モジュラーシンセサイザーの低い音が空気だけでなく床を伝い、会場全体が振動しているように感じられる。全身から放たれた声が叫びとなり、その直後に深い静けさが来る。生身の身体とデジタル映像がいったん離れたように見えながら、別の層ではなお同期している。

これは、すでに見た公演を描写したものではない。9月22日に渋谷のSUPER DOMMUNEで行われる「エネルギー体現論」を初めて訪れる人に向け、藤本亮がJapan.co.jpへの書面回答で示した「起こり得る瞬間」のイメージだ。藤本が重視するのは、出来事を頭で分類するより先に、音、動き、光、振動に身体が反応してしまうことだ。 [1]

題名にある「エネルギー」は、測定可能な物理量についての科学的主張ではない。藤本が表現の枠組みとして使う言葉であり、内側にある衝動、記憶、感情が、呼吸や筋肉を変え、声やビートや振動として外へ現れ、他者や空間に作用していく過程を指している。 [1]

見えないものが、声と振動になる

藤本は今回の回答で、「energy embodiment」を、目に見えない力が声、振動、動きを通して具体的な形を得ることだと説明した。心や頭の中だけにある感情や記憶、衝動は、そのままでは内側にとどまる。しかし、それが呼吸を変え、筋肉を動かし、叫びやビートになった瞬間、他者に触れ得るものになるという。 [1]

声についても、技巧を見せるための道具としてだけは捉えていない。藤本にとって、声は生きた身体から最も直接的に発せられる信号の一つだ。声、叫び、ビート、歌、電子音の間を移動しながら、身体の内部にあったものが音として物質化し、人と空間の間に摩擦や変化を起こす状態を目指している。

この考え方は、本人の公式日本語プロフィールにもつながる。そこでは藤本亮を「儀式 / ヴォイス / 身体 & サウンドアーティスト」と位置付け、Wild Voice / Sakebi、Beat、Song、Electronicsという四つの状態を身体が往復する現在の実践を説明している。 [3]

取材について:今回Japan.co.jpに届いた回答は英語で書かれている。本日本語版では、本人が提示していない日本語の「直訳引用」を作らず、回答の内容を日本語記事として要約・再構成した。固有名詞や本人の活動上の表現は、日本語の公式資料で確認できるものを優先した。

約10年の友人関係から、一夜の連続性へ

出演するのはRyo Fujimoto、Itti、中田拓馬の3人。DOMMUNEの公式案内は、藤本を身体を核とする表現、Ittiを空間と構造を横断するプロデュース、中田を画と音が連動するオーディオビジュアル作品「auve」の作家として紹介している。 [2]

今回の取材で初めてはっきり見えてきたのが、3人の時間的なつながりだ。藤本によると、3人は約10年前から互いを知り、友人として付き合ってきた。表現の方法が似ているから集まったのではなく、「エネルギーがどのように現れるか」という問いに、それぞれ全く異なる方向から向き合っていることが、この組み合わせの核にあるという。 [1]

当日は各自のパフォーマンスが軸になるが、三つの独立したセットを単に並べる構成ではない。前の演目が残した緊張や振動を、次の演目が引き受け、応答していく。異なる表現が観客の身体の中で少しずつ重なり、夜全体が一つの動きとして感じられるような構成を考えているという。すべてを事前に説明せず、当日に発見できる部分も残す。 [1]

中央の人物と惑星を描き、Ryo Fujimoto、Itti、Takuma Nakataの名前を配したエネルギー体現論の公式ビジュアル
「エネルギー体現論」公式ビジュアル。Japan.co.jpへの提供画像を許可を得て掲載。公演は9月22日、SUPER DOMMUNEで行われる。

配信で見えるもの、会場でしか届かないもの

SUPER DOMMUNEでは、スタジオの観客とカメラ越しの視聴者が同時に存在する。公式案内は生配信を予定し、スタジオ観覧は50人限定としている。 [2]

藤本は、配信の価値を否定していない。カメラだからこそ、表情や映像の細部を近くで捉えられる。一方、現場でパフォーマンスを前へ進めるのは、目の前の観客の呼吸、緊張、身体的な反応だとする。低音が身体へかける圧力、動きによって押し出される空気、同じ空間にいる身体同士の緊張感までは、マイクやカメラで完全には運べない。 [1]

