午前6時、横浜港のガントリークレーンが動く。コンテナの外から、中身の政治は見えない。そこにはインドネシアのニッケル、中国で精錬された黒鉛、ベトナムで組み立てた電子機器、米国の設計、日本の工作機械が、一つの商品として積まれているかもしれない。原産国は一行で書けても、依存関係は一行では書けない。
2026年6月30日に公表された第78回「通商白書」は、その見えない線を地図へ戻す。題は「動乱の中の世界経済と新興国経済」。世界の経済政策不確実性指数は、2000年以降で最高水準に達した。中国の新興国市場への輸出は増え、新興国の輸入に占める中国の割合は2000年の約4%から2024年の約26%へ上がった。重要鉱物は採掘地だけでなく、精錬工程でさらに特定国へ集中する。
白書の答えは「鎖国」ではない。特定国への過剰依存を減らしつつ、輸出、対内外投資、EPA、同志国と新興国との連携を広げる。経済安全保障と自由貿易を対立させず、危機管理の投資を新しい需要へ変える「信頼できる経済圏」を構想する。その言葉は魅力的だが、誰を信頼できると決めるのか、費用を誰が払うのかという政治を隠す危険もある。
不確実性が「事件」から「経営環境」になった
かつて不確実性は、戦争、金融危機、災害のたびに急上昇し、その後下がる波として考えられた。白書が示す世界の経済政策不確実性指数は、2000年代の一時的な山から、2010年代以降の上昇トレンドへ変わっている。2025年には米国、カナダ、メキシコ、ブラジルで高水準を記録し、中国、韓国、シンガポールでも上向いた。
指数は新聞記事に「経済」「政策」「不確実性」に関する語が同時に現れる頻度を使う。恐怖を直接測る温度計ではなく、国ごとの新聞構造にも左右される。それでも、経営者が直面する現実をよく表す。関税率が高いことより、来月の率が分からない方が工場投資を止める。輸出禁止そのものより、許可がいつ出るか読めない方が在庫を積ませる。
世界経済は2025年に3.4%成長し、前年と同じペースを保った。米国関税引上げを受けた2025年4月時点では2.8%まで減速すると予想されたが、各国経済と貿易量は予想より底堅かった。だから危機は「貿易がなくなる」ことではない。取引は続くが、企業が保険、在庫、複数工場、法律対応へ払う摩擦費用が増えることだ。
1859年、開港は自由ではなく不平等から始まった
日本の近代通商史は、自ら設計した自由貿易ではなく、軍艦の圧力から始まる。1853年にペリー艦隊が浦賀へ来航し、1854年の日米和親条約、1858年の修好通商条約を経て、1859年に横浜、長崎、箱館が開港した。港には運上所が置かれ、1872年に税関へ改称された。
安政の条約は領事裁判権を認め、日本が自ら関税率を決める力も制約した。生糸や茶が海外へ流れ、機械や綿製品が入る一方、物価と産業は世界市場の揺れにさらされた。貿易量が増えることと、通商主権を持つことは同じではなかった。
明治政府は製糸、紡績、鉄道、海運、商社、銀行を育て、外貨を稼ぎながら条約改正を国家目標にした。1894年に治外法権撤廃への道を開き、1911年に関税自主権を回復する。近代日本が最初に学んだ経済安全保障は、国内ですべて作ることではない。市場へ参加しながら、参加条件を自ら決める力を取り戻すことだった。
1930年代、分断が戦争へ近づいた記憶
第一次世界大戦は欧州からの供給を止め、日本の工業と輸出を拡大させた。しかし戦後の反動、金融不安、1929年からの世界恐慌は保護主義を強めた。主要国は関税と帝国圏の特恵を使い、貿易を政治ブロックへ囲い込んだ。日本も植民地支配と大陸侵略の下で円圏・自給圏を追い、資源確保を軍事拡張と結びつけた。
ここには、経済安全保障を語る現代が忘れてはならない境界がある。「自律性」が、他国の主権を奪って資源を囲い込む論理になれば、安全保障は安全を生まない。制裁、石油供給、海上輸送をめぐる対立は戦争と絡み、1945年に国内産業と港は破壊された。
2026年白書は戦間期との単純な同一視をしていない。今の世界にはWTO、EPA、国際金融、巨大な民間サプライチェーンがある。それでも、国家が市場へ深く介入し、輸出規制と補助金を安全保障で正当化し、陣営ごとに技術を囲う動きは、効率だけでは平和を保証できないという古い問いを戻している。
