大坂のにぎわいは、何によって絵になるのか。初代長谷川貞信(はせがわ・さだのぶ、1809~1879)の《雑喉場(ざこば)》では、屋根の重なりの下に人が集まり、籠を持ち、荷を運び、通りを行き交う。大きな建物や一人の人物よりも、仕事をする人々の密度が画面を動かしている。今日のアート・チョイスは、この魚市場の風景から大阪の商いを見つめたい。[1]
ここでいう「商人の気風」は、すべての大阪人に共通する性格を決めつける言葉ではない。物を集め、運び、受け渡す日々の仕事が、都市の風景としてどう描かれたかを考えるための視点である。貞信の絵を読むと、商いは帳簿の数字だけでなく、人の動きや街のつくりとして現れてくる。
まず、初代の《雑喉場》を確かめる
大阪府立図書館の「おおさかeコレクション」は、この作品を「浪花百景之内」、作者を「貞信(初代)画」と登録している。資料IDは02-0000202。同じ図書館には芳瀧が描いた別の《雑喉場》もあり、題名だけで検索すると異なる作品に行き当たる。作者と資料番号を確かめることが、鑑賞の出発点になる。[1],[8]
公開画像を見ると、上部には赤みを帯びた空、その下には横へ連なる暗い屋根が広がる。人々のいる一帯は、建物の大きな面に対して細かく区切られ、黄味のある籠が繰り返される。籠の形と人の向きに目を移していくと、画面のあちこちへ視線が誘われる。[1]
手前の屋根によって一部が隠れる構図も印象的だ。市場全体を測量図のように把握させるのではなく、街の一角をのぞき込む感覚が生まれる。絵の中に入り込めそうでありながら、すべては見通せない。その距離が、にぎわいを見る経験をつくっている。
商家に生まれ、役者絵から風景へ
図書館の略歴によると、貞信は大坂の茶巾・袱紗を商う家に生まれた。四条派の上田公長に学び、その後、歌川貞升や柳斎重春にも師事したという。初期には大判の役者絵を手掛け、天保の改革を境に風景画へと仕事を広げていった。[1]
大坂の役者絵には、地元の芝居を支える観客との結びつきがあった。大阪歴史博物館の解説は、道頓堀の劇場と歌舞伎への熱中を背景に、贔屓の人々によって役者絵が始められた経緯を説明している。浮世絵は、生活から遠い場所だけを描く美術ではなく、人々が楽しみ、知り、関わっている世界と近いところにあった。[4]
ただし、商家出身だから市場を描いた、役者絵を描いていたから市場の人物に演劇性がある、と一直線に説明することはできない。生い立ちと画歴は作品を考える手がかりであって、作者の意図を代弁する証拠ではない。確かに言えるのは、貞信の仕事が役者だけでなく、都市の場所と人の営みに及んだことである。
魚市場を支えた、水辺の場所
大阪市の解説では、雑喉場の魚市は百間堀川東岸の鷺島にあり、天満の青物市、堂島の米市と並ぶ大坂三大市場の一つだった。市場は、一つの町だけで完結する場所ではない。品物が集まり、そこから別の場所へ出ていく結節点として都市を支えていた。[5]
生鮮品を扱う仕事には、運ぶ距離や時間が関わる。貞信の絵から個々の取引価格や配送の仕組みを復元することはできないが、籠を携え、荷を動かす人物が何度も描かれることには目を止めたい。市場を市場たらしめる行為が、建築と同じくらい重要な視覚的要素になっている。
この絵を「昔の大阪は活気があった」とだけ読めば、労働の具体性は背景に退いてしまう。誰かが持ち上げ、誰かが運び、別の誰かが受け取る。そうした動作に注目すると、にぎわいは抽象的な都市の評判ではなく、多くの仕事が同時に進む状態として見えてくる。
心斎橋の初売りと見比べる
もう一枚の《心斎橋通初売之景(しんさいばしどおりはつうりのけい)》では、人と荷がさらに手前へ迫る。暗い空を背に提灯が並び、店の列が画面の奥へ延びている。大阪歴史博物館は、正月二日の初売りを描き、安堂寺橋通りと交わる辺りの景と解説する。作品の年代は幕末から明治初年としている。[2],[3]
魚市場の横への広がりに対し、こちらは店並みの奥行きが強い。大きな荷を担ぐ人、籠を持つ人、行き交う人々が前景を埋める。二つを比べると、貞信は単に人数を増やして繁盛を示すだけでなく、建物と人物の配置を変え、場所ごとの動きを組み立てていることがわかる。
初売りは日常の商いに暦の節目が重なる場面でもある。店が開き、荷が動き、人が集まる行為そのものが、新しい年の始まりを可視化する。大きな記念碑を主役にしなくても、都市の時間を描くことができる。
にぎわいの絵は、経済統計ではない
どちらの作品にも人が多い。しかし、その人数から当時の景気や個々の商人の豊かさを判断することはできない。版画は場所を選び、視点を定め、人物を配置した表現である。混雑がもたらす負担、荷の重さ、取引の不安など、絵だけではわからないことも残る。
それでも、商いの現場が鑑賞に値する風景として選ばれたことは大切だ。仕事をする人は、都市の名所に添えられた小さな飾りではない。人が動くから店並みは商店街となり、荷が集まるから建物の前は市場になる。貞信の風景は、その関係を見るよう促してくれる。
1931年、市場の仕組みは変わった
貞信の没後も、大阪の食品流通は同じ場所、同じ制度のまま続いたわけではない。大阪市の沿革によると、中央卸売市場本場は1931年11月11日、福島区野田に開場し、従来の私設卸売市場の多くを受け入れた。図書館の《雑喉場》解説も、中央卸売市場の開設に伴う旧市場の消滅を記している。[6],[1]
失われた市場を描く版画を見ることは、昔の商いをそのまま現在へ持ち込むことではない。都市が必要とする機能は続いても、それを担う施設や制度、働き方は変わる。だからこそ絵は、同じ都市がかつて別の形で動いていたことを考える資料になる。
Brian Limのインタビューと、時代を隔てて読む
本号のBrian Limインタビューは、海外のスタートアップが大阪で顧客や協業相手と関係を築く際の課題を扱う。Limは書面回答で、実証実験の目標や評価基準を共有し、複数の担当者との関係をつくり、経緯を記録することの重要性を指摘した。
貞信の市場と現代の企業連携は、同じ仕組みではない。それでも、抽象的な「大阪らしさ」より、誰が誰と何を受け渡すのかを見るという読み方は、両方に通じる。インタビューでは情報や合意、版画では荷と身体の動き。その違いを保ちながら、商いが人と人との具体的な仕事で成り立つことを考えられる。
名跡と作品を、次の見る人へ
貞信は1875年に長男の小信へ名を譲った。後代にも受け継がれた名跡であるため、「長谷川貞信」という名前だけで作品を同じ作者にまとめないことが必要だ。図書館の過去の特別展も、初代から続く画系を取り上げている。[1],[7]
まずは下記の図書館の作品ページで、原図を拡大して見てほしい。籠を一つ選び、それを持つ人物の向きを追う。次に建物の線へ目を移す。大阪の商人の気風を、性格を言い表す決まり文句から解き放つなら、そこに残るのは、日々の仕事が街の姿をつくるという実感だ。

