まず花火を見ようとすると、目は右上へ連れていかれる。赤と黄の火が、夜空を直線ではなく、ゆるく震える帯になって落ちている。爆発の中心は画面外にあるようにも見える。大輪を正面から描くのではなく、火が力を失い、闇へ戻っていく途中を選んだ。

次に見えてくるのは、下辺を埋める人の頭だ。顔も身分もほとんど読めない。山高帽らしい輪郭、髷を思わせる形、肩と肩の隙間。近代の帽子と旧来の髪形が同じ黒い帯へ沈み、個人ではなく「見る群衆」になる。頭上には紙提灯が横一列に渡される。中央で木の幹と重なる高い人影について、メトロポリタン美術館は、よく見ようと木に登った子どもたちと説明している。群衆の黒い帯から抜け出す方法まで、清親は一つの影にした。

画面の大半を占めるのは、出来事ではなく暗さである。黒一色ではない。青みを帯びた夜空、樹木のさらに重い黒、対岸の建物、水の層。清親は闇を塗りつぶさず、深さの違う場所として組み立てた。花火はその闇を消す照明ではなく、闇の広さを一瞬だけ測る物差しになる。

作品情報: 日本語の公式所蔵記録では題名を《池の端花火》、制作年を明治14年(1881)、版元を福田熊次郎、形式を大判錦絵とする。掲載画像はメトロポリタン美術館所蔵の別摺で、同館がパブリックドメインとして公開している。各館の寸法は、所蔵する摺やシートの状態により異なる。
1881年清親が《東京名所図》の制作から離れる節目の年。
93図1876~81年に手がけたと公的美術館が整理する光線画。
20.3×31.4cmメトロポリタン美術館所蔵摺の画面寸法。
1874年東京・銀座通りに最初のガス街灯85基が点灯。

不忍池は、反射するための舞台になった

太田記念美術館の作品解説は、舞台を上野の不忍池畔と特定し、右の暗がりを池の中央にある弁天島と説明する。遠景の灯りは赤や黄色の短い縦線となって水に映る。建物を細かく描く代わりに、反射だけで対岸の存在を知らせる。目に届くのは物そのものではなく、物から離れて揺れた光だ。

不忍池は江戸の時代から景勝地であり、蓮見と遊興の場所だった。寛永寺の天海は、池を琵琶湖、池中の島を竹生島に見立て、弁天堂を建立した。現在の堂は戦災後の再建であり、清親が描いた明治14年の建物と同じものではない。しかし、水、島、堂、岸から眺める人という空間の骨格は、作品を現在の地図へつなぐ。

花火を描くなら、両国の大川を選ぶ伝統があった。清親自身も前年ごろに《両国花火之図》を制作している。《池の端花火》は、より閉じた水面と近い群衆を選ぶ。空へ開く祝祭なのに、観客の視線は木立と提灯に囲まれている。この圧縮が、花火を遠い光に変える。

光は四種類あり、どれも長く続かない

画面には少なくとも四つの光がある。落下する花火。紙を内側から赤く透かす提灯。対岸の窓や灯り。水面に伸びる反射。それぞれ寿命と距離が違う。花火は数秒、提灯は一晩、対岸の灯りは建物の生活に従い、反射は水が動くたびに切れる。

メトロポリタン美術館は、この場面の提灯をろうそくで灯したものと説明する。ここにガス灯は描かれていない。一方、東京では1874年12月、金杉橋から京橋までの銀座通りに85基のガス街灯がともり、1877年ごろまでには356基へ増えたと東京ガスの社史は記す。1881年の都市の夜は、突然一様に明るくなったのではない。新しいガス灯、商店や家の灯火、提灯、ろうそく、月、火が、場所ごとに違う強さで共存していた。

清親は文明開化の象徴を正面から礼賛しなかった。ガス灯のある銀座、新橋駅、煉瓦街、鉄橋といった新風景も描いたが、関心は新設備の目録ではない。灯りが雨の路面へどう伸びるか、雪の中で建物をどう浮かせるか、人物をどれほど黒くするか。近代化は、明るい物体ではなく、光が周囲に生む関係として画面に入った。

