飛ぶ雁を目で追っていると、いつの間にか、その周囲の何も描かれていない場所を見ている。鳥の姿は細やかなのに、画面は窮屈にならない。葦の茂み、水面のうねり、淡く広がる金。それぞれの間に置かれた距離が、見る側の呼吸をゆっくりにする。
愛知を巡る9月13日の日曜版で選ぶのは、名古屋生まれの山本梅逸(やまもと・ばいいつ、1783〜1856)の屏風だ。クリーブランド美術館は英語で Geese, Reeds, and Water と題し、制作年代を19世紀としている。四曲一双、すなわち四つの扇からなる屏風が二隻。紙に墨、彩色、切った金箔を用いた作品である。[1]
飛ぶ鳥と、待つ鳥の間
美術館の掲載画像では、二隻が上下に並べられている。上段では、左上の一羽に対し、葦の中の二羽が首を上げている。下段では、複数の雁が右から左へ向かうように連なり、下方に水の線が重なる。この上下は画像の提示方法であり、当初の室内での配置を示すものではない。
まず一羽ずつ追い、次に鳥を見ないようにして画面を眺めてみたい。葦のある部分は線が込み合い、その周囲では急に疎らになる。飛翔する群れの下には広い間隔があり、水の描写は下辺へ寄っている。鳥の動きは翼の形だけでなく、こうした密度の差からも感じられる。
上段の二羽は、画面を地上につなぎ留めるように見える。下段の群れは、同じ場所にとどまらない。落ち着く動きと離れていく動きが、一双の中で呼応する。これは画家の意図を記録から確定した説明ではなく、作品の画像から読み取れる関係についての見方である。
「秋のリズム」という見出しには、その動静の交替を託した。赤い葉を大きく描かなくても、移動する鳥と水辺の余白から、季節の変わり目を感じ取ることはできる。九月にこの作品を選ぶ理由は、画面に日付が書かれているからではなく、こちらが季節を迎える感覚と響き合うからだ。
金は空間を埋め尽くさない
金の部分は、一面を覆う背景というより、濃淡のある帯やかたまりとして広がっている。墨の鳥や草を囲み、ときにその間を横切る。画像で見る限り、金は画面の余白を消さず、むしろ空気の層を重ねるように働いている。
ただし、画面上の色と実物の光は同じではない。箔のある表面を室内の照明や見る角度を変えて眺めたときの効果を、一枚のデジタル画像がすべて伝えることはできない。ここで確かめられるのは金の分布と墨との関係であり、実物を前にした光沢の体験まで語ることは慎みたい。
京都国立博物館は、梅逸の別作品《花卉図》の解説で、清楚な色調と枯れた墨線を特徴として挙げる。[5]今回の屏風でも、細い線と淡い部分を同じ速度で見る必要はない。描き込まれた鳥の羽に目を留めた後、線の少ない場所へ視線を移す。その往復が鑑賞の時間をつくる。
名古屋で育った、中国絵画へのまなざし
梅逸の生まれた場所は名古屋城下の天道町、現在の中区大須にあたる。名古屋市博物館によれば、中国書画を集めた神谷天遊の家で、その収集品を手本に学んだ。後に京都や江戸の文化人と交わり、京都を主な活動地とした時期を経て、晩年は名古屋で暮らした。[2]
地元にあった収集品が、遠い文化を学ぶ入口になったのである。梅逸を「愛知の画家」として紹介する際にも、その歩みを現在の県境の内側に閉じ込めることはできない。名古屋で育まれた目と、各地での交わりが重なるところに、この画家の仕事がある。
市博物館は近世尾張の文化を解説する中で、梅逸や中林竹洞らを、中国の明清絵画に学んだ南画の画家として位置づけている。[3]中国絵画への関心は、単に異国風の景色を借りることではなかった。作品を集め、見て学び、人を介して知識を共有する文化が、画家を育てる環境にもなった。
花鳥画を「墨だけの世界」にしない
今回の屏風は墨の調子が強く印象に残る。それでも、梅逸の画業全体を無彩色だけで説明するのは適切ではない。東京富士美術館は、写生に基づく花鳥画を得意とし、精細で華やかな画調をつくったと説明し、1850年の絹本着色《四季花鳥図》を所蔵している。[4]
文化庁のデータベースに掲載された、名古屋市博物館所蔵の1844年《花卉草虫図》にも手がかりがある。解説は、江戸後期の博物学の流行と、絵画に描かれる昆虫の数や正確さの変化を結びつけ、梅逸の花鳥画をその流れに置く。[6]
古画に学ぶことと、生き物を細かく見ることは、相反するものではなかった。今回の鳥の羽や葦の線も、単なる模様として流してしまうには惜しい。どこを細かく描き、どこを省くか。観察と構成の両方に目を向けると、静かな画面の中で行われている選択が見えてくる。
いまの四曲が、最初の形とは限らない
この作品には、鑑賞を深めるうえで見落とせない留保がある。クリーブランド美術館は、現在の表装が近代のものであるため、四曲一双という構成が制作時の形を保っているか判断できないとしている。現代の室内に収めるため、一部の扇が取り除かれた可能性にも触れる。可能性であって、失われた扇が確認されたという意味ではない。[1]
したがって、現在の端から端までを「梅逸が最初からこの幅に設計した」と言い切ることはできない。私たちが見るのは、絵が描かれた時間と、その後に作品が扱われてきた時間の重なりでもある。空間の広さに惹かれるからこそ、その形の由来に不明な部分があることも大切にしたい。
愛知の日曜版に、水辺の余白を
この一双を、愛知の特定の海岸や田園を写した作品とする根拠は確認されていない。今日の棚田や海苔の取材記事に添えるときも、同じ場所を描いているという関係ではない。土地で働く人々の話を読んだ後に、水や草、生き物の距離へ目を休める。そのための作品として選んだ。
クリーブランド美術館は本作をオープンアクセスで提供している。[7]掲載したのはその所蔵作品の画像であり、梅逸風に生成したイラストではない。二隻の全体と扇の境を残し、細部を見るときには美術館の記録へ進めるようにした。
鳥を見る。水を見る。そして、その間を見る。飛んでいるものを描きながら、梅逸の屏風は見る側を急がせない。日曜のひとときに残したいのは、雁の姿だけでなく、その周囲に広がる時間である。
