大地震のあと、便器に割れ目がなく、蛇口から少し水が出たとしても、すぐ流してよいとは限らない。集合住宅のポンプが停電で止まり、建物内の排水管がずれ、地中の下水管が傷んでいれば、上階で流した汚水が下階の便器や床からあふれることがある。見た目に無事なトイレこそ、確認前に使う危険を隠している。

江東区が2026年度に始めるのは、この「流さない判断」を約54万人の日常へ入れる試みだ。区の仕様書によれば、対象は4月1日時点で区に住民登録のある全世帯。世帯主宛てに、世帯人数×15回分の携帯トイレと、A5判・カラー20~30ページのガイドブック1冊を送る。

配るのは同じ製品15個ではない。便袋の中身を粉末や錠剤で固める凝固剤型、水分をシートに吸わせる吸収シート型、使用後の臭いを閉じ込める袋を備えた防臭袋付き型を、それぞれ5回分。区は住民に一度使ってもらい、住まい、家族、介護、保管場所に合う方式を知ったうえで、自費の備蓄を増やす入口にしたい。

15回分は「一生分」でも「一週間分」でもない。1日5回なら3日分。東京都が推奨する一週間分は35回で、各自がさらに20回分を補う必要がある。

何が、誰に、いくつ届くのか

項目江東区の公表・調達仕様
対象2026年4月1日時点で江東区に住民登録のある全世帯。世帯主名、住所、郵便番号、世帯人数などを使って配送する。
内容1人につき15回分。凝固剤型5、吸収シート型5、防臭袋付き型5。世帯ごとにガイドブック1冊。
説明製品説明は日本語・英語・中国語・韓国語。ガイドブックも英中韓のPDFをQRコードなどで案内する。
ガイドA5判、カラー、20~30ページ。戸建てとマンションを分け、使用法、衛生、備蓄、発災時の判断を説明。
問い合わせ配布開始から契約終了まで、平日午前9時~午後5時の通話無料コールセンター。外国語にも対応。
事業者公募型プロポーザルで大丸松坂屋百貨店が契約候補者に選定。5者が参加。
契約期間2027年3月31日まで。住所不明、転送、再配達、未配達への対応も業務に含む。
15回分/人3方式を各5回
約54.3万人2026年初めの区人口
約814.8万回人口からみた配布規模の概算
15億5826.9万円2026年度の事業予算

区の2026年1月1日人口543,193人を単純に15倍すると、約8,147,895回分になる。ただし、実際の対象は4月1日の住民登録で決まり、転出入もあるため、これは規模を示す概算であって契約数量ではない。予算15億5826万9000円は、7月17日の表示レート1ドル=162.43円なら約959万ドルに相当する。これも製品だけの単価ではなく、梱包、世帯別仕分け、ガイド制作、配送、再配達、コールセンターなどを含む事業費である。

「8月中旬開始」と「9月から」――二つの日程の読み方

大久保朋果区長が7月8日の定例記者会見で現物を示したとする東京MX系の最新報道は、配送開始を8月中旬としている。一方、選定時に公開された区の仕様書案は、製品とガイドブックの納入を8月下旬まで、各世帯への配送を9月から2027年2月下旬までとしていた。

これは必ずしも矛盾ではない。仕様書案は公募時の基準線で、事業者選定後に配送順序や準備が前倒しされた可能性がある。本稿の締め切り時点で、区の公式ウェブページには全地域の確定配達表が掲載されていない。従って「8月中旬」は最新の発表報道、「9月~2月」は公開調達仕様に記された当初工程として区別する。読者が確認すべきなのは、最終的な区の案内、対象世帯へ届く通知、コールセンターの開設日である。

なぜ15回分なのか――最低3日と推奨7日の間

東京都は、携帯・簡易トイレを最低3日分、できれば1週間分備蓄するよう求めている。計算の目安は1人1日5回。江東区の15回分はちょうど最低3日分に当たり、都の一週間推奨35回には20回足りない。

ここを「区が全必要量を配る」と誤解すると事業の狙いを外す。3方式を少量ずつ配る構成は、非常時だけ押し入れに置く一括給付というより、試用キットである。座る位置、便袋の固定、凝固までの時間、臭い、子どもや高齢者が扱えるか、手袋をしたまま封をできるかを平時に確かめ、自宅に合う商品を買い足す。その行動変容まで含めて初めて15回が防災になる。