画面での形照らすもの清親が残したもの
花火赤・黄の揺れる落下線と火の粉周囲を全面的には照らさない爆発より、消えていく時間
提灯赤い円筒形が横一列に浮かぶ紙の内側と近くの空気祝祭の装置と群衆の境界
対岸の灯り遠い点の連なり建物の位置を暗示描かない建築を感じさせる距離
水面の反射短い赤・黄の縦線物体ではなく揺れる水見えない岸と水の動き
残された闇青黒、灰黒、純黒の層光源の外側すべて光が存在するための空間
清親が発見したのは、東京が明るくなったという事実だけではない。新しい灯りによって、古い闇の深さまで見えるようになったことだった。

幕臣の子が、消えた江戸を東京で描く

小林清親は1847(弘化4)年、江戸本所の御蔵屋敷で、幕府御蔵方組頭の子として生まれた。国立国会図書館は生年月日を1847年9月10日、没年月日を1915年11月28日とする。青年期には幕臣として伏見の戦いに参加し、幕府崩壊後は徳川家に従って家族と静岡へ移った。清水、静岡、鷲津村を経て東京へ戻り、生活の道として絵へ向かった。

西洋画をチャールズ・ワーグマンに、写真術を下岡蓮杖(しもおか・れんじょう)に学んだと伝えられる。河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)や柴田是真(しばた・ぜしん)との関係も公的略歴に記される。ただし、修業の時期、長さ、直接性には資料上の揺れがある。清親の新しさを一人の西洋人教師から受け取った「技法」として単純化するより、洋画、写真、石版、銅版を観察し、伝統木版の工程へ翻訳した試行として見るほうが正確だ。

明治9年(1876)、版元・松木平吉から東京の風景を描く五点を発表した。後に《東京名所図》と総称される作品群の始まりである。版元はやがて福田熊次郎へ移り、山口県立萩美術館・浦上記念館などの整理では、1881年までに計93図となる。

描かれた東京は、清親が幼少期に知った江戸ではない。煉瓦街、汽車、ガス灯、洋館、電信柱が現れ、旧幕府の空間は別の都市名の下で作り直されていた。だから画面の郷愁は、近代化への単純な拒否ではない。清親は新しい都市をよく見た。その視線が鋭いほど、消えたものの輪郭も濃くなった。

「光線画」は、木版画の集団作業だった

光線画は油絵ではない。国立国会図書館は、写生をもとにした錦絵を木版で制作し、水性顔料で彩色したと説明する。太田記念美術館は、従来の浮世絵で一般的な主版、すなわち輪郭線を極力使わず、色の面で人や自然を捉えた点を挙げる。空や雲を複数の色版とぼかしで変化させ、水面の影や灯りを細い線の重なりで表した。

一人の絵師の眼から始まっても、版画は一人では完成しない。下絵を版木へ移し、彫り、色版を合わせ、紙と水分を調整しながら摺る。《池の端花火》の日本側所蔵記録は福田熊次郎を版元として挙げる。版元は資金、企画、製造、流通を担う。摺ごとに色の濃さ、ぼかし、紙、余白、裁断が異なるため、同じ図柄でも所蔵館によってシート寸法や夜の表情が少しずつ違う。

暗い版画ほど、分業の精度が露出する。黒を重ねすぎれば、水面と岸は一つになる。薄ければ夜の密度が失われる。赤い提灯を強くしすぎれば花火と競い、弱ければ群衆を区切るリズムが消える。《池の端花火》は、絵師の着想だけでなく、彫りと摺りが「見えないもの」を残す技術によって成立している。

光線画を見る五つの手がかり
  1. 明るい部分より先に、闇が何層に分かれているかを見る。
  2. 輪郭線が消え、色面だけで人物や建物が立つ場所を探す。
  3. 空、水、濡れた路面にある「反射」を、光源と分けて追う。
  4. ガス灯、提灯、月、火など、異なる光の寿命を比べる。
  5. 一枚の表現を、絵師・版元・彫師・摺師の共同制作として考える。

