体育館で鳴る笛が、全員に同じように届くとは限らない。ならば旗を上げる。スタート音が聞こえなければ、光で知らせる。ボールが見えにくければ、音を手掛かりにする。車いすで鋭く切り返すには、床との摩擦と重心を読む。スポーツは、身体の違いを隠すのではなく、環境の側を組み替える方法を目の前で示す。
神奈川県は9月から2027年3月まで、デフスポーツとパラスポーツのアスリートを県内の公立小学校、中学校、高校、特別支援学校へ講師として派遣する。事業名は「スポーツでつながるみらい授業」。講義だけでなく、競技体験、デモンストレーション見学、質疑応答を組み合わせ、20校での実施を予定している。
9月4日に公表された別紙で日程と学校、競技、講師が確認できるのは17校分だ。初回は9月11日、県立秦野総合高等学校で車いすバスケットボールを扱い、鈴木百萌子(すずき・ももこ)さんが講師を務める。県の過去の公式紹介では、鈴木さんは女子車いすバスケットボールチーム「WING」でプレーしてきた選手として掲載されている。
県は、この事業を2025年11月に日本で初めて開かれた東京2025デフリンピックの「レガシー」と位置付ける。ただし、レガシーは大会名を次のイベントへ貼り替えるだけでは残らない。児童生徒が授業の翌日から、誰にどんな情報が届いていないかを考え、合図、ルール、声の掛け方を変えられるか。そこまでつながって、初めて学校文化の一部になる。
競技を「見る」から、仕組みを「試す」へ
公表された競技は多様だ。車いすバスケットボールとパラサイクリング、ゴールボール、ブラインドフットボールに加え、デフフットサル、デフ陸上、デフハンドボール、デフサッカー、デフバスケットボール、デフ自転車、デフテニスが並ぶ。横浜、平塚、小田原、厚木、横須賀、真鶴、清川など、都市部から県西・県央部まで広がる。
この幅は大切だ。「障害者スポーツ」を一つの競技のように扱うと、何を変えれば参加できるのかが見えなくなる。視覚情報を増やす競技もあれば、音源の位置を読み取る競技もある。競技用車いすやタンデム自転車のように用具が役割を持つ場合もある。障害の種類、競技、選手ごとに必要な工夫は異なる。
| 日付 | 学校 | 競技 | 講師(敬称略) |
|---|---|---|---|
| 9月11日 | 県立秦野総合高等学校 | 車いすバスケットボール | 鈴木百萌子 |
| 9月29日 | 平塚市立大原小学校 | パラサイクリング | 石井雅史 |
| 10月14日 | 厚木市立上荻野小学校 | デフフットサル | 設楽武秀 |
| 10月16日 | 県立相模原城山高等学校 | 車いすバスケットボール | 鈴木百萌子 |
| 10月28日 | 県立相模原中央支援学校 | デフ陸上 | 川口穂菜美 |
| 11月11日 | 県立平塚ろう学校 | デフハンドボール | 加賀屋圭一 |
| 11月18日 | 真鶴町立まなづる小学校 | デフサッカー | 岡田侑也 |
| 11月19日 | 小田原市立町田小学校 | ゴールボール | 鳥居陽生 |
| 11月25日 | 横浜市立本宿小学校 | デフバスケットボール | 丸山香織、加藤志希、加藤志野 |
| 12月14日 | 清川村立緑中学校 | デフサッカー | 阿部菜摘 |
| 12月18日 | 県立二俣川高等学校 | 車いすバスケットボール | 鈴木百萌子 |
| 12月18日 | 県立二宮高等学校 | デフ自転車 | 早瀨久美 |
| 1月13日 | 横浜市立高舟台小学校 | パラサイクリング | 石井雅史 |
| 1月25日 | 横須賀市立池上小学校 | ブラインドフットボール | 北郷宗大 |
| 2月2日 | 平塚市立大野中学校 | 車いすバスケットボール | 古澤拓也 |
| 2月24日 | 横浜市立今宿中学校 | デフテニス | 宮川百合亜 |
| 2月25日 | 小田原市立白山中学校 | デフバスケットボール | 丸山香織、加藤志希、加藤志野 |
表記は県の別紙に従った。日程は9月4日時点で調整中であり、変更の可能性がある。授業は一般公開されない。取材も学校との事前調整が必要で、県は各校への直接の問い合わせを控えるよう求めている。児童生徒の学びとプライバシーを守るうえで必要な線引きだ。
デフスポーツとパラスポーツは同義ではない
今回の事業を理解するには、名称を丁寧に分ける必要がある。デフリンピックは、国際ろう者スポーツ委員会(ICSD)が主催する、きこえない・きこえにくい選手の国際総合競技大会で、パラリンピックとは別の大会体系を持つ。第1回夏季大会は1924年にパリで開かれ、9カ国148人が参加した。2025年の東京大会は第25回夏季大会で、日本初開催、そして100周年の節目だった。
