本日のアート・チョイス:奈良県明日香村にあり、8世紀初めごろに制作された高松塚古墳の壁画体系。墳丘は特別史跡、壁画は1974年に国宝指定された。原画は復元された墳丘内にはない。石室ごと取り外して保存施設で修理され、新しい保存・展示施設整備のため、現在は原画の一般公開を休止している。

まず寸法から始めたい。名声が作ったイメージを、数字がひっくり返すからだ。高松塚に「壁画の大広間」はない。石室の内法は、南北約2.65メートル、東西約1.03メートル、高さ約1.13メートル。大人は直立できない。二人がすれ違うのも難しい。絵師たちは、16枚の淡い凝灰岩切石に数ミリの漆喰を施した面へ、身ぶりの幅を奪う空間で絵を描いた。

そして、その部屋を途方もなく広くした。

東壁には男子群像、太陽の下の青龍、女子群像。西壁には男子群像、月の下の白虎、女子群像を対称的に配置した。奥の北壁では、亀に蛇が巻き付く玄武が北を守る。天井では、円形の金箔が星となり、朱線が星々を結ぶ。南壁と入口は中世の盗掘で破壊され、そこにあったと考えられる朱雀は失われた。

これは現代的な意味での風景画でも、事件を順番に語る物語画でもない。環境そのものを作る絵である。人間の奉仕が下界を構成し、四神が四方を定め、日月が東西を示し、天井が石を天空に変える。中央には漆塗りの木棺が置かれていた。死者が宇宙を旅する姿を描いたのではない。死者の周りに、宇宙を正しく並べ直したのである。

2.65 × 1.03 × 1.13m石室内部のおよその長さ、幅、高さ
16人東西壁に、男女4人ずつを一組として4群
1972年3月21日極彩色壁画が発見された日
694~710年古墳が築かれたとされる藤原京の時期

国中を過去へ振り向かせた顔

明日香へ行ったことがなくても、四人の姿を知る人は多い。西壁の女子群像である。黄、淡い桃、赤、緑の衣、丸みのある顔、黒い髪、縦縞の裳、重なり合う輪郭。「飛鳥美人」と呼ばれ、教科書、図録、ポスターを通じて国民的イメージになった。実物は高さ約40センチの小像だが、複製と印刷は狭い壁から切り離し、大きなアイコンへ変えた。

親しみやすい呼び名には危うさもある。「美人」と言った瞬間、鑑賞されるためにポーズを取った肖像のように見えてしまう。おそらく、より正確なのは秩序ある従者の集団として読むことだ。四人は観客を見返さない。向きをずらし、持物を携え、身体の重なりと漆喰の余白によって一つの群れを作る。主題は個人の魅力だけでなく、「仕えること」である。

8世紀初めの唐の壁画墓は、その社会的役割を照らす。706年に造られた永泰公主墓と懿徳太子墓には、女官や官人の列が描かれている。奈良文化財研究所は、現実の宮廷で仕えた人々が墓室内でも被葬者に付き従う図像として、高松塚の群像との比較を示す。高松塚は唐墓の複写ではない。しかし比較によって、人物の宮廷的な文法が読める。

国宝を解説する文化遺産オンラインの記述は慎重である。主題と画面構成には高句麗壁画との関連を認める一方、人物群像の奥行き、暈取り、重ね塗り、運筆には新しい唐代絵画との密接な結びつきを見る。中国との直接接触、朝鮮半島を経た伝播、列島に定住した渡来系の画師、その複合――何を重く見るかは長く論じられてきた。絵そのものが示すのは「複合」である。様式は海を渡り、記憶を重ね、日本の宮廷社会で作り替えられた。

高松塚は、「純粋に日本的」としても、「外国の図案をそのまま輸入した」としても小さくなる。列島の社会が、自らを東アジア世界の中に描き始めた証拠として見るとき、最も力強い。

石室をどう読むか

現存する図像石室で果たす働き
東壁男子群像、青龍、日像、女子群像宮廷の従者を置き、東・昼・龍を結ぶ
西壁男子群像、白虎、月像、女子群像西・夜・虎によって東壁と釣り合い、「飛鳥美人」を含む
北壁亀と蛇からなる玄武北を守り、棺の奥で石室を閉じる
南壁盗掘で図像を喪失南の朱雀は四方の体系から推定されるが、高松塚には現存しない
天井金箔の星を朱線で結んだ星宿図平天井を象徴的な天空へ変える

