時給が上がっても、同じ年収基準の内側に収めようとすれば働ける時間は減る。年末にシフトを一日増やせば、税、社会保険、配偶者の会社の手当のどこへ響くのかを確かめなければならない。時間を増やした分だけ家計が素直に増えるとは限らない——「年収の壁」は、その不連続を家の食卓へ持ち込む。
株式会社マイナビの「主婦のアルバイト調査(2026年)」は、その計算が働く意思を抑えている一端を示した。2026年2月18日から3月2日まで、現在アルバイト・パートで働く20~50代の既婚女性をインターネットで調べ、有効回答は1630件。全体の35.7%が労働時間や収入を意図的に調整し、23.3%は「手取り額が減らないように」調整していた。
その23.3%、380人に「年収の壁などがなくなり、手取りが減らない」場合を尋ねると、40.9%が今の職場で、10.0%が別の職場で時間を増やすと答えた。合計50.9%。中学・高校生の子どもがいる層では62.3%だった。働く意欲がないのではなく、追加の一時間に付く制度上の価格が高すぎる人がいる。
「壁」は一枚ではなく、別制度の重なりだ
年収の壁という言葉は便利だが、法令上の一つの制度名ではない。本人の所得税、住民税、配偶者が受ける所得控除、健康保険の被扶養者認定、国民年金第3号被保険者、勤務先の配偶者手当を、同じ比喩で呼んでいる。基準額も、判定する収入も、超えた時の効果も違う。
国税庁の2026年向け案内では、給与収入だけなら178万円以下で本人の所得税等はかからない。12月1日施行で2026年分から適用される。一定の条件の下で、配偶者側が38万円の配偶者(特別)控除を満額受けられる給与収入の範囲も169万円以下となる。一方、住民税の所得割は給与収入119万円以下が目安だが、自治体によって均等割がかかることがある。
ところが、税の課税最低限が178万円へ動いても、社会保険の扶養基準が同じ額へ動くわけではない。会社の配偶者手当も企業ごとの規程であり、国が一律に設定する「壁」ではない。税だけを上げて「103万円の壁がなくなった」と言い切れば、家計が実際に見ている複数の境界を取り落とす。
| 通称・基準 | 2026年8月時点の意味 | 超えた時に起きること |
|---|---|---|
| 本人の所得税 178万円 | 給与収入だけで他に所得がない場合の2026年分の課税最低限。12月1日施行 | 超過分を含む課税所得に所得税がかかり得る。収入全体が失われる崖ではない |
| 短時間労働者の被用者保険 月8.8万円・週20時間 | 厚生年金被保険者51人以上の企業などで、学生除外等の条件を満たす短時間労働者に適用。賃金要件は10月撤廃予定 | 健康保険・厚生年金へ加入し、保険料を労使で負担。年金と休業時保障も増える |
| 被扶養者認定 年収130万円未満 | 被用者保険に本人加入しない人が、配偶者の健康保険の被扶養者・国民年金第3号でいられるかの基準 | 原則、扶養を外れ、自分で医療保険・年金へ加入する。勤務条件により加入先は異なる |
| 企業の配偶者手当 | 支給要件と収入基準は各社の就業規則・賃金規程による | 世帯手当が減る場合がある。税・社会保険とは別に確認が必要 |
「106万円」は10月に消えても、20時間が残る
現在、通常の労働者の4分の3未満で働く短時間労働者は、主に厚生年金保険の被保険者が51人以上の企業で、週の所定労働時間が20時間以上、所定内賃金が月8万8000円以上、学生ではない、2カ月を超えて雇用される見込みがある、といった条件を満たすと健康保険・厚生年金保険の対象になる。月8万8000円を年換算した約106万円が、通称「106万円の壁」だ。
