2026年の現在地は、二つの建設現場に表れる

戸に残る二つの古い国際クラブは、対照的な物理状態で2026年を迎えた。磯上公園のKR&ACでは、2025年に供用を始めた人工芝2面を運営し、ビジター予約を受け付け、室内サッカー、抜刀、ホッケーの定例活動を告知する。一方、北野の神戸倶楽部は本拠施設を全面建て替え中で、2027年春の再開を予定している。

違いは不動産だけではない。KR&ACはスポーツを反復可能にするために生まれた。艇庫、体育館、共用グラウンド、対戦日程、遠方のライバルが必要だった。神戸倶楽部は小さな外国人社会の日常を安定させるために生まれた。バー、図書室、ビリヤード、会話、委員会といった社交の仕組みを担った。両者の役割は重なっても、同じではない。

二つを並べると、日本の開港場史に欠けがちな関西側が見える。横浜にはより早いクラブがあり、神戸に不可欠な対戦相手となった。神戸には、居留地、雑居地、山、海が近接する都市空間があった。近代スポーツは「西洋」から「日本」へ一方向に渡ったのではない。港、船、クラブ、学校、日本人の団体を往復しながら制度になった。神戸はそのネットワークの重要な接続点だった。

1869年外国人27人が神戸倶楽部の前身「英国倶楽部」を設立。
1870年A・C・シムと31人がオリエンタルホテルでKR&ACを設立。
1871年神戸の漕手が汽船で横浜へ遠征し、港対抗の伝統が始まる。
2027年神戸倶楽部が北野で再開を予定する春。

神戸は遅れて開港し、急速に都市をつくった

兵庫港は1868年1月1日に開港した。神戸市の近現代史によれば、その時点で外国人居留地の造成は間に合わず、完成は同年6月26日だった。正式な居留地は、現在のフラワーロードを東端、鯉川筋を西端とする海岸沿い25町余りに計画された。

工事の遅れは神戸に独特の空間を生んだ。旧生田川から宇治川まで、海岸から山麓までの広い「雑居地」で日本人と外国人の居住が認められた。外国商人は居留地で働き、高台に住むことも多かった。神戸市は、この近接した暮らしの中から寛容性をもつ「ハイカラ」文化が育ったと位置づけている。

もちろん、雑居があったから不平等条約の体制が穏当だったわけではない。治外法権と指定居留地は、法的に不平等な国際秩序の装置だった。ただし神戸の都市構造は、商館の外にも接触の場を増やした。海岸遊歩道、山、港、体育館、クラブのバー、レクリエーション・グラウンドである。

スポーツは移動しやすかった。規則と道具が要る一方、何より身体、相手、空間が要る。日本人が観戦し、参加し、模倣し、自らの団体をつくった時点で、クラブは競技の行方を独占できなくなった。

先に生まれた神戸倶楽部は、居留地の「居間」だった

1869年5月1日、外国人男性27人が、現在の元町に近い「日本人町」で「英国倶楽部」を設立した。「インターナショナルクラブ」とも呼ばれたこの組織は、翌年に外国人居留地へ移り、「神戸クラブ」を名乗った。会員増加を受け、1879年には加納町の広い土地へ移転した。

1890年、英国人建築家アレクサンダー・ネルソン・ハンセルの設計による建物が完成した。神戸市立図書館は、レクリエーション・グラウンドの南に建った石と煉瓦の調和した建築を、ハンセルの代表作の一つとする。神戸倶楽部の公式史には、日本一長いとされたカウンターのバー、図書室、ビリヤードルーム、ボウリングアレー、談話室があったと記される。

試合をしない部屋もスポーツを支えた。商人の出入りが多い社会に継続性を与え、委員会、掲示、紹介、チーム編成、試合後の交流を可能にしたからだ。同時に、会員制は境界を引く仕組みでもあった。1869年の「インターナショナル」は、社会全体に開かれた普遍性を意味しない。創設者は法的特権を持つ居留地の外国人男性だった。その後の歴史は、狭い創設基盤をどのように広げたかという物語でもある。

1890年の建物は1945年の空襲で焼失した。戦後、倶楽部は加納町の土地を売却し、1955年に旧トーアホテル跡地を取得、翌1956年に北野の施設を完成させた。1995年の阪神・淡路大震災では建物が持ちこたえ、被災者約200人の避難場所になった。私的な社交クラブが一時、都市の緊急インフラになったのである。