東京都の2025年「東京トイレ防災マスタープラン」は、首都直下地震後の最初の1週間に、最大約5万7000基分のトイレ不足が起こり得ると推計する。避難所へ人と需要が集中しないよう、住宅が安全なら在宅避難を続けられる環境が必要だ。トイレの家庭備蓄は、個人の便利品であると同時に、避難所の限られた設備を本当に必要な人へ残す都市政策でもある。

便器が無事でも「流すな」――マンションの見えない連結

集合住宅では、各戸の便器が立て管、横引き管、公共下水へ一本につながる。停電で給水ポンプが止まれば上階へ水が上がらない。排水管の継ぎ目が外れれば、住民が浴槽の水を便器へ注いで流した瞬間、壁内や下階で漏れる。公共下水が健全でも建物側が壊れることがあり、逆もある。

そのため、発災直後は管理組合・管理会社・行政から安全確認が出るまで水洗を控え、便器に携帯トイレ用の袋を取り付けて使うのが基本になる。便器そのものが割れている、余震で倒れそう、汚水が逆流している場合は近づかない。使用済み袋の保管と収集方法は、製品説明、区の発災時案内、集合住宅のルールに従う。自治体ごと、災害ごとに収集条件が変わり得るため、平時の可燃ごみと同じだと一律に決めつけてはいけない。

江東区は海抜ゼロメートル地帯を多く抱え、河川氾濫や堤防決壊時には最大およそ10メートルの浸水を想定する地域もある。地震だけでなく、豪雨、高潮、長期停電でもポンプ、下水処理、収集が同時に制約される。高層階へ留まる在宅避難は命を守る一方、エレベーター停止中に水と使用済み廃棄物を階段で運ぶ負担を生む。

トイレを我慢すると、なぜ命に関わるのか

内閣府の避難所トイレガイドラインは、汚く、暗く、遠く、危険なトイレを避けるため、被災者が飲食を減らす連鎖を警告する。水分不足は脱水、便秘、尿路の問題を招き、動かない生活と重なると深部静脈血栓症、いわゆるエコノミークラス症候群の危険を高める。食事を減らせば栄養状態も落ちる。避難生活の体力低下と持病悪化が重なれば、災害関連死につながり得る。

排泄物を適切に隔離できなければ、細菌、害虫、臭気が生活空間へ広がる。手洗い水や清掃用品が乏しい状況では感染症リスクも高い。しかし問題は衛生だけではない。夜の照明、鍵、男女別、性的少数者への配慮、手すり、車いすの空間、オストメイト、乳幼児のおむつ替え、生理用品の廃棄、介助者と入れる広さは、安全と尊厳の条件である。

家庭キットはこの全てを解決しない。仮設トイレ、マンホールトイレ、トイレカー、福祉対応設備、清掃班、手洗い、照明、汚物回収、下水管点検を組み合わせる必要がある。配布は「インフラの代わり」ではなく、インフラが戻るまでの最初の層だ。

江戸では捨てず、肥料として売った

東京の排泄物史は、一直線に下水道へ進んだわけではない。江戸では長屋や武家屋敷のし尿が農村へ運ばれ、肥料として売買された。都市の養分が近郊の野菜になって戻る循環が、人口都市を支えた。臭いと衛生の問題はあっても、「水で遠くへ流して忘れる」方式ではなかった。

近代化の転機は感染症だった。1877年のコレラ流行などが都市衛生への危機感を強め、1884年、東京最初期の近代下水道「神田下水」の建設が始まった。その一部は現在も使われている。1922年には三河島汚水処分場が運転を始め、日本初の近代的な下水処理施設となった。翌1923年の関東大震災は東京の都市基盤を破壊し、復興と衛生整備を不可分にした。

戦時中に工事は停滞し、1961年度の23区下水道普及率は22%にすぎなかった。河川や海の汚濁が進み、隅田川花火大会も一時中止された。1978年度に普及率は70%へ上がり、花火が復活。1995年3月、23区は概成100%に達した。現在は約1万6221キロメートルの下水管、13の水再生センターが約949万人を支える。