1949年、最初の白書は「売らなければ買えない」と知っていた
通商白書の第1回は1949年。占領下の日本には原料、食料、燃料、外貨が不足していた。戦後復興は、輸入を避けることではなく、輸入に必要なドルをどう得るかという問題だった。通商産業省が同年に発足し、輸出、産業育成、技術導入、外貨配分を結びつけた。
1953年に日本はGATTへ仮加入し、1955年に正式加入した。道は平坦ではない。日本製品の急増を恐れた英国、フランス、インドなど14か国が、GATT関係を適用しない第35条を援用した。戦前の輸出と植民地支配への記憶、低賃金品への警戒が残っていた。
それでも多角的ルールは、資源の乏しい日本に大国間の取引を政治交渉だけに委ねない盾を与えた。関税を互恵的に下げ、相手国の市場を予測可能にする。日本は石油、鉄鉱石、綿花、食料を輸入し、繊維、鉄鋼、船、自動車、電機を輸出する「加工貿易」で成長した。自由貿易は理念である前に、生存の装置だった。
輸出の奇跡は、摩擦も輸出した
高度成長期、日本企業は国内の系列、下請け、銀行、港を束ね、品質と価格で海外市場を取った。だが成功は相手国の工場閉鎖と政治を動かす。1970年代は繊維と鉄鋼、1980年代は自動車と家電、1990年代は半導体が日米摩擦の中心になった。1991年には、米国の貿易赤字に占める日本の割合が53%に達した。
貿易収支は会計であって、善悪の点数ではない。輸出超過の国があれば輸入超過の国があり、為替、貯蓄、投資、財政が背後にある。それでも工場を失う地域にとって、マクロ経済の説明は抽象的だ。効率化の利益が国内で偏れば、自由貿易への支持は崩れる。2020年代の保護主義には、中国だけでなく、日本がかつて受けた反発の歴史も重なる。
日本は数量自主規制、現地生産、部品調達、技術移転で摩擦へ対応した。輸出品を船に載せるだけの国から、海外に工場と雇用を持つ企業国家へ変わった。その転換を決定づけたのが、資源と通貨という二つの外圧だった。
1973年、石油は「依存が武器になる」ことを教えた
1973年度、日本の一次エネルギー供給の75.5%は石油だった。約8割を中東に頼る構造で、産油国が価格と供給を政治的に動かすと、物不足、インフレ、買いだめが社会を揺らした。日本は資源を持たないから貿易する。その貿易路が止まれば、製造力だけでは経済を動かせない。
対応は一つの国から離れるだけではなかった。石油備蓄、省エネ法、天然ガス、石炭、原子力、再生可能エネルギー、調達先の分散を組み合わせた。1973年度から2023年度にかけ、産業部門の最終エネルギー消費は0.7倍へ下がった。脆弱性が技術革新を促し、省エネ製品は輸出競争力にもなった。
白書が2026年に掲げる「危機管理投資」も同じ発想を持つ。平時には余分に見える備蓄、複線化、予備設備を、危機の保険と成長技術に変える。ただし、1970年代の教訓は、代替源を増やしても新しい依存が生まれることでもある。電動化は石油を減らすが、リチウム、ニッケル、黒鉛、レアアースの供給網を必要とする。
1985年、円高が日本の工場をアジアへ運んだ
1985年のプラザ合意はドル高是正へ協調介入を決め、円は急騰した。国内でつくってドルで売るモデルの採算が崩れ、日本企業は北米、欧州、ASEANへ生産を移した。部品会社も顧客工場を追い、現地人材を育て、道路、港、工業団地と結びついた。
この動きは単純な空洞化ではなかった。海外工場へ日本製部品や設備を送り、現地利益を配当として受け取る流れも生んだ。1977年の福田ドクトリン以後の対ASEAN協力、ODA、人材育成、民間投資は、アジアの生産網を深くした。日本のブランドは「日本製」から、日本企業が複数国で設計・調達・生産する価値連鎖へ変わった。
だが、効率を求めるほど工程は集中した。特定地域が最も安く、熟練労働者とサプライヤーが集まるなら、次の企業もそこへ行く。規模の経済がコストを下げ、さらに集中を呼ぶ。現在の非対称依存は、誰かの陰謀だけでなく、企業が合理性を積み上げた結果でもある。