つまり「音を聞く」ことと、「演者から放たれたものに身体ごと浸される」ことの差が、今回の題名と会場の関係を具体的にする。映像配信は別の視点を与えるが、スタジオでは床、空気、距離、身体の存在そのものが鑑賞条件になる。

「エネルギー体現論」という題名は今回が初めてではない。SUPER DOMMUNEでは2024年5月にも、Ryo Fujimoto、Takeshi Nishimoto、SAROによる同名プログラムが行われた。2026年版は出演者を変えながら、見えない力を身体や音として立ち上げるという問いを引き継いでいると位置付けられる。 [6]

中田拓馬の「auve」――映像が音の材料になる

中田拓馬の「auve」は、今回の公演が音楽だけに閉じないことを理解する手掛かりになる。Flying Tokyo 2024の公式説明では、画像を解析して音に変換するオーディオビジュアル作品とされ、目まぐるしく変化する映像の中に潜むリズムやテンポを、複数のピクセル解析手法によって浮かび上がらせる試みとして紹介されている。 [5]

これは、9月22日の内容を過去の上演から推測するための情報ではない。当日の具体的な構成は公式発表以上には分からない。ただ、映像が音楽の「背景」ではなく、音を生み出す側にも回るという発想を知っておくと、画面を見る行為と音を聴く行為が別々ではなくなる。

Ittiについては、今回の公式案内が東京を拠点に活動するプロデューサーとして紹介し、ブエノスアイレスのMUTEK.AR出演や、空間と構造を横断する活動に触れている。 [2] 3人の違いは、統一するために消すものではなく、夜の中で次の表現を動かすための差異として残される。

東京の実験的な表現は、ジャンルの境界からはみ出している

東京の現在をどう見るかという問いに対し、藤本は「この一夜が東京文化の代表である」とは答えていない。むしろ、音楽、視覚芸術、身体パフォーマンス、テクノロジーの境界が薄くなり、ジャンル名よりも「異なる方法が知覚や空間体験をどう変えるか」が重要になっているという見方を示した。 [1]

もう一つ重要なのは、文化が大きな施設や完成された作品だけで支えられているのではないという指摘だ。小さな場所での実験、異なる分野の人が出会うこと、その場で生まれる予測しにくい衝突が、都市の文化を更新し続ける。渋谷PARCOの9階にあるSUPER DOMMUNEは、その意味で分かりやすい場所だ。商業施設の中にありながら、コンサート、ギャラリー、放送、身体表現のいずれか一つに収まり切らない出来事が生まれる。

藤本が描く東京は、完成した文化像を掲げる都市ではなく、異質なものがぶつかり、新しい状態が立ち上がる「動き続ける都市」だ。今回の3人の組み合わせも、その考えを縮小した模型のように見ることができる。

「分からない」は、入口から排除される理由ではない

実験的な音楽に慣れていない人への言葉を求めると、藤本は専門知識は必要なく、「正しい聴き方」もないという立場を示した。そもそも本人自身、「experimental music」という分類に完全には居心地の良さを感じていない。意味を探し当てようとするより、音が近づいたとき、自分の身体がどう反応するかに気付いてほしいという。 [1]

目を閉じてもいい。映像だけに集中してもいい。不安、心地よさ、怖さ、もっと体験したいという気持ち――どれも鑑賞の失敗ではない。理解できないことそのものが、体験の一部になり得る。

藤本が公演後に望むのは、観客が何か一つの意味を正解として持ち帰ることではない。2時間後、会場に入ったときとは少し違う身体に自分がいると感じてもらえれば、それで十分だという。 [1]

「エネルギー体現論」への入り口は、実験音楽の知識量ではなく、床の振動、声の出る身体、沈黙の長さ、映像と音のずれや一致に気付くことにある。理解は、その後に来てもいい。来なくても、体験はすでに始まっている。

開催情報

「エネルギー体現論」ENERGY EMBODIMENT THEORY
日時2026年9月22日(火・祝)19:30〜21:30
会場SUPER DOMMUNE(渋谷PARCO 9階)
住所東京都渋谷区宇田川町15-1
出演Ryo Fujimoto・Itti・Takuma Nakata
入場料3,000円
スタジオ観覧公式案内では限定50人
予約Peatix公式予約ページ
公式案内SUPER DOMMUNE 公演ページ

公式案内では生配信も予定され、スタジオ来場者が配信映像に映り込む場合があるとしている。 [2]