体育館の床に着き、毛布を受け取り、水を確保する。それで避難は完了したように見える。しかし、妊娠何週か、出産予定の医療機関は動いているか、産後の出血や痛みはないか、乳児は飲めているか、調乳に安全な水を使えるか――母子の安全は、避難所に入った時点では測れない。

川崎市は8月27日、一般社団法人川崎市助産師会と「災害時における妊産婦等支援活動に関する協定」を締結した。地震などの大規模災害で市が支援を必要と判断した場合、助産師会に協力を要請し、必要な調整を行う。助産師会は要請に基づいて助産師を派遣し、妊産婦と乳児への健康相談や心身のケアに当たる。

協定が明記する支援は三つある。災害時の電話相談窓口、助産師を派遣して行う健康相談、そして産婦への災害時宿泊ケアだ。締結式には、川崎市こども未来局長の井上純(いのうえ・じゅん)氏と、川崎市助産師会会長の岡本登美子(おかもと・とみこ)氏らが出席した。市発表によれば、同会の会員は55人である。

協定の境界: 55人は会員総数で、災害時に同時出動できる人数ではない。市の発表資料は、相談窓口の電話番号・開設時間、助産師の派遣規模、宿泊先・受入人数・利用条件、費用、発動・終了基準を示していない。本稿は、それらが決定済みであるとは扱わない。資料確認は2026年8月28日午前3時(日本時間)まで。
3本柱電話相談、助産師派遣による健康相談、産婦への災害時宿泊ケア。
55人川崎市助産師会の会員数。出動可能人数を意味しない。
156万7,324人2026年8月1日現在の川崎市推計人口。確報後に遡及修正予定。
1万395人2025年に市が集計した出生数。母子支援が日常的な行政課題である規模を示す。

三つの入口は、別々の失敗を防ぐ

電話相談は、避難所に来ない人を支援につなぐ入口になり得る。厚生労働省が掲載する避難所向けマニュアルは、妊産婦や母子が避難所を敬遠し、自宅や車内にとどまる場合があると注意を促す。建物が無事でも、停電、断水、交通遮断、診療中止によって普段の支援網は切れる。市内全域の被災状況が見えにくい初期に、相談内容を集めることは、個別対応だけでなくニーズの把握にもつながる。

助産師の派遣は、一般的な「体調は大丈夫ですか」を、妊娠週数や産後日数、母子健康手帳、症状、授乳・哺乳、利用できる産科医療機関まで含む評価に変える。国のマニュアルは、避難所名簿に妊産婦情報を含め、産科医や助産師の有無、食料、水、電気、トイレ、睡眠環境、家族同伴の可否を把握するよう求める。母子は声を上げづらいため、個別に状況を聞き、「我慢していないか」に注意するとも記す。

宿泊ケアは、さらに別の穴を塞ぐ。対象は協定上「産婦」であり、妊婦全般への宿泊提供とは書かれていない。出産後は、病院を退院できても、避難所の雑魚寝、断水した自宅、冷暖房のない部屋へ母子を戻すことが適切とは限らない。2024年の能登半島地震後、こども家庭庁は、被災した産婦に産後ケアを案内し、必要なら短期入所の利用期間を延長して、少なくとも産後1か月程度の安定した環境を確保するよう自治体に求めた。

命に直結する異常を医療へつなぐことと、医療が必要になる前に母子の生活を支えること。その間を埋めるのが、地域の助産師に期待される役割だ。
支援協定で確認できること実務上の意味公表されていないこと
電話相談窓口災害時に開設する避難所外を含む相談、振り分け、情報収集の入口になり得る番号、時間、対応言語、回線数、周知方法
助産師派遣市の要請に基づき、健康相談と心身のケアを行う母子の状態を専門職が評価し、必要な支援へつなぐ人数、派遣先、交代、移動、装備、安全管理
災害時宿泊ケア産婦を対象にする退院後に安定した生活場所を失った人への支援になり得る施設、定員、乳児同伴、期間、費用、医療機関との連携
発動市が必要と判断し、助産師会へ要請・調整する行政の災害対応に位置づけられた協力になる災害規模、判断者、開始時間の目標、終了条件

「特別扱い」ではなく、同じ安全へ近づける調整

妊産婦と乳児を一括して「弱者」と呼ぶだけでは、必要な支援を設計できない。全員が病気でも、全員が搬送対象でもない。一方、妊娠や産後の変化は外見だけでは分からず、乳児は自分で訴えられない。必要なのは、状態を確認し、避難所で過ごせる人、より適した場所へ移す人、医療機関へ急いでつなぐ人を見分けることだ。

避難所の環境も支援の一部になる。授乳のプライバシー、衛生的な水、調乳や離乳食に使える簡易調理環境、おむつ交換、手洗い、温度管理、休息、感染対策は、単なる「快適さ」ではない。厚生労働省は、粉ミルクには衛生的な水を使い、哺乳瓶を消毒できない場合の代替方法も示している。妊婦健診や乳幼児健診などの母子保健サービスが途切れた場合は、保健師らに相談するよう案内する。

内閣府男女共同参画局の防災・復興ガイドラインは、授乳室、プライバシー、調乳・離乳食のための設備、女性の相談窓口といった具体策を自治体に求めてきた。平等とは、全員に同じ毛布と同じ面積を配ることだけではない。異なる条件に応じて支援を調整し、同程度の安全に近づけることである。

