一本の枝に、同時には起きない時間が並ぶ。葉をはう幼虫、動きを止めた蛹、翅を開いた成虫。マリア・ジビーラ・メーリアン(1647~1717年)の『スリナム産昆虫変態図譜』第7図は、昆虫の成長を連続する場面としてではなく、一枚の植物の周囲へ折り畳んだ。

アムステルダム国立美術館が所蔵する図版のオランダ語題は「西インドチェリー(Malpighia glabra)と2頭の蝶、幼虫、蛹」。右下に「7」と入り、1705年刊の本の一葉である。植物は花瓶の飾りではない。昆虫が食べ、休み、姿を変える場所として、画面の骨格になっている。

ただし、作品を「メーリアンが水彩で描いた蝶の絵」とだけ呼ぶと、制作の実態を落とす。この一葉はピーテル・スライターがメーリアンの素描をもとに制作したエッチングで、手彩色が施され、彩色者はメーリアンに帰属されている。観察者、素描家、版画家、彩色者の仕事が重なった出版物である。

メーリアンは昆虫の変態を「発見」したのではない。 同時代にはヤン・スワンメルダムらも変態を研究していた。彼女の独自性は、生活史の段階と昆虫が関わる植物を、観察と構図の両方で一つの像にした点にある。
1705年『スリナム産昆虫変態図譜』初版刊行。
全60図オランダ語版とラテン語版を用意。
385 × 290ミリ第7図の版面寸法。
52歳娘ドロテアとスリナムへ出発。

植物は背景ではなく、生活史の証拠

西インドチェリーの枝は、画面を左下から右上へ導く。幼虫、蛹、成虫は、白地に標本のように離して置かれない。葉や茎に触れ、それぞれの状態で植物と関係する。見る者は蝶の模様だけでなく、「どこで生きるのか」まで読むことになる。

アムステルダム国立美術館は、メーリアンを昆虫と、それらが暮らす植物をともに描いた最初期の画家として位置づける。日本のJT生命誌研究館も、幼虫と食草を組み合わせ、採集場所、蛹の期間、翅の模様などを文章で記した点に注目する。分類名を並べる図鑑とは異なり、絵と記述が生活のつながりを示す。

もっとも、一枚の図が現代の生態学的データと同じ精度を持つわけではない。大きさは構図のために変えられ、後世の同定で組み合わせに疑問が出た例もある。第7図を見るときも、美術館の登録情報が示す植物と昆虫の主題を超えて、すべての種や食草関係を断定しないことが必要だ。

一枚に折り畳まれた、複数の時間

この図の強さは、時間を矢印で説明しないところにある。幼虫から蛹、成虫へという順序は、左から右へ機械的に並ばない。枝の曲線、葉の向き、翅の開閉が視線を巡回させ、成長の段階を何度も行き来させる。

それは、ある一瞬を写した風景ではない。同じ個体の全段階を一度に見た場面でもない。飼育と観察で得た複数の時点を、一つの植物の上に再構成した合成像である。時間の連続性を、空間の同時性へ変換した。

白い余白も重要だ。密林の奥行きや地平線を消したことで、枝は舞台装置のように浮かび、昆虫の小さな変化が大きな出来事になる。装飾と説明のどちらかへ割り切れない構図が、メーリアンの博物画を今日まで強く見せている。

変態は、幼虫が蝶になる一度きりの奇跡ではない。食べる植物、動かない蛹、翅を得た成虫を結ぶ、時間と場所の関係として描かれた。

水彩原画と出版図版を分けて見る

メーリアンの制作を語るとき、「精緻な水彩」という説明は半分だけ正しい。アムステルダム国立美術館には、羊皮紙に不透明・透明水彩を重ねた素描が残る。一方、『スリナム産昆虫変態図譜』として流通した像は、銅版から刷られ、手で彩色された出版図版だった。

第7図について美術館が記録する役割は明確だ。版画家はピーテル・スライター、原図はスリナムでのメーリアンの素描、彩色はメーリアン帰属。技法はエッチングと手彩色で、版面は縦385ミリ、横290ミリ。ページ全体は縦525ミリ、横345ミリに達する。

本には通常の刷りのほか、濡れた刷りを別紙へ押し当てる「カウンタープルーフ」も用意された。線が反転して淡くなり、水彩に近い見え方をつくるためだ。どの像を見ているかによって、線、色、制作者の表記は変わる。「メーリアン作品」という一語の内側に、複数の物質と手がある。

