万博の技術展示は、会期が終わると「未来だったもの」が倉庫へ戻ることがある。大阪・関西万博で運航された水素燃料電池船「まほろば」は、その逆の道を進もうとしている。万博会場・夢洲へ来場者を運んだ旅客船を、東京都と岩谷産業株式会社がこの冬から東京港で運航する予定だ。目的は単なる保存展示ではない。実際に人を乗せ、水素船を都市の海上空間で使い続ける。[1][3]
東京都は9月25日、東京港で使う愛称候補への一般投票を始めた。候補は「すいすい丸」「水素丸」「東京丸NEO」「ハイドロシップ」「みずなぎ」の5案。投票は11月15日までで、決定した愛称は12月をめどに発表する。ただし船舶として登録されている正式船名「まほろば」は変わらない。東京都は運航開始を「この冬」としているが、ルートと乗船場所はまだ調整中だ。[1]
「水素で走る船」だが、水素だけで走るわけではない
「まほろば」は、水素燃料電池でつくる電気と、陸上から充電する電力を組み合わせたハイブリッド船だ。燃料電池では、水素と空気中の酸素を反応させて電気をつくる。船内には燃料電池、水素貯蔵タンク、リチウムイオン電池が搭載され、モーターで推進する。[6]
東京都や万博公式サイトが強調するのは、運航時に燃料電池システムからCO2を排出しないこと、エンジン船に比べて大きな振動や燃料臭が少ないことだ。船内の静粛性は、単なる快適性だけでなく、観光船や都市旅客船では大きな商品価値になる。[4]
一方で「CO2ゼロ」という表現は、運航時に限って読む必要がある。水素をどのように製造し、圧縮・液化・輸送するか、充電電力がどの電源から来るかによって、ライフサイクル全体の温室効果ガス排出量は変わる。船そのものの排気がゼロであることと、燃料供給まで含めたカーボンフットプリントがゼロであることは同じではない。
水素製造や電力供給まで含めた環境性能は、使う水素と電力の由来によって変わる。
2019年から始まった開発
岩谷産業は2019年に水素燃料電池船の開発に着手した。2021年度にはNEDOの「燃料電池等利用の飛躍的拡大に向けた共通課題解決型産学官連携研究開発事業」に採択され、関西電力、東京海洋大学、名村造船所、日本政策投資銀行、大阪水上バスなどが協力した。[5]
NEDOの研究開発資料では、開発段階の基本計画は全長約30メートル、幅約8メートル、約120総トンの双胴船、定員約150人。燃料電池とリチウムイオン二次電池のハイブリッドで、航海速力10ノット、最大航続距離約130キロを目標としていた。[10]
その後、実船は全長33メートル、幅8メートルの2階建て、最大150人乗りとして完成した。2024年には広島での建造を終え大阪へ曳航され、認証検査と試験航行を経て、2025年3月21日に披露式典。4月から大阪・関西万博で商用運航に入った。[6][8]
万博では「動くパビリオン」だった
万博で「まほろば」は、単なるアクセス船ではなく「動くパビリオン」と位置づけられた。ユニバーサルシティーポートと夢洲を結び、乗客は水上から会場へ向かいながら水素技術を体験した。料金は片道大人3,000円、子ども1,500円、往復大人5,000円、子ども2,500円だった。[4]
万博公式資料によれば、関西電力や東京海洋大学などと協力し、水素と電力それぞれの充填・消費データを蓄積・分析して、効率的な運航を目指すエネルギーマネジメントも行われた。つまり万博での役割は「見せること」だけでなく、実際の商用運航から運転データを集めることでもあった。[4][7]
水素船で難しいのは、船より「港」かもしれない
燃料電池船を社会実装する時、船体だけを完成させても終わらない。水素を安全に運び、貯蔵し、船へ充填する設備が必要になる。電池も充電しなければならない。NEDO事業では、船舶側のエネルギーシステムと同時に、陸上から水素と電力を供給するバンカリング設備も開発対象になった。[6]
大阪では関西電力南港発電所内の設備などを活用して水素を充填した。東京での運航では、同様に安全な燃料供給、充填時間、保管、法令対応、緊急時対応が必要になる。東京都は9月25日時点で東京港の具体的な運航ルートや乗船場所を「調整中」としており、これは観光ルートの問題だけでなく、燃料・充電インフラと港湾運用をどう組み合わせるかという実装問題でもある。[1]