四神は高松塚よりはるかに古く、一つの宗教に収まらない。中国に起源を持つ宇宙観では、東を青龍、西を白虎、南を朱雀、北を玄武が司る。方位を生き物へ変えた守護者であり、都市、宮殿、儀仗旗、墓を正しい方向へ整える図像だった。

高松塚で四神は空白を埋める装飾以上の仕事をする。単なる飾りなら、正しい壁に置く必要はない。ここでは方位そのものが内容である。東の龍の上には太陽、西の虎の上には月、北には暗い亀蛇の神。残る三面が、失われた南面へ朱雀を期待させる。

天井には別の注意が要る。しばしば「天文図」と呼ばれるが、高松塚の星宿図は、実測的な星空の地図というより、星宿を意匠化した天空図である。近くのキトラ古墳には、赤道や黄道の円を備えた、はるかに体系的な天文図が残る。二つを混同すると、両方の個性が消える。キトラは技術的な天文秩序を示し、高松塚は星々を装飾的、象徴的、空間的な圧力へ変えた。

円い金箔は、やがて闇へ閉ざされる部屋で光を返したはずだ。朱線が星同士の関係を見える形にした。ここには根本的な逆説がある。この天空を長時間見る生者は、ほとんど想定されていない。労力と貴重な素材は、死者、埋葬時に短く目にした人々、そして図像が働きかける目に見えない存在のために費やされた。

土と金属、そして虫から作った色

高松塚の色彩の多くを「鉱物顔料」と呼ぶのは有用だが、すべてではない。発見時に落ちていた微小片の初期分析は、強い赤の辰砂・朱、ベンガラ、銅を含む緑青・群青系の緑と青、黄土、金箔を示した。その後、携帯型蛍光X線分析装置によって、壁画を傷つけず、位置を特定した測定が可能になった。鉛は広く検出され、白色部の層状構造には鉛白が確認された。

顔料名を並べると、作業が簡単な処方のように見える。しかし実際は、筆先の幅で行う工学である。切石に薄い石灰漆喰を持たせ、輪郭を定め、重なりを制御し、色を層にする。小さな円へ金箔を定着させる。重い鉱物粒子と透明感のある色料では扱いが違う。すべてが絵師の肩幅ほどしかない石室で行われた。

単純に「フレスコ画」と呼んで終えるのも正確ではない。保存科学は、湿った石灰面へ描くブオン・フレスコと、乾燥した面へ描くア・セッコの双方を実験的に検討してきた。高松塚の層構造、下塗り、保存状態は、西洋由来の一語へきれいに収まらない。現時点で安全なのは、薄い漆喰下地の上へ顔料と金属箔を施し、一部には複数層の構造があり、詳しい制作順序はいまも研究されている、と物質に即して述べることだ。

2026年2月、文化庁の古墳壁画保存活用検討会で、とりわけ鮮やかな分析結果が示された。西壁女子群像のうち、淡桃色の衣をまとう人物の彩色を非破壊の分光法で調べたところ、白色下地とともに、ラック色素に一致する有機赤色色料が確認された。ラックは南アジア、東南アジアなど温暖な地域のカイガラムシに由来する。以前の研究でも推定されていたが、新たな報告はより強い分析結果として保存記録へ位置付けた。

教科書の一頁で土地に根差して見える桃色には、長い移動経路が含まれる。舶来の鏡、大陸の宇宙観、海を越えた描画法と同じく、その色自体が交流の物証になる。そして「鉱物の色」という説明を修正する。高松塚の世界は石と金属だけでなく、列島の宮廷へ運ばれた虫由来の色によっても作られていた。

顔料を慎重に読むための五項目
  • 赤:朱とベンガラは確実に確認される。初期分析が示した他の鉛系赤色については、試料位置や混入の可能性を含めて読む必要がある。
  • 緑・青:銅が検出され、緑青や群青などの銅系鉱物顔料を支持する。ただし、すべての彩色部が同じ確度で同定されているわけではない。
  • 白:下地は石灰漆喰。白く描いた部分では鉛白の層が確認される。
  • 金:円形の金箔が星を形作り、日像にも金が用いられた。
  • 桃・臙脂:2026年の報告は、西壁女性の衣にラック由来の有機色料を確認し、色のすべてが鉱物ではないことを示した。

ショウガ穴、切石、全国的熱狂

現代の物語の始まりに、壮麗さはない。国営飛鳥歴史公園の公式史によれば、1962年ごろ、村人がショウガを貯蔵する直径約60センチの穴を墳丘南側に掘り、方形の凝灰岩切石に当たった。後に遊歩道計画をきっかけとして調査が必要になり、1972年3月、末永雅雄の指揮、関西大学の網干善教を中心に、関西・龍谷両大学の研究者と学生が発掘を始めた。

