一枚の小袖が、病床の女性そのものになる。能『葵上』で、題名の人物を演じる役者は舞台に出ない。正面先に置かれた「出し小袖」を、六条御息所の生霊も、祈る横川の小聖も見つめる。葵上の不在が、嫉妬する御息所の内面を深く見せる仕掛けだ。

その小袖から葵上を立ち上がらせるような新作が、2027年の東京で準備されている。J-CULTURE FEST presents 東京国際フォーラム開館30周年記念の詩楽劇「浮雲は天に濡れつつ~源氏物語より葵上~」は、1月4日から11日まで、東京国際フォーラム ホールD7で上演される。発表は2026年9月7日。本稿公開時点では稽古や本番を見た批評ではなく、公式発表と古典資料を照合したプレビューである。

構成・演出は尾上菊之丞、脚本は戸部和久。光源氏に紅ゆずる、葵上に三代目藤間紫、頭中将に黒羽麻璃央が配され、尾上も出演する。中井智弥、長須与佳、吉井盛悟が和楽器を担う。主催者が「詩楽劇」と呼ぶ形式に定着した英訳は確認できない。ここでは、詩、舞踊、演技、和楽器を組み合わせる新作の呼称として扱う。

2027.1.4–11ホールD7
14公演公表日程の合計
桐壺→藤裏葉第1帖から第33帖
2017J-CULTURE FEST開始

54帖を八日間の舞台へ

副題は「源氏物語より葵上」だが、公式説明が示す射程は「葵」巻だけではない。全54帖のうち、光源氏の誕生を描く第1帖「桐壺」から、若き日の栄華が頂点に達する第33帖「藤裏葉」までをたどるという。八日間14公演の一作に、源氏の前半生と複数の恋を圧縮する構想である。

新作は藤原定家を枠物語の人物に置く。紫式部の自筆原稿は現存せず、物語は長い写本の伝承を通じて届いた。公式あらすじでは、どの本文を証本とすべきか悩む定家の前で、源氏と葵上の物語が動き始める。これは文献学の解説そのものではなく、伝承と選択を舞台化する劇的装置と読むべきだ。

題名に定家を置かず、それでも定家に「結末」を見つめさせる構造は示唆的である。古典は一冊の不変の容器から取り出されるのではない。書写し、編集し、演じる人間の判断を経て、そのたびに輪郭を得る。新作もまた、その連鎖の一つに自分を位置づける。

「葵」巻――車争いの屈辱と見えない霊

『源氏物語』「葵」巻の転回点は、賀茂祭の見物をめぐる車争いである。懐妊中の葵上の一行と、身分を隠して来ていた六条御息所の一行が場所を争い、御息所側の車は押しのけられる。かつて東宮妃であった女性の誇りと、源氏の愛が遠のく不安が、公衆の面前で傷つく。

その後、葵上は物の怪に苦しみ、出産後に亡くなる。だが物語本文の強さは、嫉妬を単純な犯行声明にしない点にある。御息所は、自分の魂が身体を離れているのではないかと恐れ、罪悪感と疑念に揺れる。超自然の出来事と心理の経験は、きれいに分離されない。

「嫉妬深い女が正妻を殺した」という粗い要約では、この不確かさも、複数の女性を競争へ追い込む光源氏の行動も消えてしまう。葵上と御息所の悲劇を読むことは、怪異の正体を当てることではなく、誰の欲望が誰の沈黙をつくったかを問うことでもある。

能は、葵上を舞台から消した

能『葵上』は「葵」巻を題材とし、世阿弥が改作した曲とされる。ただし、小説をそのまま舞台に移したものではない。照日の巫女や横川の小聖が登場し、六条御息所の生霊は破れ車で現れ、後場では鬼女の姿となって祈りと対決する。見えない感情が、声、面、装束、囃子、舞によって可視化される。

最大の省略は葵上本人だ。日本芸術文化振興会の教材が説明する通り、葵上を表すのは後見が置く出し小袖である。対立する二人の女性を同時に人物として出さず、観客の注意をシテである御息所の屈折へ集める。欠席は軽視ではなく、能の厳しい焦点化だ。

古典は同じ事件を保存したのではない。小説は曖昧さを抱え、能は不在を造形し、近代劇は病室へ移し、新作は葵上自身の選択を前景化する。

曲名は「あおいのうえ」と読む。舞台上の小袖は小道具であると同時に、病室の場所を定め、登場人物の視線を受ける演技の焦点になる。物語の中心人物を消すことで、その周囲の暴力を濃くする――『葵上』が繰り返し上演される理由の一つは、この大胆な抽象化にある。

鬼になるのは、誰の感情か

能では六条御息所の生霊が前シテ、鬼相となった生霊が後シテを務める。梓弓に導かれ、失った地位と愛を嘆き、葵上を破れ車で連れ去ろうとする。後場では横川の小聖の祈りに抗い、最後は調伏される。嫉妬と恨みが、身体を持つ舞台像になる。

しかし、鬼女の面を「女性の嫉妬」の記号だけに閉じると、曲の気品と苦痛を取りこぼす。御息所は高い教養と社会的地位を持ち、その自己像が崩れることに耐えられない。能楽協会の解説も、賀茂祭の車争いで受けた屈辱を嫉妬の直接の契機として挙げる。私的な情念は、身分、評判、公の視線から切り離せない。