デフスポーツでは、多くの競技ルールは一般の競技とほぼ同じだが、音で伝えてきた情報を視覚化する。陸上や水泳のスタートにはランプを使い、球技では審判が笛とともに旗や手を上げる。全日本ろうあ連盟は、こうした「目で分かる」ための工夫を「視覚保障」と説明する。それは選手への特別扱いではなく、情報へ公平にアクセスするための設計である。
一方、パラスポーツは視覚、肢体、知的など多様な障害を含み、競技ごとにクラス分け、用具、介助者、ルールの設計が異なる。ゴールボールでは鈴入りのボールの音が重要で、観客にはプレー中の静けさが求められる。車いすバスケットボールでは、競技用車いすを操る技術と選手の持ち点を用いたチーム編成が競技性を形づくる。同じ「配慮」でも、増やす情報と抑える情報は競技によって逆になる。
大会の余韻を、制度へ移す
東京2025デフリンピックの開催は、ゴールではなく政策の試金石だった。大会が終われば、会場の照明も広報も消える。残る価値は、競技で使われた視覚情報やコミュニケーションの工夫が、学校、職場、交通、災害情報などの日常へ移るかどうかで決まる。
国の手話政策も同じ時期に大きく動いた。2025年6月、全会一致で成立した「手話に関する施策の推進に関する法律」(令和7年法律第78号)が公布、施行された。法律は、手話を使用する人にとって、手話が言語その他の重要な意思疎通手段であることを明記し、国と地方公共団体に、習得・使用、手話文化の保存・継承・発展、理解と関心の増進へ取り組む責務を定めた。
だから、教室で手話を「珍しいもの」として数語まねるだけでは足りない。デフアスリートが、どの情報を、どの位置から、どのタイミングで受け取るかを児童生徒と一緒に確かめる。その経験を、朝礼の字幕、校内放送の代替、グループ活動で顔を見て話す配置へつなげれば、スポーツは言語と情報アクセスを考える実験室になる。
神奈川県にも積み重ねがある。県は「かながわパラスポーツ」を、障害の有無や程度にかかわらず、それぞれの運動機能を生かしてスポーツを「する」「観る」「支える」考え方として広げてきた。2026年3月策定の第2期県スポーツ推進計画は、「スポーツを通じた共生社会の実現」を四つの施策視点の一つに掲げる。2024年度に週1回以上スポーツをした障害者の割合は34.5%で、2030年度目標は40%だ。
学校授業は、その実施率を直接押し上げる事業ではない。しかし、子どもの頃に「自分もできる競技がある」「用具や合図を変えれば一緒にできる」と知ることは、参加の入口を広げる。観戦者、指導者、ボランティア、競技者のいずれになるにせよ、接点を持てる環境がなければ数字は動かない。
1924年 — パリで第1回夏季デフリンピック。9カ国148人が参加。
2015年 — 神奈川県が「かながわパラスポーツ」の普及を本格化。
2021年 — 1年延期された東京2020パラリンピックが開催され、学校でのオリ・パラ教育も全国展開。
2025年6月 — 手話に関する施策の推進に関する法律が成立、公布・施行。
2025年11月 — 東京2025デフリンピックが日本で初開催。
2026年9月 — 神奈川県の「スポーツでつながるみらい授業」が始まる。
一度の感動を、学習に変える条件
アスリートが学校を訪れる授業には強みがある。速さ、判断、用具操作、チーム内の合図を間近で見れば、映像だけでは伝わらない競技性が立ち上がる。児童生徒は本人へ質問でき、障害について第三者が代わって説明するのではなく、経験の当事者から聞ける。
ただし、「会えたこと」と「学べたこと」は同じではない。スポーツ庁の全国展開事業に参加した小・中・高校、特別支援学校の教員124人を対象とした2020年の研究は、選手による講演や実技指導が興味・関心、障害理解などと結びつく一方、日程調整、教材準備、用具・施設、教員間の協力、継続性が課題になると報告した。教員の自由記述を分析した研究であり、児童生徒の長期的な行動変化を実証したものではない点にも注意が要る。
同じ研究は、事前・事後学習、教科横断、映像教材の活用、学校全体での協力を促進策として挙げる。神奈川の授業でも、訪問前に競技と情報保障を調べ、当日は体験し、訪問後に校内の障壁を探して改善案をつくるという三段階にすれば、選手の言葉が自分の環境へ戻ってくる。
「みらい授業」を一日で終わらせない五つの設計
- 事前: 競技のルールと「何が障壁になるか」を児童生徒が予想する。
- 当日: 講演だけでなく、合図、用具、連携を体で試し、選手へ質問する。
- 事後: 校内放送、体育、行事、避難訓練の情報アクセスを点検する。
- 当事者性: 選手本人の言葉と選択を中心にし、教師が物語を単純化しない。
- 評価: 満足度だけでなく、知識、態度、行動、スポーツ参加を時間を置いて測る。