1995年、「一つの世界市場」という約束
1995年、WTOが発足した。物品関税だけでなく、サービス、知的財産、補助金、紛争処理を幅広いルールへ入れた。2001年に中国が加盟し、低コストの製造能力と巨大市場が世界経済へ接続された。コンテナ輸送、通信、財務ソフト、標準化が進み、企業は在庫を削り、工程を国境ごとに最適化した。
消費者は安い製品を得、新興国には雇用と技術が移り、日本企業は人口が増える市場へ進出した。日本はCPTPP、日EU・EPA、RCEPなどを重ね、米国がTPPを離れた後も高水準のルールを守ろうとした。CPTPPは2018年、RCEPは2022年に日本で発効した。
しかし、利益は均等に配られなかった。先進国の産業地域では雇用が失われ、デジタル大手と資本へ利益が集まり、中国では国家支援と規模の経済が巨大な供給力を育てた。WTOの全会一致原則と紛争処理は、産業補助、国家企業、データ、輸出管理という新しい争点に追いつきにくくなった。「一つの市場」は、国内政治が支えなければ維持できなかった。
2010年代から、効率の弱点が順番に見えた
2010年のレアアース価格高騰と供給不安、2011年の東日本大震災とタイ洪水は、目立たない一部品が世界の完成品を止めることを示した。2018年以降の米中貿易摩擦は、関税と輸出管理を技術覇権の道具にした。2020年のパンデミックは、マスク、医薬品、半導体、コンテナの不足を同時に起こした。
2022年のロシアによるウクライナ侵略は、エネルギー、食料、肥料、金融決済を安全保障問題へ変えた。企業は「ジャスト・イン・タイム」から、在庫と代替先を持つ「ジャスト・イン・ケース」へ一部を移した。政府は2022年成立の経済安全保障推進法で、半導体、蓄電池、永久磁石、重要鉱物、クラウドなど特定重要物資の供給確保を支援した。
ただし、国内回帰は万能ではない。資源を持たない日本が全工程を国境内へ戻せば、費用が上がり、輸出競争力も落ちる。工場が国内にあっても原料、装置、ソフト、海運を海外へ依存する。安全保障は「国産」のラベルではなく、二次、三次サプライヤーまで切れた時に代替できるかで測るべきだ。
中国は新興国の「店」から「工場の中」へ入った
2026年白書の重要な発見は、完成品輸出のシェアだけでは中国の存在感を測れないことだ。新興国の輸入に占める中国からの割合は、2000年の約4%から2024年の約26%へ上昇した。米国は約23%から13%、日本は約9%から3%へ低下した。金額自体は各国とも増えていても、市場での相対的な重みが変わった。
しかも中国から新興国へ向かう財の多くは中間投入財と資本財である。ベトナムの輸出に含まれる中国生産の付加価値は2000年の約2%から2022年の約16%へ上がった。製品がベトナムから米国へ出ても、その内部に中国の素材、部品、機械がある。二国間の貿易額だけを見て「中国依存が減った」と判断すれば、経路変更を分散と誤認する。
これは中国と取引すること自体が危険という話ではない。世界最大級の製造集積を排除すれば、企業と消費者が巨大な費用を払う。課題は、代替不能な一社、一港、一国、一技術へ依存し、その相手だけが関係を止められる非対称性である。
- 直接輸入:税関統計で見える国と品目。
- 中間投入:第三国の完成品に含まれる別の国の部材と付加価値。
- 工程支配:採掘量が分散しても、一国へ集中する精錬、加工、装置、知的財産。
- 切替時間:代替先の有無だけでなく、認証、品質試験、設備変更、輸送に必要な月数。
重要鉱物は「地中」より「精錬所」で細くなる
白書が調べた6つの重要鉱物では、2023年の採掘量のうちコバルトはコンゴ民主共和国が65%、ニッケルはインドネシアが52%、黒鉛は中国が82%、レアアースは中国が61%を占めた。埋蔵地は複数国にあっても、精錬段階では多くの鉱物で中国の比率が一段と高い。鉱山を新しく開くだけでは、化学処理、廃棄物、技術、顧客認証の壁を越えられない。
資源国も原料を掘って売るだけでは満足しない。インドネシアは未加工ニッケルの輸出を制限し、国内精錬と電池産業を誘致した。2015年から2025年に、ニッケルマットなどの輸出は4,960倍、フェロニッケルは1,059倍になった。先進国が「安定供給」を求める一方、資源国は付加価値と雇用を国内に残す「下流化」を求める。