この成功が、ボタン一つで流れることを当然にした。だが23区の約8割は雨水と汚水を同じ管で流す合流式で、老朽管、豪雨、停電、建物設備、地震損傷という複数の弱点がある。携帯トイレは近代下水道を否定するものではない。巨大な一体システムが止まった瞬間だけ、各家庭を小さな「汚物隔離設備」に変える現代の冗長性である。

1995年・神戸――高普及都市の盲点

阪神・淡路大震災当時、神戸市の下水道接続率は約97%だった。日常の衛生水準は高かったが、し尿をくみ取るバキューム車は約20台まで減っていたと内閣府資料は振り返る。食料、水、毛布、医薬品が優先され、トイレ対応は後手に回った。仮設トイレは早い所でも3日目、遅い所では11日目に届いた。

高い下水道普及率が災害時の代替能力を細くしていた。流せない便器が大量に生まれ、避難所では汚物があふれ、和式や段差のある仮設トイレを高齢者が使いにくかった。この経験は「食料と水の次にトイレ」では遅いこと、最初の数日を現地備蓄でつなぐ必要を全国へ示した。

中越、東日本、能登――同じ問題が形を変えて戻る

災害トイレの教訓
2004年 新潟県中越地震避難所で100人に1基では足りないとの不満。小千谷市の調査回答者33.3%、川口町13.8%がトイレ不安から水分を控えたと回答し、健康影響が可視化された。
2007年 新潟県中越沖地震断水直後に水洗使用を止め、備蓄した携帯・簡易トイレ、消毒液、ウェットティッシュを早期投入した対応が有効だった。
2011年 東日本大震災自治体調査では、仮設トイレが3日以内に行き渡ったとの回答は34%。最長65日かかった例もあり、寒冷、屋外、風、バキューム車不足が深刻化した。
2024年 能登半島地震道路・上下水道の広域被害で仮設設備の搬入が難航。トイレカーなど多方式の支援が有効だった一方、平時に車両在庫を把握していない課題が判明し、国は2025年に災害対応車両登録制度を始めた。

国は2016年に避難所トイレガイドラインを初めてまとめ、2022年、2024年12月に改定した。数だけでなく、発災直後、応急期、復旧期で方式を切り替え、掃除、衛生、照明、防犯、要配慮者、し尿処理まで計画する方向へ変わった。東京都も2025年3月に基本計画を策定し、当初は避難者50人に1基を確保しながら「トイレ空白地域」をなくす考えを示した。

約815万回分を配る物流と、その後のごみ

世帯人数ごとに内容量を変え、約30万世帯へ正しく届ける作業は、単純な一斉郵送ではない。仕様書は、区が受託者へ世帯主名、郵便番号、住所、世帯人数など必要情報を渡すと定める。受託者には、情報管理、宛名作成、梱包、転送、再配達、未配達品、問い合わせの記録が求められる。

高齢者、外国人、視覚・聴覚障害者、勤務時間が不規則な世帯にも理解できる説明が必要だ。4言語の説明と外国語PDFは重要だが、QRコードを読めない人、通信が切れた人もいる。紙の図解、読みやすい文字、地域の防災訓練、マンション管理組合の実演が補うべきである。

使用時には、数百万袋規模の廃棄物が短期間に生まれ得る。家庭で一時保管する場所、臭いと漏れの二重対策、集積所の容量、収集車の燃料と道路、焼却施設の受け入れを計画しなければ、配った製品が別の衛生危機になる。区のガイドブックと発災時広報が、災害の種類と処理能力に応じた収集ルールを明確にすることが次の焦点だ。

届いた日にすること――箱を備蓄へ変える8項目

行動理由
1. 人数と内容を確認1人15回、3方式各5回になっているか。不足・破損は案内窓口へ。
2. まず1回試す袋の固定、凝固・吸収、封の方法、臭い、家族の使いやすさを平時に知る。
3. 1週間へ買い足す5回/日なら35回。配布分を使わない前提でも、1人あと20回が目安。
4. 付属品をまとめるトイレットペーパー、手袋、手指衛生用品、ウェットティッシュ、照明、目隠し袋、清掃用品。
5. 使用可否の連絡系統を決めるマンション管理組合、管理会社、町会、区の情報を誰が確認するか。
6. 清潔・不潔を分ける未使用品、使用場所、封をした袋の仮置き場所を離し、子どもやペットから守る。
7. 家族ごとの配慮を追加介助用品、オストメイト用品、おむつ、生理用品、薬、消臭、手すり代替。
8. 期限と説明書を点検製品の保存条件・使用期限を守り、転居・家族増加後も数量を更新する。

