が焼失したとThe Metが記す関東大震災。

一枚の紙に、色を「置く」技術と「置かない」技術

《化粧の女》の豪華さは、金や雲母を使ったことだけでは説明できない。The Metの解説は、結い上げた髪と鹿の子絞りの布に摺師の技が集中し、襦袢の花文様と懐中鏡の覆いには空摺が使われたとする。色材を足すところと、紙だけを押して光と影をつくるところが同じ画面にある。

顔にも単純な「白塗り」以上の操作がある。目の下、唇と鼻孔の周囲、喉、胸元に、縁のぼけた桃色の版を重ねる。The Metは、それが肌に立体感を与えると説明する。五葉が東京美術学校西洋画科で身につけた人体把握は、木版の輪郭を油彩のように塗り込めるのではなく、別の版を薄く重ねる方法へ変換された。

背景の雲母摺は、正面から均一に見るための効果ではない。紙を傾けると光量が変わり、女の肌と髪の境界も変化する。写真では銀灰色の平面に見える部分が、実物では鑑賞者の動きに反応する。版画は固定された図像でありながら、光の条件を抱えた物体でもある。

五葉の近代性は、西洋の陰影を浮世絵へ足したことだけにない。色、金、雲母、紙の圧痕を別々の職人判断として統御し、一人の身体へ集めたことにある。

春信の色、清長の構図、歌麿の雲母を「引用」した

五葉は過去をぼんやりと敬ったのではない。The Metは、五葉がとりわけ評価した三人の浮世絵師を挙げる。鈴木春信からは情感を生む色、鳥居清長からは構図、喜多川歌麿からは意匠と銀白色の雲母地を取ろうとしたという。化粧中の女という主題も、歌麿が繰り返し扱った私的な身支度の場面につながる。

ただし、《化粧の女》は江戸の美人画を大正へ移植した復古作品ではない。画面は大判を超えるほど大きく、胸元までを近く捉え、手鏡はアール・ヌーヴォーを思わせる曲線をもつ。鹿児島市立美術館は、歌麿研究、西洋画による人体表現、精緻な髪、手鏡のアール・ヌーヴォー調が重なって「五葉独特の近代的浮世絵」をつくると説明する。

ここで「美人画」という分類を、そのまま実在人物の肖像と置き換えてはいけない。The Metは五葉の女性像を芸者や高級料理店・茶屋の給仕に由来する職業的な美の担い手と説明するが、《化粧の女》の個人名は記載していない。顔貌には観察の密度がある。それでも、誰を描いたかが分からない以上、本稿は固有名のある肖像画とは呼ばない。

画面を見る四つの入口
  1. 髪:黒の面ではなく、版木に残された細い線の密度を見る。
  2. 肌:目、鼻、喉、胸元に重なる淡い桃色のぼかしを追う。
  3. 紙:襟の花と鏡の覆いに、色のない空摺の凹凸を探す。
  4. 光:雲母地と金の鏡が、見る角度によってどう変わるかを想像する。

版画家になる前に、「美しい本」をつくっていた

国立国会図書館の公式人物記録は、五葉を1881年12月21日鹿児島生まれ、本名を清、1921年2月24日没とする。1899年に上京し、橋本雅邦に日本画を学んだ後、黒田清輝の勧めで洋画へ転じ、1905年に東京美術学校西洋画科を卒業した。

版画より先に名を広めたのは本だった。東京美術学校在学中、兄・貢の紹介で夏目漱石と知り合い、1905年刊『吾輩ハ猫デアル』上編の装幀を担当する。久留米市美術館の展覧会資料は、漢字と片仮名を交えた題字、朱と金の装飾、天金、アンカットの本文をペーパーナイフで開く形式を挙げる。表紙一枚ではなく、手に取り、切り開き、読み進める時間まで設計した仕事だった。

その後、五葉は漱石の著作11作を手がけ、泉鏡花、森鷗外らの本にも仕事を広げた。表紙、見返し、本文、紙、印刷を一体として考え、職人と調整する。府中市美術館が指摘するように、装幀で培った協業、素材への執着、花や小動物の装飾性は、後の版画へ続く。

1911年には、三越呉服店の懸賞広告で《此美人》が1等となり、賞金千円を得た。商業広告、本、絵画、浮世絵研究を別々の経歴として並べるより、「複製される像をどう統御するか」という一つの問題として見る方がよい。《化粧の女》で五葉が摺りまで細かく監督した理由は、本の世界で印刷結果が意匠を左右することを知っていたからでもある。