薬剤師、新聞告知、32人の同好者

KR&ACは1870年9月23日、オリエンタルホテルで設立された。英字紙『Hyogo News』の告知に応じ、スコットランド出身の薬剤師で万能スポーツマンだったアレクサンダー・キャメロン・シムと31人が集まった。当時、中国人を除く外国人人口は約300人だったとクラブは記す。32人は軽い集まりではなく、小さな西洋人社会の相当部分を占めた。

設立から半年以内に、居留地南端、現在のフラワーロード突き当たりの神戸税関付近に、組立式の艇庫と体育館ができた。KR&ACは1870年12月24日、シムを審判兼スターターとして神戸・関西初のレガッタを開いたとしている。

日本ローイング協会の全国年表も、シムら英国商人による1870年のKR&AC設立と横浜ローイングクラブとの港対抗を掲載し、「日本初の定期レガッタ」の始まりと位置づける。一方、同年表は1861年に長崎、1863年に横浜で競技用ボートのレースがあったことも示す。従って、神戸の特徴は「日本で最初に舟を競わせた」ことではない。関西に継続的なクラブと港対抗の仕組みをつくったことにある。

横浜へ向かう汽船が全国回路をつくった

KR&ACによれば、1871年、神戸のボートチームは汽船で横浜へ行き、横浜ローイングクラブ、日本ローイングクラブと対戦した。まだ鉄道は二港を結んでいない。選手、艇、規則、試合結果は、郵便や新聞、貿易品と同じ海路を動いた。

これが「インターポート・マッチ(港対抗)」の技術だった。小さな地域クラブでも、遠方に継続的な相手がいれば水準を保てる。毎年の遠征が、ばらばらな外国人の余暇を日程表へ変えた。のちに対抗戦はフットボールなどへ広がり、クラブ、グラウンド、政治体制が変わっても記憶された。

港対抗は「発祥地」の主張も複雑にする。神戸と横浜の関係が両都市に不可欠なら、どちらか一方だけが始まりを所有することはできない。革新は、告知、航海、合意した規則、再戦、記録という関係そのものだった。近代スポーツは全国組織ができる前から、ネットワークとして組み上がっていた。

レクリエーション・グラウンドが最大の突破口だった

施設の確保は不安定だった。1872年、KR&ACは、のちに初代内閣総理大臣となる伊藤博文の協力も得て運動施設の確保へ動いた。1875年、土地が「外国人及び日本人の共同レクリエーションのための永久信託」として指定され、レクリエーション・グラウンドとなった。現在の東遊園地につながる場所である。

「外国人及び日本人の共同」という文言は重い。居留地の階層性を消したわけではないが、公共目的を明記した。KR&ACは1877年5月に最初の陸上競技会を開き、翌年に新しい体育館を建てたとしている。神戸市によれば、体育館は劇場としても使われ、「体育館劇場」「居留地劇場」と呼ばれた。スポーツ、演劇、社交が同じ制度に収まった。

神戸市の居留地史には、自転車、乗馬、ビリヤード、クリケット、テニス、陸上、レガッタ、フットボール、サッカー、ヨットが並ぶ。これは活発なスポーツ生態系の証拠である。しかし、すべてをKR&ACが単独で日本へ紹介した証拠ではない。ほかの外国人団体があり、寄港船が対戦相手を供給し、日本の学校は独自の部を発展させ、競技によっては他港に早い記録がある。

最古のフットボール対抗戦は、正確な呼び方が必要だ

KR&ACの公式史は、横浜のYC&ACとの試合を1888年2月18日とし、「日本初の公式フットボール試合」、神戸勝利と記す。日本サッカー協会(JFA)の100周年年表も、YC&ACとKR&ACのインターポート・マッチを「日本最古の対抗戦」と認定している。

従って、強く、かつ安全に言えるのは次の範囲だ。神戸―横浜戦はJFAが日本最古の港対抗クラブ戦と位置づける。2月18日という日付と「初の公式試合」という表現はKR&ACの記録に基づく。さらに19世紀末の「フットボール」は、現在のサッカーとラグビーの区分に常にきれいに対応するとは限らない。

JFAの広い年表が、その区別の必要性を示す。外国人による横浜のフットボールクラブは1866年、日本人学生が東京で競技を教わった通説上の時期は1870年代である。港対抗はクラブ競技の節目だが、日本のすべてのフットボール史がその一日から始まったわけではない。