実際の使用では製品と区の説明を優先する。一般的には便器の水面を別袋で覆ってから使用袋を重ねる方法があるが、製品構成は異なる。誤って凝固剤を便器の水へ直接入れたり、使用済みの袋を流したりしない。水洗再開も、自宅の見た目ではなく、建物と下水の安全確認に従う。

他区の先例――江東区だけの実験ではない

東京都内では、港区が2023年度に全世帯へ1人20回分を配り、その後は出生・転入者への配布を続けた。品川区は2024年10月、全区民を対象に1人20回分を配布し、2025年には災害時トイレ確保の計画を展開した。江東区の15回分は量こそ異なるが、家庭へ現物を届けて初動を分散する23区の流れに位置づく。

一律配布の強みは、備蓄の必要性を知らない世帯、価格や買い方で迷う世帯にも最低量が届くことだ。弱みは、すでに十分備蓄する人にも配ること、家族の特別なニーズを一種類の標準セットでは満たせないこと、配布後の補充率を保証できないことにある。成果は「配った箱数」だけでなく、住民が試した割合、一週間分へ補充した割合、マンションの排水停止ルール、訓練、未配達率で測るべきだ。

次に確認すべき十のこと

確認点なぜ重要か
確定した配送開始・地域順最新報道の8月中旬と、仕様書案の9月開始を公式日程で整理する。
4月1日の対象人数・世帯数実際の調達数量、配布率、概算との差を測る。
採用製品と性能保存期限、袋の強度、臭い、凝固・吸収性能、標準適合を確認する。
最終ガイドブック水洗停止、集合住宅、衛生、ごみ、アクセシビリティの説明を検証する。
未配達と転出入4月以後に転入した人、住所不明、長期不在への扱いを明確にする。
個人情報管理世帯名簿の受け渡し、保管、再委託、消去を監督する。
住民の試用率体験が自費の買い足しと正しい使用へつながったか。
マンション連携排水の安全確認、使用停止、保管、収集のルールが建物単位であるか。
収集・処理計画数百万の使用済み袋を、停電・道路被害下でどう集めるか。
継続性新住民、出生、使用期限、家族人数変化に対して更新するか。

結論――都市の強さは、流せない時に測られる

東京は、江戸の肥料循環から、コレラ対策、神田下水、三河島、戦後の普及工事を経て、ほぼ全家庭が水洗を疑わない都市になった。これは公衆衛生の大きな成功である。同時に、電気、水、建物配管、公共下水、収集、処理が一つでも切れれば排泄が行き場を失う、高度な依存でもある。

江東区の配布は、その弱点へ各家庭から一本の迂回路を作る。約15億6000万円、約815万回規模という数字は大きい。しかし1人15回は3日分であり、目的は「行政が全部用意した」と安心させることではない。三つの方式を試し、あと20回を足し、マンションのルールを決め、使用済み袋を安全に保管・収集する準備へ進ませることだ。

災害用トイレは目立たず、発災前には使われないほどよい。それでも水や食料と同じく、人が飲み、食べ、眠り、薬を飲み続ける前提を支える。大都市の回復力は高い塔や深い下水管だけでなく、誰もが「今日は流さない」と判断し、尊厳を保てる一袋から始まる。

出典・参考資料

編集注:本稿は2026年7月17日午前10時37分(日本時間)までに確認できた江東区・東京都・内閣府の資料、下水道局資料、報道に基づく。8月中旬開始は7月の会見を伝える最新報道、9月~2027年2月は公募時の仕様書案に記された当初工程として区別した。約814.8万回分は2026年1月1日人口×15の概算で、4月1日基準の実契約数量ではない。ドル換算は1ドル=162.43円による参考値。災害時の水洗再開、使用済み袋の保管・収集は、製品説明と区・建物管理者の最新指示に従う必要がある。