名古屋城の歴史を、天守が焼けた1945年5月14日だけで語ることはできない。周辺には軍の施設の名残があり、戦争を記念する碑がある。戦後に再建された建物も、焼失を免れた絵画もある。それぞれが、異なる時代の判断を今に伝えている。

愛知県が9月11日に発表した「学芸員とめぐる戦争のつめ痕~名古屋城界隈~」は、そうした歴史を足元から考える機会になる。11月7日、愛知・名古屋 戦争に関する資料館を見学した後、城周辺の戦争遺跡を巡る予定だ。戦争の跡を見つけることと、その意味を読み解くこと。その間をつなぐのが、資料を調べ、保存し、説明する人たちの仕事である。[1]

学芸員と歩く理由

案内するのは伊藤厚史(いとう・あつし)さん。公式チラシによると、名古屋市見晴台考古資料館の学芸員で、愛知・名古屋 戦争に関する資料館のアドバイザーを務める。専門は日本考古学。名古屋市南区の見晴台遺跡で出土した高射砲陣地跡の調査をきっかけに、戦争遺跡に関心を寄せたという。[2]

考古学の視点は、古い物を年代順に並べるだけではない。どこに残り、何と結び付き、どこまで確かめられるのかを問う。例えば、軍の敷地を区切った塀と、戦死者を顕彰する碑では、残された意味が違う。前者は土地の使われ方を、後者は建てた側の価値観を考える手掛かりになる。

今回のチラシのコースには、第三師団の煉瓦塀、軍馬軍犬軍鳩碑、野砲兵第三聯隊跡の碑などが示されている。空襲による傷だけを探す道ではない。軍事組織や記念碑が日常の空間に置かれていた歴史をたどる道でもある。[2]

城から軍の拠点へ、そして市民の城へ

明治以降の名古屋城は、幾度も役割を変えた。城の公式史によれば、1872年に本丸へ陸軍の分営が置かれ、翌年には名古屋鎮台となった。天守は仮兵舎、本丸御殿は本部として使われた。軍施設の整備が進む一方、二之丸御殿などは撤去された。[4]

1893年には本丸などが宮内省に移り、名古屋離宮となる。1930年に名古屋市へ移管され、翌年、一般公開が始まった。城全体をひとくくりにして「軍の施設だった」「観光地だった」と説明すると、区域ごと、時期ごとの変化が抜け落ちる。[4]

この経過を知ると、城周辺の碑や塀が、天守の歴史から外れた余談ではなくなる。近代国家が古い城郭をどう利用し、人々を軍隊へ組み込んだのか。戦争の被害を学ぶと同時に、戦争を進める仕組みが地域にどう存在したのかも考える必要がある。碑文の言葉は、そのまま今日の評価に置き換えず、誰が何のために刻んだのかを読むべき史料だ。

同じ日の空襲を、一枚の証明書から見る

1945年5月14日朝、米軍のB29による空襲で、名古屋城の天守や本丸御殿などが焼失した。一方、東南隅櫓や西南隅櫓など、戦災を免れた建物もあった。現在の風景は、すべてが焼け残ったわけでも、すべてが戦後に造られたわけでもない。[5]

同じ5月14日を、別の角度から伝える資料がある。戦争に関する資料館の収蔵資料紹介に掲載された罹災証明書だ。自宅が全焼した際、北警察署長名で発行されたもので、緊急援護物資の支給や交通機関の無料利用につながったと説明されている。[6]

天守の焼失は都市の象徴を失う出来事だった。証明書は、その同じ日に家を失った人が、次の食事や移動を確保するために必要とした手続きを伝える。大きな建物と小さな紙片を一緒に見ることで、都市の被害が一人ひとりの生活へ戻ってくる。

資料館には、衣料切符や軍事郵便、戦時教育に使われた紙芝居も紹介されている。着る物、家族との連絡、子どもの遊びや学びにも戦争は入り込んでいた。[7]城周辺を歩く前に資料館へ立ち寄る順序には、建造物だけでは見えにくい暮らしを考える余地がある。

失われた御殿と、残された絵

保存を担う人々の仕事は、失われる前にも始まっていた。本丸御殿の襖や天井板絵などは取り外して別の場所に保管されたため、多くが戦火を免れた。国の重要文化財に指定されている障壁画は1,047面。現在は西の丸御蔵城宝館で保存・管理しながら公開されている。[8]

建物がなくなっても、調査の記録は残った。江戸時代の図面、明治から昭和にかけての写真、実測図が、後の本丸御殿復元を支えた。[9]測る、撮る、外す、保管する。それぞれは地道な作業だが、失われた空間を後世が検証するための条件になる。

絵画を再現する「復元模写」も、その延長にある。名古屋市は1992年から本格的に取り組み、原画の材料や技法を研究してきた。公式の工程紹介には、顕微鏡による調査や、欠損部分を史料で補う作業が示されている。[11]目の前の華やかさを支えるのは、色を塗る技術だけでなく、何を根拠に描けるのかを確かめる仕事でもある。

再建された城も、戦後の記録

現在の天守は、市民らの寄付に支えられて1959年に再建された鉄骨鉄筋コンクリート造の建物だ。老朽化や耐震性の問題で閉館している。[10]本丸御殿は2018年に復元が完成公開された。[14]これらを戦災前から残る建物と区別して見ることは、再建の価値を損なわない。むしろ、失われた城を取り戻そうとした戦後の人々の選択が見えてくる。

一方、街の復興は、城の外観が戻るまでの一本道ではなかった。資料館の戦後資料には、引揚証明書や名古屋市復興都市計画図、1950年の母子手帳がある。[12]帰る場所を定め、街をつくり直し、子どもを育てる。復興を生活の営みとして考えるための資料である。

現地で古びた石や欠けた煉瓦を見ても、見た目だけで空襲の傷と決めつけることはできない。修理や移設の履歴、写真、調査記録と照らして初めて説明できることがある。分からない部分を分からないまま示す慎重さも、歴史を伝える力になる。

家庭に残る資料を、次の世代へ

愛知・名古屋 戦争に関する資料館は、県民から寄せられた実物資料を通じて地域の戦争体験を伝える施設だ。暮らし、軍隊や戦地、戦後の地域史を併せて扱っている。[3]記憶を受け継ぐ仕事は、専門家だけでは完結しない。家庭で残されてきた手紙や写真が、誰に、どこで、どのように使われた物なのかという情報とともに引き継がれてこそ、地域の歴史を具体的に語れる。

資料館は寄贈の相談を電話で受け付けている。ただし収集対象は愛知県内在住者が所有する資料で、保管場所などの事情から受け入れられない場合もある。郵送での受付はしていない。[13]何でも集めれば保存になるわけではなく、受け入れた後の管理まで続けられることが必要なのだ。

11月の散策が終わった後にも、見慣れた街は残る。その塀は何を囲んでいたのか。その碑は誰を記念しているのか。残らなかった人や暮らしを、どの資料から知ることができるのか。歩く前より具体的な問いを持てることが、歴史を保存する人たちと街を歩く意味になる。

参加案内

日時2026年11月7日(土)13時〜15時30分。受付12時45分から。
集合・解散愛知県庁大津橋分室1階の資料館に集合。名古屋市役所付近で解散。
定員・料金抽選25人、参加無料。
申込期限10月17日(土)16時。電話、メールまたはFAX。詳細は公式発表と申込書を確認。
天候雨天決行、荒天中止。

主催は戦争に関する資料館運営協議会。時刻はすべて日本標準時。[1]