クリケットとラグビーも同じ慎重さが要る。神戸市は居留外国人の間でクリケットや複数のフットボールが盛んだったことを確認する。KR&ACは、ラグビー、テニス、ホッケーの発展に貢献し、クリケット、野球などを開催したとする。しかし今回確認できた公開一次資料だけでは、クラブによる「日本初のクリケット試合」「日本初のラグビー試合」と断定できない。神戸の重要性は、一つの初記録より、競技の幅、継続性、反復する交流にある。

神戸の最大のスポーツ発明は、一つの球技ではなかった。共用グラウンド、総合スポーツクラブ、寄港船、遠方のライバル、反復できる試合という「運営システム」だった。

居留地が終わると、クラブは日本の制度になる必要があった

改正条約は1899年7月に発効し、外国人居留地と治外法権の秩序は終わった。KR&ACは半自治的な飛び地の中だけでは存続できない。港湾拡張は水辺の施設も東へ押し出し、1900年、クラブはボートや水上競技の拠点を約4マイル東の「Mirume」へ移した。中心部のレクリエーション・グラウンドは維持した。

クラブ史では、その後約40年が黄金期である。陸上、ボート、水泳、水球、セーリング、ヨット、ローンボウルズ、テニスが行われた。1905年、日本当局はKR&ACを非営利の「社団法人」として認可した。この法的転換は重要だ。外国人クラブは、日本法に認められた団体になることで存続した。

社会との関係は競技だけではない。1923年の関東大震災後、KR&ACは横浜から来た避難者に施設を開放したと記録する。これは1995年に両クラブが果たす役割の前例となった。

戦争は水辺、グラウンド、最後にはクラブ活動を奪った

1930年代までに埋め立てが進み、Mirumeの艇庫は事実上内陸になった。KR&ACは海水プールを設けたが、戦時産業の拡大を背景に1939年、神戸製鋼所へ土地を売却するよう迫られた。深江に代替地を求め、1940年に施設を整えたものの、使用前に再び売却を強いられた。

圧力は強まった。1941年末、警察がクラブを閉鎖し、その後、監視下で再開を認めた。1944年1月には陸軍がレクリエーション・グラウンドのクラブハウスと体育館を接収した。北野に買った建物は空襲で失われ、1945年7月、戦時委員会は全活動を停止した。

神戸倶楽部も活動停止を余儀なくされ、ハンセル設計の1890年建物は空襲で焼失した。この時期を一般的な「困難」として和らげるべきではない。アジア・太平洋戦争はクラブの資産と国際社会を断ち切り、空襲は周囲の神戸市にも甚大な被害を与えた。

戦後の存続には、もう一度の移転が必要だった

KR&ACは1945年10月、Shoiyaの仮施設で限定的に活動を再開した。レクリエーション・グラウンドは日本軍の接収後、占領軍の管理下に入った。1952年6月に市街地の施設が返還され、1953年2月14日に正式再開した。

しかし古い中心地には残れなかった。神戸市は周辺整備のため、クラブを磯上公園へ移そうとした。会員は1961年12月に条件を受諾し、1962年2月6日にレクリエーション・グラウンドの施設を引き渡し、約半年後に現在の磯上拠点を開いた。

地理は変わったが、起点から遠くない。磯上公園は三宮の東、旧居留地と水辺から徒歩圏にある。1995年の震災では、KR&ACが被災者に建物を開き、グラウンドは1年以上、がれき置き場として使われた。三木谷研一理事長の現在のメッセージによれば、市役所が大きな被害を受けた後、クラブ建物2階で罹災証明を発行したという。

2026年のKR&AC――古い名称、一般にも向く施設

KR&ACは会員制クラブである一方、公式施設ページは一般利用が可能だと繰り返し案内し、受付への電話を求める。現在の施設には、体育館、フィットネス室、バレエスタジオ、会議・レセプションホール、ビリヤード、ダーツ、卓球、照明付きテニス2面、人工芝2面がある。通常のレストラン営業は休止中で、喫茶のみ非会員も利用できるとする。