「障害を乗り越えた人」に閉じ込めない
学校訪問で最も注意したいのは、選手を「障害にも負けず努力した感動の人」としてのみ紹介することだ。努力や競技成績は尊敬に値する。だが、物語が「本人の強さ」に偏ると、情報が音声だけ、施設に段差がある、近隣に参加できるクラブがないといった社会側の障壁が消えてしまう。
アスリートは福祉教材ではなく、競技の専門家だ。車いすの旋回、相手との駆け引き、戦術、練習、敗戦、チーム内のコミュニケーションまで聞いて初めて、児童生徒は「かわいそう」と「すごい」の二択を離れ、スポーツとして見ることができる。デフとパラの選手を同じ事業へ招くからこそ、共通点を探すだけでなく、それぞれの競技文化と制度の違いを尊重する必要がある。
授業のアクセシビリティ自体も試される。手話通訳、字幕、発言者の位置、資料の文字サイズ、触って確かめられる用具、休憩、介助など、必要な方法は講師と児童生徒によって変わる。県の発表は各校の具体的な情報保障を示していない。実施後に、どの方法が機能し、何を改めたかを共有できれば、20校だけでなく県内全体の教師が使える知識になる。
20校から、日常の参加へ
今回の授業は、県の既存のパラスポーツ講師派遣や用具貸し出し、人材育成とつながる可能性がある。学校で関心を持った児童生徒が、次に参加できる地域クラブや体験会へ進める導線があれば、一回の授業が継続的なスポーツ参加になる。反対に、体験後の選択肢が示されなければ、興味はその場で止まる。
評価にも透明性が要る。20校を何を基準に選び、誰が何を学び、教員の授業づくりがどう変わったのか。障害のある児童生徒自身は授業をどう受け止めたのか。年度末に参加人数とアンケートを集計するだけでなく、数カ月後の行動や校内の改善を追えば、次年度の設計に使える。
9月11日にボールが床を打つとき、重要なのは見事なプレーだけではない。誰が合図を受け取り、誰が取り残され、どうすれば一緒に動けるかを教室全体で考えることだ。大会のレガシーは記念品ではなく、日常の手順に宿る。20校の授業が残すべきものは、感動の記憶よりも、参加できる条件をつくり直す習慣である。
一次資料・研究
- 神奈川県「令和8年度デフアスリート・パラアスリートから学ぶ『スポーツでつながるみらい授業』を実施します!」 — 2026年9月4日。事業目的、期間、20校の計画、授業内容、公開・取材条件。
- 神奈川県「実施日・実施校・競技名・講師一覧」 — 2026年9月4日時点の17校の日程と講師。表記確認に使用。
- 全日本ろうあ連盟「デフリンピックのご紹介」 — 大会史、競技資格、視覚保障、スタートランプと旗による合図。
- 日本ゴールボール協会「ゴールボールとは」 — 鈴入りボール、アイシェード、音を用いる競技設計。
- 内閣府「手話に関する施策の推進」 — 2025年の法律成立・施行と、手話の位置付け。
- 神奈川県「第2期神奈川県スポーツ推進計画」 — 2026年3月。共生社会、東京2025大会、障害者のスポーツ実施率と2030年度目標。
- 神奈川県「パラスポーツ」 — かながわパラスポーツの理念、教室、用具貸し出し、人材育成、講師派遣。
- 神奈川県「女子車椅子バスケットボールチーム『ウィング』」 — 鈴木百萌子さんの氏名・読みと競技歴の確認。
- スポーツ庁「オリンピック・パラリンピック・ムーブメント全国展開事業」 — 学校教育の全国展開と実践事例・総括資料。
- 岡田悠佑ほか「教員の視点から見たオリンピック・パラリンピック教育の促進方法に関する研究」、『スポーツ教育学研究』40巻2号、2020年 — 教員124人の自由記述による効果、課題、促進策。
- 宮崎明世「学校におけるオリンピック・パラリンピック教育の展開と評価」、『体育学研究』、2019年先行公開 — 2016・2017年度の推進校報告書の分析。
取材・検証メモ: 本稿は2026年9月5日午前8時(日本時間)までに公開された資料を基にした。事業名、組織名、学校名、講師名、日付、競技名、法令名、統計、専門用語は神奈川県、内閣府、スポーツ庁、全日本ろうあ連盟などの日本語一次資料で照合した。講師名の読みは本文で使用した鈴木百萌子さんのみ公式県資料で確認し、未確認の読みは推測していない。17校の一覧は県の公表順ではなく実施日順。残る3校、対象学年・人数、授業時間、教材、各校の情報保障、選定基準、講師謝金、総事業費、効果測定、2027年度以降の継続は確認できず、推定していない。日本語版と英語版は別々に構成・執筆した。
画像の権利: © 2026 Japan.co.jp. AI支援による編集イラスト。許可なく複製・再利用できません。ライセンスについてはお問い合わせページをご覧ください。