ここでいう月8万8000円は、実際の年間総収入を単純に12で割る判定ではない。日本年金機構によると、所定内賃金から賞与、時間外・休日・深夜の割増賃金、通勤手当、家族手当などを除いて見る。逆に、加入後の標準報酬月額を届け出る時には、時間外手当や通勤手当なども原則含まれる。同じ「賃金」でも、入口と保険料計算で範囲が違う。
2025年度の地域別最低賃金が全都道府県で1016円を超えたため、週20時間働けば月8万8000円以上になる。日本年金機構と厚生労働省は、賃金要件を2026年10月に撤廃予定としている。以後、51人以上という当面の企業規模、週20時間、学生除外、雇用見込みなどが実質的な入口になる。年収の数字が消えるほど、雇用契約書に書かれた時間が重要になる。
企業規模要件も段階的に縮む。2027年10月は36人以上、2029年10月は21人以上、2032年10月は11人以上へ広がり、2035年10月に企業規模要件そのものが撤廃される予定だ。名称や規模だけで判断できない例外もある。通常の労働者の所定時間・日数の4分の3以上なら、短時間労働者向けの特例に関係なく加入対象になり得る。反対に、51人未満でも労使合意による任意特定適用事業所なら対象となる。
130万円は残る。ただし2026年に判定方法が変わった
週20時間未満などで勤務先の被用者保険に入らない人にも、もう一つの境界がある。厚生年金の被保険者に扶養される20歳以上60歳未満の配偶者は、国民年金第3号被保険者になり得る。原則として年収130万円未満で、配偶者の年収の2分の1未満という扶養要件がある。健康保険の被扶養者としても同じ130万円が大きな目安になる。
2026年4月1日からは、給与収入だけの人について、労働条件通知書や雇用契約書に記載された賃金から見込む年間収入が130万円未満で、他の収入が見込まれない場合、一定の生計維持要件を満たせば原則として被扶養者と扱う方法が導入された。諸手当と賞与も契約上の賃金に含む。契約期間が1年未満、シフト制で時間が不明確、手当額が不明確といった場合は、この方法で判定できない。
人手不足による一時的な残業などで130万円を超える場合には、事業主の証明を添えて扶養を続けられる取り扱いもある。だが、一時的な増収と恒常的な契約変更は同じではない。2026年の新しい判定は、繁忙期に一時的に増えた実収入だけで直ちに扶養を失う不安を和らげる一方、契約書の明確さをこれまで以上に求める。
被扶養者から外れた後に勤務先の厚生年金・健康保険へ入れる人は、保険料を事業主と折半し、基礎年金に厚生年金が上乗せされる。業務外の病気やけがで休む時の傷病手当金、出産手当金もある。勤務先で加入できず国民年金・国民健康保険へ移る場合は、保険料を自分で負担しても保障が同じ形で増えるわけではない。この違いが、130万円付近の「越えた直後」の家計感覚を大きく左右する。
職場は「もっと」、家庭は「抑えて」
調査が描くのは制度だけではない。手取り目的に限らず就業調整をしていた582人のうち、22.1%は周囲から「今の職場でもっと働いてほしい」と言われた経験があった。回答の内訳では職場の上司が14.5%、同僚が6.7%で目立つ。さらに11.0%は、実際に言われてはいないが周囲がそう思っていそうだと感じていた。
同じ582人の16.6%は「稼ぎすぎないでほしい(収入を抑えてほしい)」と言われた経験があり、主な相手は配偶者だった。人手が欲しい職場と、扶養や手当を含む世帯収入を守りたい家庭。その間で、労働者本人がシフトを細かく調整する。
ただし、ここから「職場が時間を出さない」とは言えない。むしろ調査では、職場側から増やしてほしいという圧力が見える。手取り以外の理由で就業調整をしていた12.4%についても、質問は家庭・育児、学業、健康、勤務先の事情などを一括しており、勤務先だけの割合は不明だ。