最新投資は「KR&AC Field」である。34メートル×17メートルの人工芝2面が2025年2月1日に供用を始めた。2026年の年間予約情報を掲載するフィールドページは、フットサルや各種スポーツ・レクリエーション向けとし、更衣室、シャワー、トイレ、ビジター単発予約、年間定期利用を案内する。公表営業時間は火曜から日曜の10時~22時、電話予約受付は10時30分~17時30分である。

定例プログラムは混成的だ。日本人と外国人に室内サッカー、室内ホッケー、抜刀への参加を呼びかける。ウクライナ人ダンサーが指導するバレエスタジオには年齢別、成人向けのクラスがあり、テニスコートはビジター貸し出しをする。現在のクラブは、英国スポーツの保存区というより、輸入競技、日本文化、新しい国際移動が共存する小さな都市基盤である。

2026年の神戸倶楽部――継続性を建て直す

神戸倶楽部は2014年に一般社団法人となり、現在は外交・行政、学術・研究・医療、民間企業など、30カ国以上の会員が集うと説明する。2019年に創立150周年を迎え、1869年からの連続性を確認したが、物理的には再び「建物の間」にいる。

中央区北野町4-15-1のクラブハウスは建て替えのため閉鎖中だ。公式計画は2027年春の完成・再開を予定し、正面ゲート、既存樹木の約70%、プール、車路を残す。敷地には15邸の分譲レジデンスも加わる。阪急阪神不動産との共同事業で、施工は竹中工務店である。

古い国際クラブにとって、何が継続性をつくるのかという問いが表れる。木々、門、プールを残せば、記憶は目に見える。より難しい試験は再開後だ。会員制の住所を、より広い国際都市に意味のある交流へ再び変えられるかどうかである。

確認済み住所、電話番号、公式サイト

以下は2026年7月18日、両クラブの現行連絡先ページで確認した。KR&ACのアクセスページ本文にはメールアドレス中に余分な句読点があるため、サイト共通フッターでも確認できる正しい表記を用いた。神戸倶楽部は工事中、海岸通の事務所が実働連絡先であり、北野の敷地は訪問できない。

団体・窓口確認済み連絡先公式ページ
神戸レガッタ・アンド・アスレチック倶楽部(KR&AC)〒651-0085
神戸市中央区八幡通2丁目1-20
電話:078-231-2271
FAX:078-221-5702
kobe.regatta.and.ac@gmail.com
クラブ:火~日 10:30~21:00
事務局:10:30~18:00
公式トップ
アクセス・営業時間
公式史
KR&AC施設・フィールド住所・電話は同じ
フィールド:火~日 10:00~22:00
最終受付 21:00
電話予約 10:30~17:30
月曜休館。月曜が祝日の場合は営業し、翌火曜休館の場合あり
施設
空き状況・予約
スポーツ・教室
神戸倶楽部・建て替え期間中事務所〒650-0024
神戸市中央区海岸通2-2-1
第二萬利ビル200号室
電話:078-958-9952
FAX:078-958-9957
kobeclub@office.email.ne.jp
神戸倶楽部公式サイト
現行事務所・連絡先
建て替え計画
神戸倶楽部・北野の恒久敷地〒650-0002
兵庫県神戸市中央区北野町4丁目15-1
建て替え期間中は閉館
2027年春再開予定
公式史
お知らせ
公共交通KR&AC:JR・阪急・阪神・地下鉄・ポートライナー三宮駅から徒歩約15分、ポートライナー貿易センター駅から徒歩約4分
神戸倶楽部:閉館中は北野へ行かず、海岸通事務所へ連絡
KR&AC道順
神戸倶楽部事務所地図

確認できた今後の予定と定例プログラム

7月18日の確認時点で、両クラブの公開サイトに7月21日以降の単発公開イベントは掲載されていなかった。神戸倶楽部の公開ニュースは建て替え案内が中心で、一般向けイベントカレンダーはない。KR&ACは複数の定例活動を掲載し、ビジターも受け入れる。以下の日付は公開後の通常の次回を曜日から示したもので、祝日、貸切、講師都合で変更され得る。必ず電話確認してから訪問したい。時刻は日本標準時。

