声を聴いているのに、身体の動きから目が離せない。映像を見ているのに、その変化を耳でも追いたくなる。音と身体、画面の関係に目を向けると、ライブの見方は少し変わる。9月22日、渋谷PARCOのSUPER DOMMUNEで開かれる「エネルギー体現論」は、その関係を考える入口になりそうだ。
出演はRyo Fujimoto、Itti、Takuma Nakataの3人。英題はENERGY EMBODIMENT THEORY。声と身体を軸にする表現、電子音の構成、音と映像の連動という異なる取り組みを、一夜のプログラムで紹介する。[1]
まず知っておきたい公演情報
| 日時 | 2026年9月22日(火)19:30〜21:30(日本時間) |
|---|---|
| 会場 | SUPER DOMMUNE、渋谷PARCO 9階 |
| 住所 | 東京都渋谷区宇田川町15-1 |
| 入場料 | 3,000円 |
| スタジオ観覧 | 公式案内では限定50人 |
| 予約 | Peatixの公演ページ |
開催概要はDOMMUNEの公式案内による。公演は生配信され、来場者がカメラに映る場合がある。[1]
Ryo Fujimoto――声を出す身体を、表現の中心へ
Fujimotoの公式プロフィールには、ビートボックスを背景に、声とライブ・エレクトロニクスを組み合わせたHumanelectroの活動が記されている。現在の制作については、声、ビート、歌、電子音の間を身体が行き来するものとして説明している。これは本人による実践の位置付けである。[2]
別に公開する英語のステートメントでも、叫びや呼吸、反射といった身体から生じる信号を、電気的な変換や振動へ展開する考え方を述べる。身体から音を取り出して終わるのではなく、音を出した身体が周囲からも働きかけを受ける、という相互作用が関心の中心にある。[3]
この説明を鑑賞の手掛かりにするなら、音の種類を言い当てる前に、音が出る瞬間の姿勢や動きへ目を向けてみたい。同じ短い音でも、身体の動きとともに受け止めると、聴こえ方が変わるかもしれない。これは本誌からの見方の提案であり、当日の動作や曲順を予告するものではない。
題名の「エネルギー」も、発電量のように測る対象ではなく、今回の公演を束ねる表現上の言葉として読むのが自然だ。Fujimotoが自身の文章で用いる儀式という考え方も、既存の宗教儀礼の再現を意味するとは限らない。本人の制作論として、その言葉がどんな体験を指すのかを考える余地がある。[2][3]
Itti――音の配置に耳を向ける
公式公演案内は、Ittiを東京を拠点に活動するプロデューサーとして紹介し、ブエノスアイレスのMUTEK.ARへの出演にも触れている。空間と構造への関心を掲げた紹介であり、その説明は公演側のプロフィールに基づく。[1]
身体が音を生む場面と並べて、音がどのように配置され、続いていくかを聴く。3人の名前が並ぶ今回のプログラムには、そうした聴き方の切り替えを試す面白さがある。強い音だけを追うのではなく、音と音の間、反復の長さ、変化が起こるタイミングに注意を向けることもできる。
専門的なジャンル名を知っていることと、変化に気付くことは別の力だ。初めて聴く表現でも、落ち着く瞬間や、次を待ちたくなる瞬間は自分の感覚で捉えられる。知識を増やす楽しみは、その後から加わってもよい。
中田拓馬「auve」――画像から音をつくる
Takuma Nakataの日本語表記は中田拓馬。ライゾマティクスが企画・運営した育成プログラム「Flying Tokyo 2024」の公式資料に、氏名と「auve」の制作内容が掲載されている。画像を解析し、その情報を音へ変換する作品で、ピクセルの解析を通じて映像の動きに含まれるリズムやテンポを探るという。[4]
音に映像を添える、という理解だけでは捉えきれない仕組みだ。画像が音を生む材料にもなるなら、画面上の変化を見ることは、音楽が組み立てられる過程を見ることにもつながる。本誌としては、この関係に注目することで、オーディオビジュアルという言葉を具体的な鑑賞の問いにできると考える。
「auve」は、2025年1月の同プログラム成果発表で、展示とパフォーマンスの双方として紹介された。中田の公式サイトも、この育成プログラムで音と映像を同時に生成する独自システムを開発したと説明する。今回の公演は、そうした制作の積み重ねを背景に見ることができる。[4][7]
制作の履歴があることは、9月22日の上演内容を過去の発表と同一に決めつける理由にはならない。ただ、作品名だけでは分かりにくい技術と表現の関係を知るために、過去の公式資料は有効な手掛かりになる。
2010年の開局から続く、現場と配信の関係
会場そのものにも歴史がある。DOMMUNEは、アーティストの宇川直宏が2010年3月1日に開局したライブストリーミングのスタジオ兼チャンネルだ。公式の沿革では、宇川はそこで行う撮影、配信、記録を自身の美術実践として位置付けている。[5]
この考え方では、カメラは公演の外側に置かれた単なる記録装置ではない。何を映し、どの瞬間を届けるかが、遠くの観客の体験を形づくる。一つの場所で起こる出来事と、画面を通して届く出来事を、同時に考える場でもある。
現在の渋谷PARCO公式施設案内は、9階のSUPER DOMMUNEをDOMMUNEの発展形として紹介している。買い物や飲食で訪れる建物の中に、音楽と映像を発信するスタジオがある。その配置は、東京の文化を街路の看板だけから判断しないための小さな手掛かりにもなる。[6]
スタジオへ行く人、画面から見る人
現地では、自分の視線で演者と空間を見渡せる。配信では、カメラが選んだ構図を通して見る。この違いは優劣というより、どこに注意を向けられるかの違いだ。身体と音と映像の関係を問う公演だからこそ、鑑賞する側の位置にも意識を向けたい。
来場時の実務も確認しておこう。公式案内では、スタジオにクロークやロッカーはなく、飲み物の持ち込みは控えるよう求めている。配信はDOMMUNEの公式サイトまたはYouTubeチャンネルで案内される。[1]
Fujimotoが本誌に寄せた案内によると、受付では英語の補助対応が可能という。ただし、プログラム全体を英語で行うとの案内ではない。言葉の対応と作品の鑑賞は分けて考え、必要な条件は予約前に確認したい。
Japan.co.jpの視点:分からなさを、観察の入口に
今回の公演を、東京の実験的な音楽表現すべての代表とする必要はない。3人の実践が一つのスタジオに集まる、具体的な機会として見る方が、違いも発見も見えやすい。
声はどこまで音の素材になるのか。画像から生まれる音を、目と耳はどう受け止めるのか。配信される場に居合わせると、自分の聴き方は変わるのか。答えを準備して行く必要はない。何に気付き、何が気になったかを持ち帰ることから、この夜の楽しみは始まる。