1881年、花火とともに一つの時期が終わる

《池の端花火》が刊行された1881年は、《東京名所図》の終点でもある。町田市立国際版画美術館と太田記念美術館は、清親がこの年を最後に光線画から離れたと説明する。理由を一つに決める資料はない。大火で住まいを失ったこと、出版環境や需要の変化、新聞・雑誌の仕事へ軸足を移したことなどが経歴上重なるが、特定の一因で説明するのは避けるべきだ。

その後、清親は『団団珍聞(まるまるちんぶん)』などで政治風刺画を発表し、時事報道画、漫画、挿絵へ広げた。日清戦争期には、光と影の効果を戦争錦絵にも用いた。写実的な花鳥画、歴史画、美人画、銅版・石版、肉筆画にも取り組む。「光線画の人」という呼び名は代表作を示すが、34年ほど続くその後の画業を隠しやすい。

「最後の浮世絵師」とも呼ばれる。だが、その言葉は便利すぎる。浮世絵が突然終わり、清親一人が最後に立っていたわけではない。弟子の井上安治(いのうえ・やすじ)は東京の光景を受け継ぎ、後の展覧会は清親から織田一磨、吉田博、川瀬巴水へ至る風景版画の連なりを検証してきた。「最後」は断絶を強調するが、清親の画面は次の時代へ渡された観察法でもある。

1847年 — 江戸本所御蔵屋敷に生まれる。

1868年 — 幕府崩壊後、徳川家に従い静岡へ移る。

1874年 — 東京・銀座通りに最初のガス街灯が点灯。

1876年 — 松木平吉から東京風景五点を発表。光線画の時期が始まる。

1879年ごろ — 版元が福田熊次郎へ移る。

1881年 — 《池の端花火》。同年を最後に《東京名所図》から離れる。

1883年ごろ — 時事報道画、漫画、挿絵へ活動の軸を移す。

1894~95年 — 日清戦争を題材とする錦絵を制作。

1915年 — 11月28日死去。68歳。

小さい画面が、夏の夜を大きくする

メトロポリタン美術館所蔵摺の画面は20.3×31.4センチ。大型スクリーンではなく、両手のあいだに収まる。にもかかわらず、上の暗い空は広く、下の群衆は多い。尺度を大きく感じさせるのは、細部を足したからではない。何も描かない空間を恐れなかったからだ。

見物客の顔を省いたことで、観る側は145年前の特定人物を眺めるだけでは済まない。黒い頭の列の後ろへ、自分の視点がつながる。花火を待ち、首を上げ、隣の肩越しに一瞬の火を見る身体感覚が戻ってくる。

8月の終わりにこの一枚を選ぶ理由も、そこにある。盛夏の花火は終わりの気配を含む。《池の端花火》の火は咲き切る前でも、最も明るい瞬間でもない。落ちながら細くなり、すでに消え始めている。提灯も反射も、夜明けまで残らない。

近代は、夜を昼に変える速度で語られがちだ。清親は逆に、光が消える速度を描いた。

作品を自由に見られるということ

掲載した画像は、メトロポリタン美術館がパブリックドメインとして公開する所蔵摺である。同館の作品番号は2016.577、2016年にセバスチャン・イザードとミキ・イザードから寄贈された。別の摺は太田記念美術館、慶應義塾大学、スミソニアン国立アジア美術館などにも所蔵される。

同じ版から生まれた複数の紙が、東京、ニューヨーク、ワシントンなどに残る。画像を拡大すれば、紙の繊維、色のかすれ、版の継ぎ目、余白の汚れまで見える。デジタル公開は、作品を「同じ画像」に均質化するようでいて、実際には各摺の違いを比較する入口にもなる。

《池の端花火》は、明治の新しい光を記録した。それから145年後、画面は発光する端末で見られている。しかし、端末の明るさを上げすぎれば、清親が残した青黒の差は消える。もっと見ようとして明るくするほど、見えなくなるものがある。この版画は今も、光の扱い方を観る者へ問い返す。