日本が調達先を多様化するには、鉱石だけを買う関係では足りない。環境基準、地域住民、精錬技術、電力、港、金融、現地雇用を共同でつくる必要がある。安全保障の名で資源だけを確保しようとすれば、19世紀の採取型関係を繰り返し、信頼を失う。
過剰生産能力は「安さ」と「破壊」を同時に運ぶ
中国の鉄鋼生産能力は2010年代後半に一度減った後、同年代末から再び増えた。EV、蓄電池、太陽光などでも、国家・地方政府の支援、巨大市場、供給網、企業間競争が急速な能力拡大を生んだ。安価な製品は脱炭素と消費者に利益を与える一方、需要を超える供給が輸出へ向かえば、他国企業の投資と雇用を壊す。
問題は「中国製だから不公正」と決めることではない。補助金、融資、土地、エネルギー、過剰能力、価格、損害の事実を品目ごとに検証する必要がある。日本も高度成長期に産業政策を使い、米欧から市場閉鎖を批判された歴史を持つ。正当な競争力と市場を歪める支援を分けるルールが要る。
2026年7月、日本は中国と台湾のニッケル系ステンレス冷延鋼材へ3.6~42.1%の暫定的な不当廉売関税を決めた。これは白書後の具体例である。反ダンピング措置はWTOが認める防御だが、調査と期限を伴う。安全保障を理由に何でも関税化すれば、相手国も同じ論理を使い、分断は自己実現する。
経済的威圧――市場アクセスが政治のレバーになる
経済的威圧には確立した単一の国際法定義がない。EUの反威圧措置規則は、貿易・投資へ影響する措置またはその脅しを使い、EUや加盟国の政策決定へ圧力をかける行為を対象とする。停止を協議し、解決しなければ財・サービス、投資、金融、公共調達、知財、輸出管理で対抗できる。
普通の制裁、貿易救済、国家安全保障措置との境界は難しい。送り手は公衆衛生、検疫、国内法、安全保障を理由にし、圧力とは認めないかもしれない。受け手も「威圧」を広く使えば、正当な規制まで政治化する。必要なのは、目的、差別性、透明性、比例性、国際ルール、救済手続きを検証することだ。
企業にとっては、調達停止だけでなく販売停止も脅威になる。巨大市場への売上依存が高ければ、政府の政策と企業の経営が同時に圧力を受ける。経済安全保障部門を法令順守だけに置かず、取締役会が売上、部品表、データ、技術、人材の依存を同じ地図で見る必要がある。
「信頼できる経済圏」は同盟か、保険か
白書は、日本が信頼できる経済パートナーであり続け、自由で互恵的な「信頼できる経済圏」を有志国と築くとする。CPTPPなど既存EPAを進め、エネルギー、資源、医療物資、重要技術で共同投資し、威圧へ耐える関係をつくる。2026年4月に示した「パワー・アジア」では、緊急融資と備蓄、供給源多様化などへ総額100億ドルの金融協力を掲げた。
これは閉じた友好国ブロックと同じではない、と政府は説明する。複数の国と結ぶことで自律性を高め、自由貿易を安定させる保険だという論理だ。実際、最も強い供給網は一つの陣営に閉じるより、政治体制と地域の異なる複数の相手を持つ。
しかし「信頼」は変化する。選挙で政権が交代し、同盟国が関税をかけ、資源国が国内加工を求める。信頼を国名のラベルにすれば危うい。契約、透明な補助、紛争処理、データ共有、企業統治、備蓄、実際の納入履歴という検証可能な行動へ分解しなければならない。
グローバルサウスは「中国の代わり」ではない
白書は人口増、所得上昇、重要鉱物を持つ新興国を成長と分散の中心に置く。インド、インドネシア、ベトナム、バングラデシュ、エジプトなどは、かつて中国で家電や自動車普及が加速した所得水準へ近づく。新しい消費市場であり、供給網の候補でもある。
だが、これらの国は米中のどちらかへ編入される空白ではない。自国の雇用、技術移転、データ主権、資源加工、資金調達を求める。中国はすでに中間財、インフラ、金融で深く入り、日本の市場シェアは相対的に低下した。日本が「脱中国」の委託先としてだけ近づけば、共創という言葉は見抜かれる。