3月21日、色が現れた。五日後に新聞発表され、全国紙の一面を飾った。明日香村は、文化財発見のカラー写真が全国紙一面に掲載された初の事例だったと記録する。「飛鳥美人」は日常語となり、テレビ、出版、観光が小さな円墳を考古学ブームの中心へ変えた。

発見は趣味以上のものを変えた。巨大墳丘が小型化し、形が幾何学的に整う一方、内部には高度な図像世界を持つようになった「終末期古墳」への社会的理解を広げた。東アジア比較研究を活発にした。飛鳥の歴史的風土を守る声を強め、後の明日香法という特別な法制度へ向かう保存運動にも力を与えた。

ただし、石室はすでに傷ついていた。おそらく中世の盗掘者が南側を破り、漆塗り木棺を荒らし、副葬品の多くを持ち去った。残ったのは棺金具、銅釘、ガラス・琥珀玉、大刀の飾金具、海獣葡萄鏡などである。中国・西安の698年に造られた墓から同笵鏡が出ており、高松塚を8世紀初めへ位置付ける有力な手掛かりになった。2005年の墳丘調査は、築造を藤原京期の694~710年と確定した。

中心にいた人物だけが、いない

被葬者は、高価な材料、宮廷レベルの絵師、東アジアに通じる葬送体系を動員できた。その名がないことは、推理を誘う。天武天皇の皇子たち、高官の石上麻呂、渡来系の有力者などが候補に挙げられてきた。周辺は天武朝と深い関係を持つ墓域であり、副葬品も高位を示す。しかし、決着させる銘文はない。

不明であることは、考古学の敗北ではない。むしろ鑑賞を深くする限界だ。特定の皇子名が確定すれば、すべての図像をその生涯の挿絵へしてしまう誘惑が生まれる。名がないからこそ、石室は自らの構造で語る。身分、奉仕、方位、天上秩序、物質を運ぶ広いネットワークである。

「宮廷」を、現実の記録写真と同一視してもいけない。国宝解説は人物に当時の時世粧が表れたと見るが、群像は理想化された奉仕も演じる。四神は被葬者個人の宗教を証明せず、星宿は埋葬当夜の空を写したものでもない。石室は、権力が永遠をどう並べたいと望んだかを描く構築物である。

発見が、発見されたものを変えた

約1300年間、密閉石室は極端だが比較的安定した地下環境を保った。開口は、空気、機材、人間の熱、新たな生物を持ち込んだ。石室内の相対湿度は100%近く、短時間の入室でも温度上昇と湿度低下を起こした。1976年完成の保存施設は前室の環境を石室へ合わせ、複数次の修理が続いた。

1980年にはカビが大量発生し、薬剤などで処置された。2002~03年撮影の写真は、より深刻な変色、カビ、漆喰の脆弱化を示し、2004年に社会へ広く知られた。絵を支えるのは石そのものではない。厚さ数ミリの弱い皮膜であり、支持体から浮き、落ちる危険が増していた。考古学が原則とする「現地保存」が、守る対象を危険にさらす逆説が生まれた。

危機は行政の失敗も明らかにした。2006年の外部調査委員会は、過去の工事で不十分だったカビ対策、2002年の西壁損傷、補彩、その事実を公表しなかった経緯を調べた。組織的な隠蔽工作とまでは断定しなかった。しかし、公表機会を繰り返し逃し、連携と定期的情報公開を欠いた結果、隠蔽の印象と文化庁への不信を生んだと厳しく結論付けた。

この経緯は、美術の物語の外に置けない。保存は鑑賞後に行う見えない家事ではない。何が、どこで、誰の判断を信頼して見られるかを変える。高松塚の美は高度な技術によって救われた一方、その管理史は記録、説明責任、透明性の全国的な教訓になった。

一体の石室を守るため、石室を解体する

2005年、関係機関は抜本策を選んだ。石室を解体し、壁画石材を運び出して修理する。2006年に発掘と解体が始まり、2007年には国営公園内の仮設修理施設へ石材を移した。保存修復担当者は顕微鏡下でカビと汚れを除き、弱った漆喰を強化し、破片を接合し、微細な変化を記録し、温湿度を制御した。

13年間の主要な保存修理は2019年度に終わり、2020年に完了が発表された。初期構想には修理後に石室を戻す案もあったが、調査と検討の結果、墳丘外で安定保存する方針が続くことになった。来訪者が現在見る墳丘は外形を復元したものであり、地中に国宝壁画を再び組み立てたものではない。

