幼児教育で「探究」という言葉を使うと、実験器具やワークシートを思い浮かべるかもしれない。東京都が進める「とうきょう すくわくプログラム」の出発点は、もっと日常的だ。光に気づく。泥の感触を比べる。音の違いを確かめる。絵本の続きを想像する。子供が「なぜ?」と思った瞬間を、保育者が急いで正解へ導くのではなく、遊びを深める環境へつなぐ。

東京都は9月25日、このプログラムの初のシンポジウム開催を発表した。発表によれば、都は東京大学大学院教育学研究科附属発達保育実践政策学センター(CEDEP)との連携の下、2024年度から都内全域で展開を開始。2025年度には約3,400園の幼稚園・保育所等で実施された。全域展開初年度の2024年度は1,591園だったため、1年で実施規模は2倍を超えたことになる。[1][4]

1,591園2024年度の実施園数
約3,400園2025年度の実施園数
上限150万円対象施設向け補助制度の1施設当たり上限額。補助率10/10

「すくすく」と「わくわく」から生まれた名前

「すくわく」は、子供の「伸びる・育つ(すくすく)」と「好奇心・探究心(わくわく)」を組み合わせた東京都独自の名称だ。対象は一つの学校制度に限られない。幼稚園、保育所、認定こども園、認可外保育施設、特別支援学校幼稚部など、施設類型を越えて共通の考え方を使うことが制度の特徴になっている。[2][3]

日本の就学前教育は、文部科学省系の幼稚園と、福祉行政を起点とする保育所が歴史的に別制度として発展してきた。認定こども園の普及で境界は薄くなったが、所管、補助制度、職員資格、運営主体には今も違いがある。その中で東京都が「幼保共通」の探究プログラムを前面に出す意味は小さくない。

制度が問うのは、施設名ではなく、子供がどのように遊び、考え、他者と関わるかだ。

テーマは大人が与えるが、答えは大人が決めない

すくわくポータルでは、探究テーマの例として光、色、泥遊び、音、自然、絵本などが挙げられている。活動の流れは「テーマを決める」「問いを考える」「環境をデザインする」「探究活動を実践し記録する」「振り返る・共有する」というものだ。[2]

ここで大切なのは、幼児に小学校型の授業を早く始めることではない。子供がすでに遊びの中で行っている観察、比較、試行錯誤、他者との相談を、保育者が意識して支える。東京都はその先に、自己肯定感、意欲、粘り強さ、共感、思いやり、協同性といった「非認知能力」の育ちを位置づける。

ただし「非認知能力」は便利な言葉である一方、何をどう測るかが曖昧になりやすい。自己肯定感や協同性を、短期間の点数だけで評価するのは難しい。プログラムが本当に質を高めるかは、活動事例の豊富さだけではなく、子供の変化をどのように記録し、保育者が実践をどう改善するかで判断する必要がある。

普及は速かった——1,591園から約3,400園へ

2024年3月にプログラムが策定され、2024年度に都内全域展開が始まった。初年度は1,591園。2025年10月時点で東京都は「今年度は2,750を超える園で実施予定」としていたが、今回の9月25日発表では2025年度の実績を約3,400園としている。予定段階より参加が広がったことになる。[1][4]

この増え方は、政策としては成功に見える。しかし、参加園数の急拡大は次の課題も作る。1,000園規模では担当部署が個別に支援できても、3,000園を超えれば、研修、記録方法、教材、相談、実践の質にばらつきが出やすい。

そこで東京都が次に作ったのが、園同士が学び合う仕組みだった。

「ナビゲーター園」は、行政の代わりに横の学びを作る

東京都は2025年10月、すくわくプログラム実施園の学び合いの中核として「すくわくナビゲーター園」制度を開始した。12月に第一弾35園、2026年1月に第二弾20園、その後も追加し、3月の第四弾で新たに29園が決定。そこまでで計106園に達した。[4][5]

ナビゲーター園の役割は、他園の見学受け入れ、実践紹介、助言など。すくわくポータルには各園の活動が順次掲載されている。行政が「優良事例」を上から配布するのではなく、実際の保育者同士が現場を見て学ぶネットワークを作る設計だ。[6]

これは重要な転換である。探究保育は、マニュアルを読めば同じ結果が出るタイプのプログラムではない。園庭の広さ、地域環境、子供の年齢、職員配置によって実践は変わる。だからこそ、成功例の「答え」をコピーするより、問いの立て方や環境の作り方を共有する方が意味を持つ。

東京都は「材料費」だけでなく「時間」にお金を出す

制度が広がった理由の一つは、理念だけでなく財政支援が組み込まれていることだ。東京都の補助制度では、対象施設について1施設当たり上限150万円、補助率10分の10が示されている。対象経費には消耗品、備品、旅費、委託料などだけでなく、非常勤職員の給料・手当、研修、ICT機器なども含まれ得る。[7][8]