政府は2023年度以降、毎年10億ドル規模のグローバルサウス支援を置き、79か国で422件の実証などを支えた。次の課題は補助金で実証して終わらず、現地金融、顧客、人材、保守、規格へつなぐことだ。白書自身も、JETROの海外拠点が76事務所、56か国で、韓国KOTRAなどに比べ広がりが課題だと認める。
日本は「貿易黒字国」から「海外所得国」へ変わった
2025年の日本の経常収支は32兆2,350億円の黒字で、1996年以降最大になった。だが昔の輸出立国と同じではない。第一次所得、つまり海外投資からの利子・配当・再投資収益が黒字を支え、財貿易は小幅な赤字だった。日本企業が海外で稼ぐ構造へ移ったことを示す。
2025年の財輸出は110.4兆円、輸入は113.3兆円。輸送用機器は輸出の21.9%、電気機器は16.8%、一般機械は17.9%。輸入では鉱物性燃料が19.5%、電気機器が16.6%を占める。自動車を売って燃料と電子機器を買う姿は残るが、サービス、知財、デジタル、海外子会社利益が国際収支を変えた。
対外直接投資残高は2024年に331兆円で、製造業121兆円、非製造業210兆円。北米だけで125.8兆円だった。これは危機時の所得源であると同時に、海外政策へ日本企業がさらされる面積でもある。現地生産は関税を避けられても、利益送金、データ、制裁、部材の規制を受ける。
海外から選ばれることも安全保障になる
日本への直接投資残高は2014年の23.7兆円から2024年の53.3兆円へ増えた。政府は2030年に120兆円、2030年代前半のできるだけ早い時期に150兆円を目標とする。外国企業の工場、研究所、データ拠点は雇用、競争、技術波及をもたらし、供給網で日本を外せない場所にできる。
一方、重要インフラ、機微技術、個人データでは投資審査が必要になる。経済安全保障が強すぎれば、資本も人材も閉め出し、「不可欠性」を高めるはずの革新を失う。開放と管理を同じ制度で両立する難しさは、1859年の開港以来の問いでもある。
対日投資の量だけでなく質を見るべきだ。2024年残高の37%は金融・保険で、グリーンフィールド投資と買収は効果が違う。新規工場が何人を雇い、国内サプライヤーから調達し、研究者を育て、輸出を生んだか。金額目標だけなら、経済安全保障と成長のつながりは測れない。
企業は「安いか」より「切れたら何日か」を問う
経済安全保障は大企業だけの仕事ではない。中小の部品会社も、顧客から原産地、サイバー対策、人権、炭素、輸出管理を求められる。調達担当が単価だけを持ち、法務が規制だけを持ち、経営が売上だけを見る分業では、依存は見えない。
必要なのは、製品ごとに売上先、部品表、二次以降の供給者、製造装置、ソフト、物流、決済、知財、代替認証日数を重ねることだ。すべてを二重化すれば利益が消えるため、停止時の損失と代替費用で優先順位をつける。希少だが安い部品ほど、購買額では重要性を見落とす。
分散は仕入先を二社にすることではない。二社が同じ国の同じ精錬所、同じクラウド、同じ港へ依存すれば一本である。契約上の国籍ではなく、物理的・技術的な共通障害点を探す。取締役会は、四半期利益を少し下げる予備在庫を、無駄ではなく事業継続の資本として説明しなければならない。
「信頼できる経済圏」を測る九つの指標
| 論点 | 見るべき指標 | 見落としやすい点 |
|---|---|---|
| 調達集中 | 国・企業・工場・港別の依存度 | 仕入先が複数でも上流工程が同じことがある |
| 代替可能性 | 認証完了までの日数、代替能力 | 候補の存在と即時切替は別 |
| 在庫 | 重要度別の操業可能日数 | 金額の小さい部品が全ラインを止める |
| 市場依存 | 国別売上、利益、データ保管 | 調達だけでなく販売停止も威圧になる |
| 公正競争 | 補助、価格、損害、調査期限 | 安全保障を恒久保護の口実にしない |
| 資源共創 | 現地加工、雇用、環境、利益分配 | 鉱石だけを確保すると信頼を失う |
| 投資の質 | 国内調達、研究、雇用、輸出 | FDI残高だけでは波及効果が見えない |
| ルール | 透明性、異議申立て、紛争処理 | 友好関係は制度の代わりにならない |