震災のたびに、制度は「調整」を学んだ

今回の協定は突然生まれたものではない。日本の災害医療は、大災害で露呈した連携の失敗を、次の仕組みに変えてきた。

1995年 — 阪神・淡路大震災を契機に、災害拠点病院、DMAT、広域災害・救急医療情報システム(EMIS)などの整備が進む。

2006年 — 日本助産師会が「助産師が行う災害時支援マニュアル」を発行。

2011年 — 東日本大震災で日本助産師会が対策本部を置き、物資、ボランティア、助産所での妊産婦支援を実施。女川町の保健師は後の国マニュアルで、妊婦情報の把握に何度も訪問した経験を記した。

2014~16年 — 国が災害医療コーディネーターの養成を始め、小児・周産期と災害医療を結ぶ「災害時小児周産期リエゾン」も2016年度から養成。

2020~21年 — 神奈川県、昭和大学、神奈川県助産師会の協働事業を経て、災害時支援協力助産師の制度と県との災害派遣協定が整う。

2023~26年 — 逗子市、鎌倉市へ市町村単位の協定が広がり、2026年8月に川崎市が続く。

国のリエゾンは、都道府県の保健医療調整本部で小児・周産期医療の情報を集め、医療チームや搬送を調整する。一方、川崎の協定は、市民に近い場所で相談を受け、助産師を派遣し、生活を支える。両者は競合する制度ではない。市の協定が機能するには、避難所、保健所、産科・小児医療、消防、県の調整系統へ情報と人を確実につなぐ必要がある。

能登の教訓を、川崎は計画に書き込んだ

川崎市は2026年に修正した地域防災計画で、能登半島地震や過去の大規模災害を踏まえ、安全で衛生的なトイレ環境の確保を強化した。同時に、高齢者、障害者、外国人、乳幼児、妊産婦、性的マイノリティーなどへの配慮に課題が生じたとして、当事者の視点を防災体制へ取り入れる方針を総則に加えた。

この都市で母子支援は小さな周辺課題ではない。川崎市の2026年8月1日現在の推計人口は156万7,324人。2025年には1万395人の出生を集計した。出生数は2015年の1万5,015人から減少しているが、毎年1万人規模の新生児と産婦が地域で生活を始める。

平時には、市が委託する産後ケアを病院、助産所、訪問看護事業所などが担い、川崎市助産師会は協力助産所の予約を調整している。宿泊、日帰り、訪問という既存の連携は、災害時にも相互の顔と役割を知っているという意味で土台になり得る。ただし、通常事業の施設や空床が、そのまま災害時宿泊ケアに使われると市は発表していない。日常のネットワークと非常時の受入能力は分けて検証すべきだ。

協定を、使える仕組みに変える七つの問い

紙の協定は、責任の所在を明確にし、災害が起きてから連絡先を探す時間を減らす。だが、最初の72時間に使えるかは運用設計で決まる。

公表と訓練が必要な項目
  1. どの災害・被害状況で、誰が支援を発動するのか。
  2. 停電や通信障害時にも電話相談を維持できるか。
  3. 55人のうち、本人と家族の安全を確保した後に何人が、どこへ動けるか。
  4. 避難所外の自宅、車中、ホテル、親族宅にいる母子をどう見つけるか。
  5. 緊急性を判断した後、稼働する産科・小児医療と搬送手段へどうつなぐか。
  6. 宿泊ケアの場所、定員、物資、費用、乳児同伴、感染管理をどう定めるか。
  7. 相談・派遣・宿泊の記録を、個人情報を守りながら災害対策本部と共有できるか。

とりわけ人員数は慎重に読む必要がある。助産師自身も被災者になり、家族、勤務先、地域を優先せざるを得ない。神奈川県助産師会の災害時支援協力助産師制度も、活動は任意と明記している。会員数をそのまま戦力として数える計画は成立しない。安否確認、参集できる人の把握、移動手段、交代、休息、補償までを平時に詰める必要がある。

電話窓口も、番号を開けるだけでは足りない。相談員が使う聞き取り票、医療へ上げる基準、外国語・聴覚障害への対応、回線が落ちた場合の代替、得られた情報を避難所運営へ戻す仕組みがいる。派遣は、助産師を一人置くことではなく、判断を次の支援へつなぐ経路を作ることだ。

協定の価値は、発表日の署名では測れない。暗い避難所で「困っている」と言えない一人を見つけ、必要な場所まで切れ目なくつなげた時に初めて測れる。

家族が今できること、行政が今示すべきこと

川崎市は、妊産婦と乳幼児の家庭に、母子健康手帳に掲載された災害時の備えを確認し、神奈川県助産師会の「親子のための防災コンパス」を使うよう案内している。市の防災アプリでは、洪水、土砂災害、津波、内水のハザード情報と避難所の開設状況を確認できる。家族は、いつもの薬、母子健康手帳、連絡先、乳児の食事方法に合った物品、おむつや衛生用品、季節に応じた防寒・暑さ対策を持ち出せる形にしておきたい。

ただし、自助で協定の空白を埋めることはできない。市には、窓口と発動方法を平時から住民へ知らせ、避難所運営者、助産師、保健師、医師、消防を交えた訓練を行い、結果を検証する責任がある。妊産婦と乳児を訓練の「見学者」ではなく、計画を評価する当事者として迎えることも欠かせない。

8月27日に結ばれた協定は、一般避難所の標準対応だけでは拾い切れない母子のニーズを、市が公式に認めた点で重要である。次に必要なのは、三つの支援を、誰が、いつ、どこで、何人に届けるのかを見える形にすることだ。災害時、遠慮は症状を軽くしない。制度の側から、声を聞きに行かなければならない。