これは幼児教育政策として重要なポイントだ。良い探究活動には、木の実や色水の材料を買う費用だけではなく、保育者が子供を観察し、写真や言葉で記録し、職員同士で振り返る時間が必要になる。人手不足の保育現場で「新しい活動をしてください」と言うだけでは、その時間は生まれない。

補助制度が人件費や研修費まで対象にするのは、探究をイベントではなく日常の保育へ埋め込むには、保育者側の余白が必要だという現実への対応でもある。

条件は「一度やればよい」ではない

補助制度には実施条件もある。対象施設は、乳幼児の興味・関心に応じた探究活動を一定程度継続的に、複数月にわたり実施し、東京都の研修に参加し、実施報告書と活動報告書を作成し、活動を園のウェブサイト等で公表することが求められる。年1回だけのイベントは対象にならない。[8]

つまり制度上も、「夏祭りで科学遊びを一回やった」という実績作りではなく、日々の保育の中に探究を継続させることが要求されている。

同時に、報告・記録が現場の事務負担にならないかという論点もある。記録は質向上に不可欠だが、書類作成が目的化すれば、子供を見る時間を逆に奪う。今後の制度運用では、記録の価値と事務負担のバランスが重要になる。

東京大学CEDEPとの連携が意味するもの

プログラムは東京都だけで策定したものではない。東京都はCEDEPとの協定の下で制度を構築している。CEDEPは、乳幼児の発達、保育実践、政策をつなぐ研究拠点として、現場と行政の間に研究知を持ち込む役割を担う。

行政が大学と組む利点は、単に監修者の名前を付けられることではない。本当に価値が出るのは、実施園の記録からどのような実践が有効なのかを検討し、研修へ戻し、制度自体を改善する循環を作れる時だ。

9月25日に発表された初のシンポジウムも、その次の段階に位置づけられる。東京都は「これまでの取組の成果等を発信し、幼児教育・保育の更なる充実につなげる」ことを開催目的としている。[1]

3,400園は「研究実験」ではない

ここで言葉を正確にしたい。約3,400園で行われているからといって、東京都が3,400園を対象にした無作為化比較試験を実施しているわけではない。「大規模な実証実験」という表現は慎重に使う必要がある。

より正確には、これは大規模な政策実装だ。多数の園で同じ基本理念を導入し、活動記録や研修、園同士のネットワークを通じて実践知を蓄積している。政策評価として因果効果を測るには、参加前後の比較、参加していない園との比較、家庭背景や園の資源差の調整など、別の設計が必要になる。

3,400園という規模は大きい。しかし「参加園数が多い」ことと「効果が科学的に証明された」ことは同じではない。
今後の焦点は、普及率だけでなく、どんな実践がどの子供・園で機能するのかを評価できるかに移る。

探究を「早期教育」にしないこと

幼児期の探究を語る時、もう一つ避けたい誤解がある。探究は、小学校の理科や総合学習を前倒しすることではない。

幼児にとって、石を並べること、泥に水を足して硬さを変えること、影を追いかけること、音の鳴る物を集めることは、それ自体が十分に高度な学びになりうる。重要なのは、大人が「正しい答え」に早く到達させることではなく、子供が自分で気づき、試し、考えを変え、友達と共有できる環境を作ることだ。

もし「探究」という言葉が、成果物や発表会を増やす圧力に変われば、本来の子供主体から離れてしまう。制度が拡大するほど、その危険は高まる。

次に問われるのは量ではなく質

2024年度1,591園。2025年度約3,400園。普及という意味では、すくわくプログラムは急速に大きくなった。

しかし、制度が成熟するほどニュースになる数字は「何園参加したか」ではなくなる。保育者の実践がどう変わったか。子供の発言や行動がどう変わったか。園種や地域による差はあるか。補助が終わっても日常保育として残るか。記録や研修にかかる負担は持続可能か。

東京都がナビゲーター園と初のシンポジウムを始めたことは、政策の焦点が拡大から質へ移りつつある兆候に見える。

幼児教育で最も難しいのは、子供の好奇心を制度化することだ。制度が強くなり過ぎれば、自由な遊びを壊す。制度が弱ければ、忙しい現場では続かない。その間の細い道を、東京は約3,400園という大きな規模で歩き始めている。

編集上の注意:本稿では約3,400園を「大規模な政策実装」と表現し、科学的な効果検証が完了したとは扱っていない。自己肯定感などの「非認知能力」についても、プログラム参加だけで改善すると断定していない。

出典・資料

  1. 東京都:とうきょう すくわくプログラム シンポジウムを初開催(2026年9月25日)
  2. すくわくポータル:とうきょう すくわくプログラムとは
  3. 東京都子供政策連携室:とうきょう すくわくプログラム推進事業
  4. 東京都:すくわくナビゲーター園 第一弾
  5. 東京都:すくわくナビゲーター園 第四弾
  6. すくわくポータル:すくわくナビゲーター園の取り組み
  7. 東京都生活文化局:令和8年度 とうきょう すくわくプログラム推進事業補助金
  8. 東京都:補助金交付要綱(1施設当たり上限150万円、補助率10/10)