通常の次回プログラム公表された参加条件・料金
7月23日(木)
13:30
抜刀「Samurai Team」
KR&AC 3階体育館
初心者、日本人・外国人歓迎。会員無料、ビジター1回1,500円、初回無料と案内。事務局へ開催確認が必要。
7月23日(木)
19:00
室内サッカー
KR&AC 3階体育館
初心者歓迎。会員無料、ビジター1,500円、初回無料。施設ページには古い「水曜」表記もあるが、専用教室ページは木曜。要確認。
7月26日(日)
10:00~12:00
室内ホッケー
KR&AC 3階体育館
初心者、男女、日本人・外国人歓迎。会員無料、ビジター1,000円、初回無料。参加前に確認。
火~金
10:00~16:00
テニスコート貸し出し会員無料、ビジターは1面1時間2,500円と掲載。予約が必要。
火~日
10:00~22:00
KR&AC人工芝フィールド予約年間予定の空き枠でビジター単発利用、年間定期利用を相談。電話078-231-2271。
日程は問い合わせウクライナ・オデッサ・バレエ/Just Dance、KR&AC Englishビジター参加を案内するが、英語教室ページには「第3土曜」「第4土曜」の矛盾があり、日程変更の注意もある。推定日ではなく事務局へ確認。
2027年春まで神戸倶楽部建て替え公開イベントではない。北野施設は閉館中。完成・再開予定は2027年春で、問い合わせは仮事務所へ。

「近代スポーツの誕生」は何を意味すべきか

この言葉は、一回の発明ではなく過程を表すときに有効である。神戸の外国人はクラブを組織し、道具を購入し、試合を日程に組み込んだ。船は対戦相手を供給し、横浜は継続的なライバルになった。日本人の観客、学生、行政関係者、その後の競技団体は、観察し、参加し、規則を翻訳し、自らの制度をつくった。

資料から具体的に確認できることは多い。KR&ACは1870年9月23日に設立され、同年12月に関西初期のレガッタを開いた。日本ローイング協会は1870年の神戸―横浜関係を日本初の定期レガッタの始まりとする。JFAは神戸―横浜戦を日本最古の港対抗フットボール戦とする。神戸市はKR&ACを神戸初の本格的スポーツクラブ、レクリエーション・グラウンドをスポーツと娯楽の中心と位置づける。

しかし、KR&ACが日本の全近代スポーツを発明したという証拠ではない。競技ボートの早い記録は長崎にあり、フットボールとクリケットの早いクラブは横浜にある。日本の学校と競技団体には独自の系譜があり、クリケット、ラグビー、陸上は複数経路で広がった。正確に限定するほど神戸の成果は面白くなる。散発的な遊びを継続的なインフラへ変え、関西を全国・国際回路へ接続したのである。

二つのクラブは、より神戸の一部になることで生き残った

両クラブは当初、外国人の避難所のような役割を担った。だが最も公共的な瞬間は、創設時の範囲を超えた人々に施設を開いた時に訪れた。1923年の避難者、1995年の被災者、市役所被災後の罹災証明業務である。日本法に基づく法人化、磯上公園への移転、日本人会員、ビジター向け活動は、制度を少しずつ神戸へ結び直した。

適応は今も続く。水辺が遠のき、実際のボート活動が消えても、KR&ACの「Regatta」は起源を残す。現在は小型人工芝2面があり、体育館ではホッケーと抜刀、ウクライナ・バレエが同居する。神戸倶楽部の新施設は、木々とプールを残しながらレジデンスを敷地に組み込む。どちらも博物館資料ではない。

最も持続した地理は都市そのものだ。海岸通と旧居留地から東遊園地、磯上公園、北野の山麓まで、神戸は港、公共空間、国際コミュニティーを歩ける距離に圧縮している。外国人クラブは、そこで近代スポーツが根を張るのを助けた。本当の成果は、その根がクラブの外へ伸びたことにある。

出典・参考資料

編集部注:調査は2026年7月18日までに確認した。「日本初」の表現は資料が支える範囲に限定した。1888年2月18日と「初の公式フットボール試合」はKR&ACの記録、YC&AC―KR&AC戦を日本最古の港対抗とする評価はJFAの年表による。ローイングは、日本ローイング協会の全国年表を用い、神戸―横浜の定期レガッタと長崎・横浜のより早い競技レースを区別した。公開サイトでは発行後の単発イベントを確認できず、KR&ACの定例活動は変更確認を条件に掲載した。為替表示は本号指定の「1 US Dollar = 162.39 Japanese Yen」をそのまま用い、UTC更新時刻を2026年7月19日4時07分JSTに換算した。ヒーロー画像は現代のデジタル編集イラストであり、歴史的な錦絵、写真、試合記録ではない。