この分離は、哲学的な傷を残す。壁画は壁のために作られ、高松塚の意味はとりわけ方位と閉鎖空間に依存する。石材の取り外しは物質を救い、本来の経験を壊した。複製は配置を戻せるが原物ではない。修理した原画は物質を保つが、もはや埋葬空間を作らない。損失のない解決はない。より大きな損失を防ぐため、どの損失を選んだかを記録し説明するしかない。

694~710年ごろ — 藤原京期に古墳と彩色石室が造られる。

中世 — 南側から盗掘され、推定される朱雀と副葬品の多くを失う。

1972年3月21日 — 極彩色壁画を発見。考古学・飛鳥ブームが全国へ広がる。

1973~74年 — 墳丘を特別史跡、壁画を国宝に指定。

1976年 — 環境調整型保存施設が完成。1985年まで複数次の修理。

2002~04年 — 深刻なカビ、変色、漆喰の不安定化が判明し、管理問題が表面化。

2006~07年 — 石室を発掘・解体し、壁画石材を仮設修理施設へ移送。

2020年 — 13年間にわたる主要保存修理の完了を発表。

2026年7月26日 — 世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の19構成資産の一つとして登録。

扉が閉じている時代の名画

仮設修理作業室での最後の定期公開は、第52回、2026年1月17~23日だった。隣接する国営飛鳥歴史公園館を閉鎖・解体し、地区を再整備するため、文化庁は繰り返し行ってきた原画公開を休止した。壁画の近くで工事振動などの影響を抑える必要がある。基本計画は、新しい保存管理公開活用施設を2029年度までに供用開始することを目標とする。

つまり現在、「飛鳥美人」の原画は通常の美術館のように訪ねられない。墳丘と国営公園には現地としての意味があり、高松塚壁画館では、現状模写、一部復元模写、再現模造模写などによって石室の配置を理解できる。ただし再整備が進むため、来訪前には公式情報で各施設の開館状況と条件を確認する必要がある。

7月26日に「飛鳥・藤原の宮都」が世界遺産となり、高松塚が19構成資産へ入った直後だけに、休止はもどかしい。それでも閉じることは、誠実な遺産行為になり得る。国宝は、次世代の犠牲によって現世代へ無制限に姿を見せる義務を負わない。

ユネスコ登録は所有権を変えないが、責任を国際的にする。委員会決議は日本に、取り外した高松塚・キトラ壁画の保存と、将来の移動・再設置の可能性に関する研究継続を求めた。図像、方位、場所を再び近づけながら、かつて壁画を危険にした環境を再現しない。その難問はいまも解かれていない。

なぜ今日、この作品なのか

高松塚を四人の女性だけに縮めるのは簡単だ。優雅で、人間らしく、すでに有名である。しかし作品全体は、教科書のトリミングが終わる場所から始まる。女子群像から月へ、月から白虎へ、棺を挟んで青龍と太陽へ、そして金の星へと視線を動かす。石室は別々のモチーフを掛けた画廊ではない。一つの空間的な文章である。

その文法は権威だ。従者は、死後も奉仕が続くと言う。四神は、方位が安定していると言う。対になる光は、時間と対立が秩序を保つと言う。星は、上空にも模様があると言う。ここで美術は個人の感情を表現するのではない。死という絶対的な無秩序に直面した政治的上層部のため、永続性を製造する。

それでも永続性は、示唆に富む形で失敗した。名は消え、盗掘者が入り、金は剥がれ、水が漆喰を通り、変化した環境でカビが育った。保存担当者は、彩色の皮膜を救うため建築を解体した。現在の高松塚は、手つかずの古代ではない。古代の絵師、中世の盗掘者、現代の考古学者、微生物、化学者、行政、そして社会による、望まれず不均衡な共同制作でもある。

そのことは、作品を小さくしない。むしろ狭い部屋をさらに大きくする。高松塚には、初期の日本宮廷が想像した世界、色と思想を運んだ海の道、再発見された顔に夢中になった現代国家、壊れやすい像を未来へ送る倫理が同居する。幅一メートルで十分だった。宇宙と、1300年の帰結を収めるには。

取材メモ・情報源

歴史、科学分析、保存、公開情報は2026年7月30日午前10時12分(日本時間)までに確認した。石室寸法は詳細な国営飛鳥歴史公園の日本語解説に基づく。文化庁の古い英語ページには幅について整合しない数値がある。顔料は分析報告が確定的に示す物質と、元素から推定される候補を区別した。被葬者は未特定で、南壁の朱雀は方位体系からの推定である。ヒーロー画像は現代の概念図で、原画ではない。