別の設問では、出産前に正社員経験がある回答者348人の83.9%が、出産は正社員を離れる判断に影響したと答えた。理由は「家庭を優先したかった」44.3%、「正社員だと両立が難しいと感じた」33.9%、「生活時間に合わせたかった」32.4%など。制度の壁を動かしても、保育、介護、急な休み、残業、通勤、配偶者との分担という時間の条件が残る。
- 確認した:既婚女性パート1630人のうち23.3%が、手取りを守る目的で就業調整していた。
- 確認した:その380人の50.9%は、手取りが減らなければ今か別の職場で時間を増やす意向だった。
- 確認した:就業調整者582人には、職場から増やす声と家庭から抑える声の双方があった。
- 確認していない:日本の全パート労働者に同じ割合が当てはまるか。
- 確認していない:社会保険だけが原因となった人数、希望時間数、実際に増やせるシフト数。
家族モデルから雇用者本人へ——制度の40年
現在の壁は、一度に設計されたものではない。1961年に国民年金が全面施行され、国民皆年金体制が始まった。1985年改正で基礎年金が導入され、1986年4月、会社員らに扶養される配偶者を国民年金の強制加入対象とする第3号被保険者制度が発足した。本人に独自の保険料負担を求めず、被用者年金全体で費用を負担する仕組みだった。
被扶養者認定の年収基準は1986年の90万円から、1987年100万円、1989年110万円、1992年120万円へ上がり、1993年4月に130万円となった。同じ1993年には短時間労働者法、いわゆるパートタイム労働法が制定され、短時間労働を重要な就業形態として位置づけた。その後、2007年改正は均等・均衡待遇と通常の労働者への転換を進め、2014年改正は待遇原則や説明義務を強めた。現在の正式名称は「短時間労働者及び有期雇用労働者の雇用管理の改善等に関する法律」、通称「パートタイム・有期雇用労働法」である。
社会保険の適用は2016年10月、501人以上の企業などで週20時間・月8万8000円等を満たす短時間労働者へ広がった。2022年10月は101人以上へ、2024年10月は51人以上へ拡大。2020年にはパートタイム・有期雇用労働法が施行され、2021年に中小企業を含め全面施行となった。正社員との不合理な待遇差を禁じる「同一労働同一賃金」の枠組みである。
1961年 国民年金が全面施行し、国民皆年金体制へ。
1986年 国民年金第3号被保険者制度が発足。扶養基準は年収90万円。
1993年 扶養基準が130万円へ。短時間労働者法が制定。
2016年 501人以上の企業などで、週20時間等を満たす短時間労働者へ被用者保険を拡大。
2022年 101人以上へ拡大し、1年以上の勤務見込み要件を撤廃。
2024年 51人以上へ拡大。
2026年 130万円の契約ベース判定を導入。10月に月8万8000円の賃金要件を撤廃予定。
2027~35年 企業規模要件を段階的に縮小・撤廃予定。
方向は明確だ。配偶者に扶養されるかではなく、雇用されて働く本人に健康保険と厚生年金を適用する範囲を広げる。ただし移行の途中では、企業規模、20時間、130万円、会社の手当が併存する。改革が一つ進むほど、別の境界が目立つ局面でもある。
2026年10月、会社に問われるのは説明と設計
10月は、被用者保険の賃金要件が撤廃予定となるだけではない。パートタイム・有期雇用労働者の待遇に関するルールも改正される。雇い入れ・契約更新時には、正社員との待遇差の内容や理由について説明を求められることを明示する。賞与、退職手当、各種手当、福利厚生に関する同一労働同一賃金ガイドラインも、裁判例を踏まえて明確化される。
人手不足の現場で必要なのは、「扶養を外れるなら自己責任」と伝えることでも、「保険に入れば将来得」と一方向に説得することでもない。労働時間を増やした時の賃金、本人負担の保険料、失う可能性のある会社手当、追加される年金と休業保障を同じ紙に置き、契約変更の前に本人が比較できるようにすることだ。
