水素は、使う場所では軽やかだ。燃料電池に入れば水ができ、二酸化炭素は直接出ない。しかし、その手前には重い工程が連なる。水素をつくり、不純物を除き、圧縮または冷却し、貯蔵し、運ぶ。国際エネルギー機関(IEA)によれば、2025年の低排出水素は世界で約100万トンに届いたが、総生産の1%未満だった。大半は依然として、排出削減対策を伴わない化石燃料からつくられている。

8月24日に『Journal of Materials Chemistry A』で公表された研究は、この長い鎖の一部を化学結合の中へ折り畳もうとする。気体の水素を先につくってタンクへ詰めるのではない。砂糖を代謝するパン酵母が生み出す還元力を使い、水中で有機分子そのものを「充電」する。必要な時には、安価で豊富な鉄のイオンと光を使って、その分子から水素ガスを取り出す。

研究チームは、東北大学多元物質科学研究所の岡弘樹(おか・こうき)准教授と笠井均(かさい・ひとし)教授、同大学院工学研究科バイオ工学専攻の市村拓弥(いちむら・たくみ)大学院生、北海道大学大学院理学研究院の堤拓朗(つつみ・たくろう)助教(研究当時)と佐田和己(さだ・かずき)特任教授、九州大学大学院工学研究院の松本崇弘(まつもと・たかひろ)准教授ら。論文はオープンアクセスで、岡氏が責任著者を務める。

言葉の精度:酵母が反応容器の中で水素ガスをつくり、それを分子へ押し込むわけではない。発酵で生じるNADHなどが電子と水素原子を渡し、ケトンをアルコールへ還元する。その化学結合に蓄えられた水素相当量を、別の光反応でH2として取り出す。したがって「水素の直接貯蔵」は、気体を経由しない分子レベルの固定を意味する。

容器ではなく、結合を往復させる

液体有機水素キャリア(LOHC)は、水素を共有結合として有機分子へ組み込み、必要な場所で触媒反応によって外す仕組みだ。常温・常圧で扱える液体なら、タンク、配管、タンカーなど既存の液体燃料インフラを応用できる可能性がある。水素を抜いた分子を送り返し、再び使うことも設計の一部になる。

代表例の一つは、トルエンに水素を加えてメチルシクロヘキサン(MCH)にし、需要地で水素とトルエンへ戻す有機ハイドライド法だ。NEDOなどは2020年、ブルネイでつくったMCHを日本へ運び、川崎で水素を取り出し、トルエンを戻す国際サプライチェーンを実証した。気体水素の500分の1の体積で常温・常圧輸送できる一方、水素化と脱水素化には設備、熱、触媒、回送が要る。

今回の分子対は、多価アルコールと多価ケトンである。アルコールのヒドロキシ基(–OH)がケトンのカルボニル基(C=O)へ変わる時、水素ガスを放出できる。逆向きにケトンをアルコールへ還元すれば、水素相当量を結合の中に戻せる。ヒドロキシ基を一つしか持たないイソプロピルアルコール/アセトン系の理論的な水素貯蔵量は3.3重量%。研究チームは、反応点を二つ以上持つ多価アルコールなら、アルコール系の比較的低い脱水素反応熱を保ちながら、分子設計で貯蔵密度を高められると考えた。

9時間以内最適化条件で、2,5-ヘキサンジオンを2,5-ヘキサンジオールへ完全水素化したと論文が報告。
4水素原子相当ジケトン1分子が受け取った量。水素分子なら2分子分に相当する。
200℃未満アルコール系LOHCが水素を放出できる「温和な条件」の範囲として研究側が示す目安。
1%未満2025年の世界の水素生産に占める低排出水素。IEAの最新推計。

第一幕:砂糖、酵母、NADH

実験で中心になったのは、カルボニル基を二つ持つ2,5-ヘキサンジオンと、ヒドロキシ基を二つ持つ2,5-ヘキサンジオールの往復だ。多価ケトンを水、砂糖、パン酵母とともに常温・常圧で撹拌する。酵母の細胞内では砂糖の代謝に伴い、補酵素NAD+が電子と水素を受け取ってNADHになる。酵素はその還元力をカルボニル基へ渡し、ケトンをアルコールへ変える。

論文は、反応条件を最適化すると2,5-ヘキサンジオンが9時間以内に2,5-ヘキサンジオールへ完全水素化され、4個の水素原子相当を固定したと報告する。ここで「完全」は、対象物質の変換についての実験結果であって、システム全体のエネルギー効率が100%という意味ではない。砂糖の炭素が何へ変わったか、酵母量、水処理、生成物の分離、回収損失まで含めた工場の物質・エネルギー収支は別に評価しなければならない。