東京が欲しいのは「船」だけではない
東京都と岩谷産業が基本協定を結んだのは2025年10月16日。協定では、東京港での運航、水素燃料や水素燃料電池船の有用性と東京港の役割に関するPR、環境学習イベントや国際イベントでの乗船機会提供を掲げた。岩谷産業が所有する「まほろば」を活用する。[3]
つまり、東京都が導入するのは公共交通の一本の新路線というより、実証・教育・観光・国際発信を兼ねた運航プラットフォームに近い。運賃体系、定期便の頻度、通勤輸送としての位置づけなどはまだ示されていない。
ここを「東京の新しい水上バスが水素化される」と先走って表現するのは正確ではない。現時点で確定しているのは、この冬から東京港で乗船機会を提供する計画と、水素の社会実装を広く伝える目的だ。
愛称を変えても、船名は「まほろば」のまま
東京都の愛称投票は、技術実証を市民の側へ引き寄せる広報策でもある。8月末までの募集には9,000件を超える応募があり、その中から5候補が選ばれた。投票は誰でも一人1回。結果をもとに12月ごろ決定する。[1]
ただし正式な船名「まほろば」は変わらない。岩谷産業によると、「まほろば」は『古事記』で倭建命(やまとたけるのみこと)が故郷を偲んだ歌に用いた語で、「素晴らしく、住みやすい場所」の意味を込めた。自然と共生する未来が「まほろば」になるように、という願いで命名された。[9]
大阪で生まれた「まほろば」に東京向けの愛称を加えるのは、万博の遺産をそのまま展示するのではなく、別の都市で使い直すという象徴的な行為でもある。
水素か、電池か——船では二者択一でない
脱炭素船舶の議論では、水素燃料電池船と純電気船を競合技術として語りがちだ。しかし「まほろば」は、最初から両方を組み合わせた。短時間の電力需要や効率のよい領域を蓄電池で担い、エネルギー密度や航続距離の制約を水素側で補う。
NEDOの開発資料でも、純電池船は充電設備や充電時間が課題、水素燃料電池船は船とインフラのコストが課題と整理し、ハイブリッド化によって設備容量や充電時間を抑え、汎用性を高める狙いを示していた。[10]
この考え方は、船舶の脱炭素では重要だ。大型外航船、短距離フェリー、観光船、港内作業船では必要な航続距離も積載量も全く違う。一つの燃料がすべてを置き換えるとは限らない。「まほろば」は150人規模の都市・観光旅客船という限定された用途で、ハイブリッド水素システムが成立するかを示すケースになる。
次に見るべき数字は「乗った人数」だけではない
東京運航が始まった後、本当に見たいのは来場者数ではない。1航海当たりの水素消費量、充電電力量、運航率、燃料充填にかかる時間、保守費用、定員に対する平均乗船率、既存ディーゼル船との運用コスト差、そして水素供給の炭素強度だ。
万博では「未来を体験する」価値が料金に含まれていた。しかし都市で日常的に使うなら、技術は特別な体験から運航の経済性へ評価軸を移される。故障せず、予定どおり出航し、補給が簡単で、乗客が選び、事業者が維持できること。それが実装である。
東京湾で問われるのは、技術が「見せられる」かではなく、継続的に「使える」か。運航率、補給、コスト、保守、利用率まで含めて初めて社会実装になる。
万博レガシーを「次の場所」で使えるか
大型イベントには、実証技術を一気に人前へ出す力がある。しかしレガシーの価値は、会場でどれほど注目を集めたかより、会期後にどこへ行くかで決まる。
「まほろば」は大阪で来場者を運び、今度は東京港へ移る。東京都は環境学習や国際イベントにも使う予定で、愛称まで市民に決めてもらおうとしている。これは技術展示を「都市の持ち物」に変える試みだ。
ルートも乗船場所も、まだ決まっていない。だからこそ今は、成功を宣言する段階ではない。だが、2025年の万博で作られた一隻が、2026年の東京で再び人を運ぶという事実は、実証技術の次の段階を示している。
未来の交通は、未来会場だけで走っていては意味がない。万博の外へ出て、冬の東京湾で毎日動けるか。水素船「まほろば」の本当の実験は、そこから始まる。