13歳の観察から、1705年の大著へ

メーリアンはフランクフルトに生まれ、花を描く画家ヤーコプ・マレルの工房で素描、彩色、版画を学んだ。アムステルダム国立美術館によると、13歳ごろからイモムシを集め、餌を与え、姿が変わる過程を記録した。のちに花の手本集と、昆虫の変態を扱う「イモムシの本」を出版した。

1691年には娘たちとアムステルダムへ移り、標本、素描、彩色画を扱う工房を営んだ。港湾都市には植民地交易を通じて各地の動植物が集まったが、多くは死んだ標本だった。メーリアンが求めたのは、昆虫が何を食べ、どのように蛹になり、いつ成虫になるかを生きた状態で観察することだった。

1705年に自費出版した『スリナム産昆虫変態図譜』は、高さが50センチを超える大判本で、60枚の手彩色図版を収めた。購入者はオランダ語かラテン語の本文を選べた。小さな昆虫を、大きなページと高価な色で見る対象へ変えた出版設計でもある。

52歳で、娘とスリナムへ

1699年6月、52歳のメーリアンは21歳の次女ドロテア・マリア・グラフとスリナムへ渡った。当時のスリナムはオランダの植民地で、砂糖などのプランテーションが奴隷労働に支えられていた。2人は生きた昆虫を集め、飼育し、植物とともに記録した。

約2年後の1701年、メーリアンは病気のため予定を早めてアムステルダムへ戻った。持ち帰った素描、記録、標本をもとに大判本を準備し、4年後に刊行した。遠征を英雄的な個人旅行としてだけ語ると、誰が道を案内し、標本を集め、現地名や利用法を教えたのかが見えなくなる。

旅が可能になった背景には、アムステルダムの市場、収集家、印刷業、植民地航路があった。作品の驚異的な近さは、現地で生きた虫を見た経験から生まれた。同時に、その接近は植民地支配の交通と労働から切り離せない。

1647年 フランクフルトに生まれる。

1691年 娘たちとアムステルダムへ移る。

1699~1701年 ドロテアとスリナムで調査。

1705年 『スリナム産昆虫変態図譜』初版を自費出版。

1717年 アムステルダムで死去。

誰の知識でできた本か

アムステルダム国立美術館は、先住民と奴隷化された人々が標本を集め、動植物の名前や知識を伝えたと説明する。メーリアン自身も本の中で、奴隷化された人々への虐待に言及した。彼女の観察は個人の目だけで完結せず、現地の人々の経験に依存していた。

しかし、協力者の個人名や、それぞれの知識がどの図と文章に反映されたかは、現在確認できる作品情報から十分にたどれない。植民地で得た知識が、アムステルダムでメーリアンの名を冠した商品になる構造も残る。称賛と批判を二者択一にせず、その両方を作品の条件として読む必要がある。

制作面でも単独作家像は修正されている。長女ヨハンナ、次女ドロテアは工房で昆虫を描き、彩色し、作品管理を担った。アムステルダム国立美術館は、工房作とされる水彩の一部についてドロテアの手の可能性を示す。版画家や彩色者を含め、図譜は女性たちを中心とする工房と出版の共同作業だった。

「科学」と「芸術」を分ける前の見方

メーリアンを「科学者か、画家か」と問うと、作品の働きを狭くする。色と曲線は、見る者を引きつける装飾であると同時に、種や成長段階を見分ける情報になる。植物の配置は構図であり、生息関係についての仮説でもある。

昆虫の変態そのものは、彼女以前にも知られ、同時代の自然研究者が調べていた。だから重要なのは「最初」の称号ではない。個々の幼虫を飼い、変化を記録し、植物との関係を大判の図にまとめたことで、観察の時間を他者が見られる形式へ変えたことだ。

第7図を見る順序
  1. まず、画面を支える西インドチェリーの枝と葉を追う。
  2. 葉に接する幼虫と、動きを止めた蛹を探す。
  3. 2頭の蝶の翅の向きと、枝がつくる流れを比べる。
  4. 美術館の作品情報で、版画家、原図、彩色、寸法を確認する。
  5. 掲載画像が原作品か、複製か、編集イラストかを区別する。

一枚の絵にいるのは、蝶だけではない。幼虫が食べた葉、蛹が過ごした静止、成虫が得た翅、そしてそれを観察し、採集し、描き、版に刻み、色を置いた人々の時間がある。メーリアンの図譜は、変態を美しくしたのではなく、美しさを使って変化の関係を見えるものにした。