版元から離れ、彫師と摺師を自分で組織した

東京国立博物館は、新版画を「大正から昭和初期に、伝統的な木版画の技法で浮世絵に代わる新しい芸術を生み出そうとした」動きと説明する。絵師、彫師、摺師、版元の協業を受け継ぎながら、近代の折衷的な感覚を入れた。創作版画が「自画・自刻・自摺」を重んじたのに対し、新版画は分業を遅れではなく高度な制作体系として使った。

五葉が版元・渡邊庄三郎と制作した《浴場の女》は1915年。渡邊木版美術画舗はこれを日本人画家による新版画の第1作と位置づける。だが、五葉が渡邊から出したのはこの一図だけだった。1918年の《化粧の女》と《耶馬溪》以降は、版元に任せず、私家版として自ら制作を統御した。

The Metは、五葉が鉛筆の準備素描を重ね、彫師・高野七之助と摺師・染川堪造(同館英語表記では Somekawa Kanzō)に依頼したと記す。東京都江戸東京博物館の所蔵データも、1920年の《浴後の女》を「橋口五葉/画、高野七之助/彫、染川堪造/摺」と明記する。作者名だけを覚えると、髪の線を木に残した人と、色を紙へ移した人が歴史から消える。

それでも私家版を「完全な個人制作」と呼ぶことはできない。五葉が握ったのはすべての道具ではなく、最終判断だった。職人の専門性を選び、試し、許容できない摺りを退け、版行の質を自分の名の下に置く。分業と作者性は反対語ではなかった。

「美人画7点」と「全14種」は、どちらも正しい

五葉の希少性を説明するとき、数字はしばしば縮む。The Metは《化粧の女》を「五葉の生前に刊行された美人版画7点の最初」とし、家族が死後、生前に彫られた校合摺用の版木をもとに美人版画3点を刊行したと説明する。一方、ウォルターズ美術館は、五葉が1921年の死までに制作した木版画デザインを全14種、そのうち女性像を8種と数える。

二つは同じ集合を数えていない。「7」は生前刊行の美人版画、「14」は風景や花鳥を含む生前のデザイン総数である。さらに、「完成」「監修」「刊行」をどこに置くかで、死の前後にまたがった作品の数え方が変わる。だから「五葉は生涯に7点しか版画をつくらなかった」と書けば誤りになる。

国立国会図書館所蔵の『橋口五葉版画集』は、大正7〜9(1918〜20)年刊、12枚と記録される。電子展示では《耶馬溪》《化粧の女》のほか、《神戸之宵月》《京都三條大橋》《髪梳ける女》《夏衣の女》《浴後之女》《鴨》などを一続きで見られる。ここでも12枚は所蔵画集の構成であり、全作品目録ではない。

数字何を数えたか資料注意点
7点五葉の生前に刊行された美人版画The Met《化粧の女》解説風景・花鳥、死後刊行作を含まない
3点家族が死後に刊行した美人版画The Met《化粧の女》解説生前に彫られた校合用版木に基づくとの説明
14種五葉の死までの木版画デザイン総数ウォルターズ美術館女性像8種のほか、風景・花鳥を含む
12枚国会図書館所蔵『橋口五葉版画集』国立国会図書館所蔵資料の枚数で、総目録ではない

本人の死から2年後、版木は震災で失われた

五葉は1921年2月24日に死去した。国立国会図書館の記録は死因を示さないが、東京都江戸東京博物館の研究紀要は、感冒から脳膜炎を併発したとする。生年には公式機関間で1880年と1881年の揺れがあり、年齢表記も39歳、41歳などに分かれる。本稿は国立国会図書館「近代日本人の肖像」の1881年を本文基準とし、誤差を招く享年は用いない。

その2年後、1923年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とする推定マグニチュード7.9の関東大地震が起きた。内閣府によると、死者・行方不明者は約10万5千人、被害を受けた住家は約37万棟。国立公文書館は、東京中心部の約40%が焼失し、犠牲者の約9割が火災によると説明する。

The Metの作品解説は、この震災で五葉の小さな版画群の版木と残っていた在庫が破壊され、作品が非常に希少になったと記す。ここで確実に言えるのは、同館がそう位置づけることまでである。確認できた日本の公立美術館ページには、焼失場所、版木の総数、どの版木が例外的に残ったかを一括して確定する記録はなかった。