Japan.co.jpの分析では、新作が現代に届くかどうかは、御息所を障害物、葵上を被害者、源氏を恋愛の主人公という固定役に置かないことにかかる。公演前に結論は出せないが、公式あらすじが葵上の自由と源氏の孤独を対置している以上、その複雑さを舞台上でどう釣り合わせるかが見どころになる。

三島由紀夫が病室へ運んだ「葵上」

20世紀には、三島由紀夫が能を現代の病室へ移した。戯曲『葵上』は1954年に発表され、翌1955年に文学座が初演した。『近代能楽集』の一編で、夫・若林光、入院中の妻・葵、かつての恋人・六条康子を配し、自動車と電話が生霊の不気味さを運ぶ。

日本芸術文化振興会の資料によれば、三島は能の自由な時間・空間処理や形而上学的主題を生かすため、状況を現代化したと説明した。能の筋を衣替えしたのではない。現代的な道具を使い、いまそこにいる身体と、別の場所で眠る身体が同一人物なのかという裂け目を作った。

この翻案史が示すのは、現代化が衣装の変更では済まないということだ。各時代の観客が現実だと思う空間、欲望、恐怖の制度まで作り替えてこそ、古典の構造は再び働く。2027年の新作も、その試験を受ける。

新作は葵上に声と身体を返す

公式あらすじで最も大きな変更は、葵上が政略で定められた結婚に葛藤し、「自分の人生を自分で生きたい」と願う人物として語られることだ。光源氏は愛を知らない孤独な若者、頭中将はやがて親友になる相談相手として再構成される。これらは『源氏物語』や能からそのまま取り出した事実ではなく、新作独自の人物設計である。

葵上を演じる藤間紫は、2021年に三代目を襲名した紫派藤間流家元。光源氏役の紅ゆずるは元宝塚歌劇団星組トップスター、頭中将役の黒羽麻璃央はミュージカルと映像で活動してきた。構成・演出の尾上菊之丞は尾上流四代家元でもある。異なる舞台身体を一つの作品へ集める配役だ。

声を返すことは、自動的に解放になるわけではない。新たな台詞が、現代の価値観を平安の人物に着せるだけになる可能性もある。逆に、千年にわたり他者の視線で形作られた葵上が、沈黙の意味を自分の身体で問い返すなら、能の不在とも鋭く対話できる。

二十五絃箏、尺八、琵琶、太鼓、篠笛、胡弓

演奏陣は、中井智弥が二十五絃箏、長須与佳が尺八と琵琶、吉井盛悟が太鼓、篠笛、胡弓を担う。通常の能囃子を再現する編成ではなく、音域も発音原理も異なる楽器を並べた現代的な構成である。

二十五絃箏の幅広い音域、尺八の息、琵琶の語りを帯びた撥音、太鼓の衝撃、篠笛の線、胡弓の持続音。これらが具体的にどの人物や場面へ割り当てられるかは、発表資料にない。したがって、音楽が感情をどう説明し、あるいは説明を拒むかは本番を待って判断すべきだ。

同時開催のホールD5特別講演「江戸時代にも流行した『源氏物語』」は、大名から町人まで広がった受容を扱う。江戸期には注釈、絵本、俗語化された作品を通じて、物語は宮廷の外へ読者を広げた。舞台と講演の組み合わせは、古典が文学史と上演史の両方を持つことを示す。

千年の物語を「保存」ではなく上演する

J-CULTURE FESTは、東京国際フォーラム開館20周年記念事業として2017年に始まった。主催者が掲げるのは「伝統と革新」。2027年はフェスティバルの10年と同館の開館30周年が重なる。だが「伝統」は品質保証の印ではない。新作が何を継ぎ、何を変えたかを観客が見分けられるだけの文脈が必要だ。

『源氏物語』、能『葵上』、三島の近代劇、新しい詩楽劇は、同じ筋の四つの容器ではない。小説の語り、能の象徴、近代劇の現実感、歌舞舞踊と和楽器を組む新作には、それぞれ別の倫理と時間がある。つながりを示すことと、差異を消すことは違う。

葵上は、長く他者の欲望が交差する場所だった。能は彼女を一枚の小袖に凝縮した。2027年の舞台は、その小袖から一人の女性を歩かせようとする。成功の尺度は、古典らしい美しさの量ではない。葵上、御息所、源氏の誰にも単純な役札を貼らず、古い物語から新しい問いを生み出せるかである。

公演案内(2026年9月7日発表時点)
  • 公演:詩楽劇「浮雲は天に濡れつつ~源氏物語より葵上~」
  • 会期:2027年1月4日(月)~11日(月・祝)、全14公演
  • 会場:東京国際フォーラム ホールD7
  • 料金:一般11,000円、U-25 5,500円/講演セット一般12,500円、U-25 6,000円(いずれも税込)
  • 公式先行:10月8~14日/プレイガイド先行:10月19~25日/一般発売:11月7日午前10時
  • 日程、販売条件、出演者は変更される場合がある。購入前に公式情報を確認してほしい。

資料と編集上の区分

公演名、日程、出演者、楽器、料金、公式あらすじは主催者発表に基づく。作品の価値や上演の成否に関する記述はJapan.co.jpの分析であり、未上演作品の評価ではない。引用符内の葵上の言葉は主催者発表のあらすじにある表現で、『源氏物語』本文の引用ではない。