論文はもう一つ、水を水素源とする電気化学的な還元も示した。発酵経路の独自性は、独立した水電解装置でH2を発生させ、精製し、圧縮し、LOHCへ高圧で吹き込むという順番を取らずに済む点にある。酵母は単なる安価な粉末添加剤ではなく、多数の酵素と補酵素再生系を内蔵した生体触媒として働く。

水素ガスを運んでから分子に入れるのではない。地域にある水、糖、電力またはバイオ資源から、運びやすい分子の還元状態をその場でつくる。そこに分散型という構想の核心がある。

第二幕:鉄イオンに光を当てる

貯めるだけではキャリアにならない。チームは、多価アルコール側へ鉄イオンを加えて光を照射すると、アルコールが酸化され、水素ガスが発生し、元の多価ケトンが再生することを示した。論文要旨は、貴金属ではない地殻中に豊富な鉄(II)イオンを用いた脱水素化を概念実証と位置づける。

この半反応には、同年4月に松本氏らが発表した発見がつながっている。九州大と大阪大のチームは、配位子で組み上げた複雑な金属錯体を使わず、鉄イオンと光でメタノールから水素を出せることを報告した。先行論文では紫外光を連続照射し、塩基を加えた均一溶液で反応させた。可視光や模擬太陽光でも少量は生じたが活性は低く、水を多く含む条件では速度が大きく落ちた。反応機構も未解明の部分が残る。

今回の研究は、その鉄イオン光触媒を多価アルコール/多価ケトンの往復に組み込んだ。だから「鉄だけで水素が出る」という表現も十分ではない。外部から光エネルギーを入れ続ける必要があり、反応条件の調整剤、照射器、ガス分離も系の一部である。鉄が安いことと、最終的な水素が安いことは同義ではない。

段階入るもの起きること出るもの実用化で測るべきもの
発酵による貯蔵多価ケトン、水、砂糖、パン酵母NADHを介してカルボニル基を還元多価アルコール糖消費、選択性、速度、酵母寿命、分離エネルギー
電気化学的貯蔵多価ケトン、水、電力電極でケトンを還元多価アルコール電圧、電流効率、電極寿命、再エネ変動への応答
光による放出多価アルコール、鉄イオン、光アルコールを酸化し脱水素H2と再生多価ケトン光量子効率、ガス純度、鉄回収、副反応、長期循環
輸送・再利用充填側と放出側の液体キャリアを往復次のサイクル毒性、漏えい、腐食、回収率、輸送密度、費用

十年の研究が一つの環になった

この成果は、突然パン酵母と鉄を混ぜて生まれたものではない。日本の研究者が、気体水素を経由しない「水素固定」と、比較的低温の放出を別々に積み上げてきた延長にある。

2016年 早稲田大学の加藤亮、小柳津研一、西出宏之らが、フルオレノン系高分子を水中・室温で電気化学的に還元し、80℃、イリジウム触媒でH2を放出するシート状キャリアを報告。

2020年 NEDOなどが、ブルネイでMCHを製造し、日本で水素を取り出してトルエンを返送する国際サプライチェーンを実証。

2024年 岡氏らが、セルロース由来溶媒サイリーンをパン酵母でサイリーン-OHへ還元する水素固定と、脱水素化を組み合わせた循環を報告。

2026年3月 同グループが、ベンズアルデヒドを25℃でパン酵母により完全還元し、ベンジルアルコールからイリジウム錯体で水素を出す概念を発表。

2026年4月 松本氏らが、鉄イオンと光によるメタノールの脱水素化を報告。貴金属や合成配位子を使わない放出側の候補が現れる。

2026年8月 多価アルコール/多価ケトン、酵母または電気化学による貯蔵、鉄イオン光触媒による放出を一つの設計思想に統合。

歴史を並べると、今回の前進が見える。2016年の高分子は気体水素を使わず水から固定できたが、放出には貴金属のイリジウムが要った。2024年と2026年3月の酵母系は、発酵による直接固定を広げたが、放出側にはなお金属錯体があった。4月の鉄イオン光触媒が、そのボトルネックを別の原理で外す可能性を示した。8月の論文は、高密度化を狙う多価分子へ両方を結びつけた。

「グリーン」は、材料名では決まらない

東北大学の発表は、この循環を「グリーンH2製造・貯蔵サイクル」と呼ぶ。持続可能な資源を原料とし、製造時にCO2を排出しない水素、という同大の定義に基づく。方向性としては明快だ。バイオマス由来の多価アルコール候補、再生可能電力、酵母、鉄を組み合わせれば、化石由来キャリアと貴金属への依存を下げられる可能性がある。

ただし、「パン酵母」「鉄」「バイオマス」という材料名だけでは、ライフサイクル排出量は決まらない。砂糖やキャリア原料の栽培・精製、発酵槽の撹拌、紫外光源または太陽光集光、塩基、溶媒、水処理、鉄塩の製造、生成物の分離、液体の往復輸送、失われたキャリアの補充まで数える必要がある。キャリア内の炭素が循環しても、分解や漏えいがあれば補給が要る。

