茶碗を一つ選ぶことから、産地の歴史が見えてくる。9月12、13日に開催予定の第95回せともの祭は、名鉄瀬戸線・尾張瀬戸駅周辺と瀬戸川沿いを中心に、街そのものを陶磁器の売り場にする。瀬戸市の観光案内によれば、名物の大廉売市には約200軒が並ぶ予定だ。日曜の13日は午前9時から午後5時30分まで。器を見比べながら、その背景にある土、技術、商いへ目を向ける一日になる。[1]

安く買えることは、この祭りの大きな魅力だ。ただ、値札だけで通り過ぎるには惜しい。なぜこの街では陶器と磁器がともに育ち、日用品と美術品が同じ産地の仕事として成り立ってきたのか。95回目の祭りは、その問いを手のひらに載せて考える機会でもある。

不況の中で始まった廉売市

せともの祭の出発点には、陶磁器を売るという切実な仕事があった。瀬戸陶磁器卸商業協同組合が運営する祭りの歴史紹介は、1932年、加藤民吉の遺徳をしのぶ祭礼に合わせて廉売市が開かれ、「せともの祭」の名称が使われ始めたと説明する。世界恐慌下の不況で積み上がった在庫を整理し、産地を支える目的があったとされる。[2]

この来歴を知れば、「廉売」は伝統工芸の価値を損なう脇役ではないと分かる。作った器が使い手に届くことは、窯業が続くための条件だ。祭礼と販売が結びついた瀬戸の祭りには、技術への敬意と、暮らしの品を流通させる現実が初めから同居している。

今年の主催は大せともの祭協賛会。公式プログラムには、市や商工会議所に加え、陶磁器製造、卸売、珪砂鉱業、商店街などの団体が名を連ねる。一人の陶芸家の制作だけでなく、素材から販売までを担う人々の集まりが、この街の産業祭を形づくっている。[3]

民吉は「最初から」磁器をつくったのか

祭りがたたえる加藤民吉(かとう・たみきち)は、瀬戸の磁器の発展に尽くし、「磁祖」と呼ばれる陶工だ。ただし、九州から帰った一人が、何もなかった土地に突然磁器を生んだ、という説明では歴史を取りこぼす。

瀬戸市の紹介によれば、民吉と父は九州修業以前から磁器の製法を学び、瀬戸で試し焼きを重ねていた。品質をさらに高めるため、民吉は1804年に九州へ向かい、天草や長崎の佐々などで技術を学ぶ。1807年の帰郷後、その経験を瀬戸の生産に生かした。市は、修業には瀬戸村と尾張藩の支援があったとも説明している。[4]

この経緯から浮かぶのは、孤立した天才というより、技術を学び、持ち帰り、産地で展開する仕事である。瀬戸の伝統は、外からの知識を拒むことで守られたのではない。新しい製法を取り込み、既にあった仕事に結びつけながら育ってきた。

千年の蓄積は、土と窯跡に残る

民吉の時代よりはるか前から、瀬戸ではやきものがつくられていた。日本六古窯の公式解説では、10世紀後半に灰釉陶器を焼く窯が現れ、12世紀後半から鎌倉時代初期にかけて、古瀬戸と呼ばれる施釉陶器の生産へ進んだとされる。灰釉とは、灰を用いた釉薬。素地を形づくるだけでなく、表面をどう焼き上げるかという工夫も、産地の歴史に刻まれている。[5]

地域にある木節(きぶし)粘土や蛙目(がえろめ)粘土などの原料、窯を築く地形、燃料となる森林も生産を支えた。瀬戸は常滑、信楽、丹波、備前、越前とともに日本六古窯に数えられる。「せともの」が陶磁器一般を指す言葉になった背景には、長くつくり続け、広く届けてきた産地の存在がある。[5][6]

店先の品を見ても、歴史が一つの色や形に収まらないことは想像できる。古い技法を守る仕事もあれば、暮らしに合わせて寸法や使い勝手を変える仕事もある。産地の連続性とは、同じものをそのまま繰り返すことだけではない。