版木の焼失は、絵が一度失われたということではない。すでに摺られ、購入され、別の都市や国へ動いた紙は残った。逆にいえば、木版画の「原版」がなくても作品は存在し続ける。印象ごとの退色、裁断、摺りの差、所蔵歴が、同じ図柄を別の物体にする。

1881年 国立国会図書館の人物記録では12月21日、鹿児島生まれ。

1905年 東京美術学校西洋画科卒業。『吾輩ハ猫デアル』の装幀。

1911年 三越呉服店の懸賞広告《此美人》が1等。

1915年 渡邊版《浴場の女》を刊行。

1918年 私家版《化粧の女》《耶馬溪》を刊行。

1921年 2月24日死去。

1923年 関東大震災。The Metによれば版木と残部在庫を失う。

2024年 The Metが《化粧の女》一枚を購入。

残った摺りは、同じ大きさでも同じ経歴でもない

《化粧の女》は一館だけの「唯一作」ではない。鹿児島市立美術館、千葉市美術館、山梨県立美術館、スミソニアン国立アジア美術館などが同図の摺りを記録する。The Metの一枚は2024年購入で、スミソニアンの一枚はロバート・O・ミュラー・コレクションに由来する。作品が国境を越えた時期と経路は一様ではない。

各館の寸法も、The Met 54.9×38.7センチ、スミソニアン53.3×38.1センチ、鹿児島51.0×36.3センチ、山梨50.5×35.5センチと異なる。館によって「画像」「作品」「紙」の測定対象が違う可能性があり、裁断や余白の情報もそろわない。寸法表だけから初摺、後摺、保存状態を判定することはできない。

むしろ、公開データの粒度そのものが保存の現実を映す。The Metは金と雲母まで材質欄に記し、鹿児島は「木版・紙」、山梨は「木版」、スミソニアンは「紙に墨と色」とする。書かれていない材料が使われていないとは限らない。所蔵品データベースは作品そのものではなく、各館が公開した記録の範囲である。

オンラインで見るときの注意
  • The Metの画像はパブリックドメインで拡大・ダウンロードできる。
  • モニターでは雲母と空摺の反射・凹凸が平板になりやすい。
  • 「現在非展示」は所蔵していないという意味ではない。
  • 同じ図柄の寸法差だけで摺りの年代や真贋を判断しない。

今日選ぶ理由は、静かな像の背後に工房が見えるから

女は声を出さず、背景には家具も窓もない。だが《化粧の女》は孤独な像ではない。春信、清長、歌麿の記憶があり、西洋画教育があり、漱石の本とアール・ヌーヴォーの装飾がある。高野七之助の彫り、染川堪造の摺り、和紙、金、雲母、そして完成を見極めた五葉の監督が一枚に折り重なる。

関東大震災は、その制作を反復できる版木と売れ残った紙を奪った。しかし、破壊だけで希少性をロマン化してはならない。約10万5千人の死者・行方不明者を出した災害を、作品価格を上げた逸話へ縮めることはできない。版画史の損失は、都市、人命、住まい、仕事、記録が同時に失われた歴史の一部である。

それでも、紙は残った。《化粧の女》を今日の一枚に選ぶのは、失われた版木を想像するためだけではない。女の頬に置かれた薄い桃色、色を置かずに押した襟、髪の一本を残す彫りが、複製芸術は「同じものを何枚もつくる」単純な技術ではなかったと教えるからだ。

鏡の中は描かれない。女が何を確かめているかも、私たちには見えない。代わりに見えるのは、見るための道具を持つ手である。五葉は女性を一方的に眺めるだけの美人画に、自己を見る動作を置いた。その小さな反転が、百年前の版画をいまも近く感じさせる。

一次・公式資料

編集注:公式機関の生年表記は1880年と1881年に分かれる。本稿は国立国会図書館「近代日本人の肖像」の1881年12月21日を本文基準とし、相違は非公開の編集メモにも記録した。「新版画」は東京国立博物館などの現代表記を採用し、展覧会固有の表記「新板画」は引用時のみ使用。The Metの「生前7点」は美人版画の刊行数で、全版画数ではない。震災による版木・在庫の焼失はThe Metの所蔵品解説に帰属させ、焼失点数や保管場所は断定していない。為替更新時刻は8月26日午後7時24分(UTC)を日本時間8月27日午前4時24分に換算した。