また、実験に使った2,5-ヘキサンジオンは、慢性的なn-ヘキサン曝露に伴う末梢神経障害の原因物質として知られる神経毒性物質である。これは研究結果を否定しない。概念を試すモデル分子と、物流網で大量に循環させる実用分子は同じである必要がないからだ。むしろ、チームが今後の候補としてエチレングリコールなどを挙げているのは、貯蔵密度、反応性、揮発性、毒性、入手経路、分離性を同時に最適化する必要があるためだ。エチレングリコールにも毒性があり、安全性評価は候補ごとに欠かせない。

大学発表は、H2供給コストの「大幅な削減」を期待する。一方、公開資料には、この循環全体の円/キログラムH2、往復効率、光から水素への総合効率、設備費、ライフサイクル排出原単位の比較は示されていない。現段階で言えるのは、費用の大きい工程と希少材料を減らし得る反応経路を示したことまでである。

「グリーン」を判定するために必要な勘定
  • 糖と多価アルコール/多価ケトンの原料が、廃棄物・持続可能なバイオマス・化石資源のどれか。
  • 電気化学、撹拌、照射、分離、乾燥に使う電力の炭素強度。
  • 鉄塩、塩基、水、酵母、溶媒を何回使え、どれだけ回収できるか。
  • H2の純度と、燃料電池用まで精製する追加エネルギー。
  • キャリアの分解、揮発、毒性、漏えいと廃棄処理。
  • 原料から利用地点までの温室効果ガス排出量と水・土地利用。

概念実証から、エネルギー設備へ

次の勝負は、化学式を円環に描けることではなく、その円環を何百、何千回と閉じられるかだ。発酵液には酵母、糖、塩、代謝物が混ざる。光反応側は鉄イオンと光を均一に届け、発生した水素を安全に抜き、キャリアを変質させずに戻さなければならない。生物反応と光化学反応に好都合なpH、温度、溶媒組成が同じとは限らないため、二つの槽の間に分離工程が必要になる可能性が高い。

論文が示したのは、2,5-ヘキサンジオンの完全還元と、鉄イオンを用いた多価アルコールからのH2放出を含む概念実証である。統合された連続式パイロットプラント、実輸送、燃料電池への直接供給、長期サイクル試験、独立再現、技術経済評価、ライフサイクル評価を報告したものではない。光反応の量子収率、酵母の繰り返し使用、鉄イオンの分離、微量副生成物、材料腐食も、装置設計を左右する。

それでも、この研究が提示した組み合わせには意味がある。水素技術の議論はしばしば、電解槽、圧縮機、タンカー、燃料電池という大型装置の列になる。ここでは、発酵槽の生化学と、鉄イオン一個を活性点とする光化学が、同じエネルギー物流の問いに接続された。砂糖と酵母がある地域で還元状態をつくり、液体として運び、需要地で光を使ってガスを出す——その構想なら、巨大な一極集中型設備とは別の設計空間が開く。

だが、分散型であることは小規模なら自動的に安い、という意味ではない。反応器が小さくなるほど照射面積は取りやすい一方、分離・保守・品質管理の固定費は効いてくる。酵母は安価でも無限に働かず、鉄は豊富でも回収しなければ廃液になる。必要なのは、材料の親しみやすさを価格の証明に置き換えず、1モルの水素を何ジュール、何円、何グラムのCO2相当で届けられるかを測ることだ。

パン酵母が担ったのは、未来の水素工場をそのまま焼き上げることではない。古い発酵の道具が、気体を経由せずに分子へ還元力を渡せると示したことだ。鉄と光が担ったのは、その分子から再びH2を取り出す出口である。二つを結んだ輪はまだ細い。しかし、水素の製造と貯蔵を別々の産業設備としてではなく、一つの可逆反応として設計する視点は、確かに前へ進んだ。

一次資料・主要参考文献

編集注:論文の表題、著者順、所属、DOI、2,5-ヘキサンジオンの9時間以内の完全水素化と4水素原子相当の固定、電気化学・発酵の二経路、鉄(II)イオンによる概念実証は、原論文の公開書誌・本文索引と大学共同発表で照合した。氏名、読み、役職は各大学の公式ページで確認した。「グリーン」「大幅なコスト削減」「地域分散型」は研究機関側の定義または将来見通しであり、実測済みのライフサイクル評価や価格としては扱っていない。2025年の世界動向は2026年版IEA報告を使用した。研究は環境省・環境再生保全機構の環境研究総合推進費JPMEERF20241RA4、JSPS特別研究員奨励費JP25KJ0623の支援を受け、東北大学の2026年度APC支援事業でオープンアクセス化された。イラストは概念図であり、実験装置の再現ではない。為替欄の提供時刻、8月25日午後7時48分(UTC)は、日本時間8月26日午前4時48分に換算した。