青い絵付けと、山本梅逸のつながり

白い器に青の濃淡で描く瀬戸染付焼(せとそめつけやき)には、焼成と絵画が出会った歴史がある。伝統的工芸品産業振興協会の解説では、19世紀初めに導入された磁器の技術と、画家から学んだ絵付けが影響し合い、同世紀半ばに技術・技法が確立したとされる。[7]

同協会は、その発展に関わった画家として山本梅逸(やまもと・ばいいつ)や横井金谷を挙げる。本日曜版の美術選に選んだ梅逸は、瀬戸の工芸史にも接点を持つ。紙の上の絵画と器の上の絵付けは、別々に閉じた世界ではなかった。[7]

染付は、主に呉須(ごす)というコバルト系の顔料で素地に描き、その上に釉薬をかけて焼く下絵付けだ。線の細さだけでなく、濃淡や余白がどう働いているかを見ると、器の見方が変わる。なお、瀬戸染付焼には陶器に染付を施したものも含まれ、青白い絵柄だけで材質を決めつけることはできない。[7]

買い物の前後に、産地の仕事を見る

瀬戸蔵ミュージアムでは、器が店に届くまでの仕事をたどれる。2005年に開館した館内には、昭和30〜40年代の街をイメージした旧尾張瀬戸駅、陶房の「モロ」、石炭窯や煙突が配置される。上階では、瀬戸焼の長い歴史を出土資料や製品から紹介している。[8]

工場や輸送の展示があることは大切だ。陶磁器を、作家の署名がある一点物だけで理解することはできない。日々の食器を数多く生産し、運び、販売してきた仕組みも産地の文化である。市で手にした一枚を、その仕事の流れの中に置き直すことができる。

今年は瀬戸市美術館で、瀬戸陶芸協会の創立90周年を記念する「瀬戸陶芸協会90年のルーツを辿る」が9月27日まで開催されている。主催者の解説では、1936年に創立された協会の歩みを125点で紹介する。祭りの95回と協会の90周年は別の歴史だが、商いと芸術が同じ街で展開してきたことを、続けて考えられる。[9]

次のつくり手へ、祭りの外で続く支え

技術を次へ渡す仕事は、祭りの2日間だけでは完結しない。瀬戸市新世紀工芸館には陶芸とガラス工芸の研修制度があり、研修生が自らの課題と制作計画に取り組む。施設の説明によれば、工房では専門の技術スタッフが制作を支援している。[10]

今年の祭りのプログラムにも、瀬戸染付工芸館の研修生・修了生の作品展示販売や染付の体験が盛り込まれた。学ぶ場所と売る場所がつながることで、つくり手には作品への反応を知る機会が生まれる。来場者にとっても、完成品の後ろにある試行錯誤を知る入口になる。[3]

日曜日に出かけるなら

大廉売市は13日午後5時30分までの予定だ。公式プログラムは、指定店に番号があり、購入品には店名シールを付けると案内している。後から問い合わせたいときのため、店名を残しておくと役立つ。[1][3]

使う器を選ぶなら、重さや口縁の感触、収納したときの収まりを確かめたい。電子レンジや食器洗浄機で使えるかは、色や見た目だけで判断せず、販売店に確認する。産地や作り手について尋ねることも、買い物を一段深くする。廉売市という名称は、すべての商品が同じ作り方や品質、価格条件であることを意味しない。

交通面では、主催者側は駐車場が少ないため公共交通機関の利用を呼び掛けている。9月11日の更新では、水無瀬中学校の駐車場は雨のため閉鎖とされ、市営宮川駐車場も利用できない。天候による変更があり得るため、出発前に最新の公式案内を確認したい。[1]

祭りから持ち帰るものは、買った器と、その器について知ったことだ。食卓で使うたびに、重さや絵柄、売り手とのやり取りを思い出す。大廉売市が産地と暮らしを結ぶのは、そうした日々の使い道が生まれる瞬間でもある。