政府も移行費用を意識している。2025年7月に新設されたキャリアアップ助成金「短時間労働者労働時間延長支援コース」は、新たに被用者保険へ加入させ、労働時間延長や賃上げで収入を増やした事業主に、労働者一人当たり最大75万円を助成する。制度要件を満たすには、加入前の計画提出などが必要だ。さらに企業規模拡大で新たに加入対象となる一部の低賃金労働者には、3年間、事業主が本人の保険料負担を軽減し、その追加負担を制度全体で支える仕組みも用意されている。
だが、助成金は恒久的な賃金表ではない。支援が終わった後も時間を増やす価値が家計に残るよう、時給、役割、昇給、休暇、柔軟なシフト、短時間正社員への転換まで設計する必要がある。週20時間の直前で全員を止めれば、106万円の代わりに新しい「20時間の壁」を会社が作ることになる。
「半数」を、働き手全体の選択へ広げない
日本で週35時間未満の非農林業雇用者は2025年に2098万人、雇用者の34.3%を占めた。女性が約6割、高齢者も多いが、若者、世帯主、正社員になれなかった人もいる。短時間労働者は「主婦」の一語ではくくれない。今回の調査が丁寧に映したのは、その大きな集団のうち20~50代既婚女性の一面である。
だから50.9%を全国民へ拡張してはいけない。同時に、限定された数字だから無視してよいわけでもない。手取りを守るためすでに就業調整している人の半数が、条件さえ変われば時間を増やすと答えた。制度設計が労働供給と家計の双方に働きかけている証拠として、十分に重い。
壁を本当に低くする指標は、制度名が変わった回数ではない。追加の一時間が、本人にとって予測可能な賃金と保障になったか。職場は必要な時間を提示し、家庭との両立を可能にしたか。加入後の手取り減を越えるだけの賃金と将来給付を、本人が理解して選べたか。そこまで確認して初めて、「働き控えの解消」は政策の言葉から生活の実感へ移る。
2026年秋、日本の年収の壁はまた形を変える。数字が一つ消えても、食卓から計算が消えるわけではない。必要なのは、壁の名前を言い換えることではなく、時間を増やす人が損得と保障を見通せる、切れ目の少ない働き方をつくることである。
- マイナビ キャリアリサーチLab — 「主婦のアルバイト調査(2026年)」
- マイナビ — 調査報告書・更新版(設問、分母、属性別集計)
- 国税庁 — 家族と税(2026年分のパート収入と所得税・配偶者控除)
- 日本年金機構 — 短時間労働者に対する健康保険・厚生年金保険の適用拡大
- 日本年金機構 — パート・アルバイト、配偶者の扶養内で働く人向け案内
- 日本年金機構 — 労働契約内容による年間収入での被扶養者認定(2026年)
- 厚生労働省 — 「年収の壁」への対応
- 厚生労働省 — 年金社会保険の加入対象の拡大
- 厚生労働省 — 被用者保険の適用拡大の経緯と2025年改正
- 厚生労働省 — 女性に関係する年金制度改正と被扶養者認定基準額の推移
- 厚生労働省 — 短時間・有期雇用労働者対策基本方針(2026年)
- 厚生労働省 — 2026年10月のパートタイム・有期雇用ルール改正
- 厚生労働省 — 短時間労働者労働時間延長支援コース
- 総務省統計局 — 労働力調査(詳細集計)2025年平均結果
編集注:調査名、調査期間、対象、設問文、分母はマイナビの公開報告書で確認した。制度名と要件は国税庁、厚生労働省、日本年金機構、総務省統計局の資料に合わせた。「社会保険」は文脈に応じて健康保険・厚生年金保険を指し、制度全体を述べる箇所では厚生労働省の用語「被用者保険」を用いた。個々の加入・扶養判定は勤務先、保険者、収入の種類、契約内容で異なるため、本文は個別の税務・社会保険判断を行うものではない。提供された為替の更新時刻、8月26日午後7時24分UTCは、日本時間8月27日午前4時24分に換算した。