| 費用負担 | 政府、企業、消費者の負担配分 | 強靱化の価格を隠すと支持が続かない |
開港から「信頼」まで――日本通商の節目
1853~59年 ペリー来航、条約締結、横浜・長崎・箱館開港。通商は不平等条約の制約下で始まる。
1911年 関税自主権を回復。市場参加の条件を自ら決める通商主権が整う。
1930年代 世界恐慌、保護主義、ブロック経済。資源圏と帝国拡張が戦争へ絡む。
1949年 通商産業省発足、第1回通商白書。外貨不足の中、輸出と復興を結ぶ。
1955年 日本がGATTへ正式加入。多角的ルールを成長の基盤に。
1973・79年 二度の石油危機。備蓄、省エネ、エネルギー多様化を進める。
1985年 プラザ合意と急速な円高。日本企業の海外生産が加速。
1995年 WTO発足。サービス、知財、紛争処理を含むルールへ拡大。
2001年 中国がWTO加盟。世界の製造集積と市場構造を変える。
2010~11年 レアアース供給不安、東日本大震災、タイ洪水。上流依存が可視化。
2018年 米中関税・技術摩擦が本格化。CPTPPが発効。
2020~22年 パンデミック、ロシアのウクライナ侵略、経済安全保障推進法。効率優先を修正。
2026年 第78回通商白書が「信頼できる経済圏」、危機管理投資、新興国との共創を提示。
自由貿易を守るために、依存を減らす
2026年白書の逆説は、自由貿易を捨てるためではなく、守るために経済安全保障が必要だということだ。特定国が供給停止を使えるほど依存が偏れば、取引は自由ではない。代替先、備蓄、国内能力、同志国との共同投資を持てば、圧力を受けても市場を閉じずに済む。
同時に、経済安全保障は保護主義へ堕ちやすい。競争に負けた産業がすべて「戦略的」と名乗り、補助金と関税を求めれば、消費者が払い、革新が遅れ、他国の報復を招く。支援には期限、成果指標、競争、撤退条件が要る。安全保障上の例外を、ルールなき通常状態にしてはならない。
日本には二つの記憶がある。1859年、開かれた市場で条件を決められなかった記憶。1955年以降、ルールに基づく開かれた市場から最大級の利益を得た記憶である。どちらか一方だけを選べば、2026年の答えを誤る。主権のない開放は危うく、開放のない主権は貧しくなる。
横浜港のコンテナを止めることが安全ではない。その中身を知り、一本が切れても別の線が動き、取引相手にも利益が残り、紛争を力ではなくルールで解けることが安全である。「信頼できる経済圏」は地図に色を塗る同盟ではなく、その条件を毎日検証する運用でなければならない。
明日の午前6時もクレーンは動く。問われるのは、どの国から来た箱かだけではない。誰が止められるのか、何日で代えられるのか、利益と費用を誰が分けるのか。その答えを持つ国だけが、分断の時代にも開かれたままでいられる。
取材注記・主な資料
2026年8月7日午前9時2分(日本時間)までに確認した公開情報を使用しました。白書の世界経済見通しは2026年4月のIMF資料を含み、貿易・投資統計は対象年、名目・実質、国際収支・通関ベースが異なります。「依存」「信頼」「経済的威圧」は単一指標では測れず、本稿では白書の定義と留保を優先しました。
- 経済産業省:令和8年版通商白書・通商戦略2026
- 経済産業省:通商白書2026
- 経済産業省:通商白書2026 全体版
- METI: White Paper on International Economy and Trade 2026
- 外務省外交史料館:GATTへの加入
- 外務省:WTOとは
- 横浜税関:横浜税関の歴史
- 国立国会図書館:史料にみる日本の近代・条約改正
- 日本銀行:ドル円相場と日米通商摩擦の歴史
- 資源エネルギー庁:日本のエネルギー需給史
- 経済産業省:サプライチェーンの強靱性と重要鉱物
- 経済産業省:ニッケル系ステンレス鋼への暫定不当廉売関税
- 税関:CPTPPの概要
- 経済産業省:日ASEAN経済共創ビジョン
- METI: Economic Security Management Guidelines
