給与明細の金額が増えても、買えるものが減ることがある。近年の日本では、会社の賃金表と家計の食卓の距離をこの一文が言い表してきた。6月の統計は、もう少し明るい一文を許す。平均賃金の伸びが、労働者の購買力を測るための物価上昇を上回った。
毎月勤労統計の速報によると、現金給与総額は前年同月比3.4%増の53万1,677円だった。厚労省が主に用いる実質賃金指数は1.6%上昇した。プラスは1月から6カ月連続である。2022年から2025年まで年平均の実質賃金が4年続けて低下した後の、重要な転換だ。
ただし「勝利宣言」は早い。6月は夏季賞与が大きく支給される月で、特別に支払われた給与は23万2,445円、現金給与総額の約44%を占めた。賞与は支給日のずれ、企業収益、回答事業所の構成で大きく振れる。持続性を見るうえで重要なのは毎月の給与だ。きまって支給する給与は3.4%増の29万9,232円、残業代を除く所定内給与も3.4%増の27万9,189円だった。
6月の数字を分解する
見出しの金額には性格の異なる三つの収入が流れ込む。所定内給与は27万9,189円で3.4%増。主に残業代を示す所定外給与は2万43円で2.8%増。賞与などの特別に支払われた給与は23万2,445円で3.5%増。この合計が53万1,677円である。
各項目は経済に別の物語を語る。ベースアップは翌月以降も続き、家賃や食費、ローン返済の土台になりやすい。残業代は労働時間と景気に左右される。賞与は貯蓄や大型消費を支える一方、利益が悪化すれば減りうる。6月の強さは賞与だけではない。所定内給与が総額と同じ3.4%伸びたことが大切だ。
もちろん、すべての人が同じ額を受け取ったわけではない。一般労働者の現金給与総額は71万5,604円、所定内給与は35万5,475円で、ともに3.6%増。パートタイム労働者は総額12万9,042円で3.5%増、所定内給与は11万2,192円で3.0%増だった。パートの所定内時間当たり給与は1,444円で4.3%増。労働時間や職種、賞与の対象かどうかが異なるため月額の単純比較はできないが、伸びが双方に届いたことは確認できる。
| 2026年6月 | 一人平均 | 前年同月比 | 読み方 |
|---|---|---|---|
| 現金給与総額 | 53万1,677円 | +3.4% | 賞与の影響が大きい総額 |
| 所定内給与 | 27万9,189円 | +3.4% | 基本給と通常の手当 |
| 所定外給与 | 2万43円 | +2.8% | 主に残業代 |
| 特別に支払われた給与 | 23万2,445円 | +3.5% | 主に賞与など |
| 実質賃金 | 指数144.1 | +1.6% | 持家の帰属家賃を除く物価で実質化 |
実質賃金は二つの指数の競走
「実質賃金」は口座に振り込まれる金額ではない。名目賃金指数を消費者物価指数で割った指数である。厚労省は購買力を見る主系列に「持家の帰属家賃を除く総合」を使う。持ち家に住む人が自分に家賃を払ったと仮定する項目を除き、実際に金銭が取引される財・サービスに近づけるためだ。
この物価指数は6月に1.9%上昇した。現金給与総額の名目指数の伸びがこれを上回り、実質賃金は1.6%増となった。公表された二つの率を単純に引いた値と一致しないのは、指数計算と丸めのためである。国際比較用には総合CPIで実質化する系列もあり、総合物価が1.7%上昇したため、こちらの実質賃金は1.7%増だった。
どちらも個々の家計を再現しない。賃貸世帯と持ち家世帯では住居費が違う。米、電気、給食を多く買う子育て世帯と、家賃やサービスへの支出が多い単身者では「体感物価」が異なる。現金給与は所得税、住民税、社会保険料を引く前である。実質賃金は重要な全国指標だが、一人ひとりの給与明細や買い物かごそのものではない。
4年の後退、その後の6カ月
出発点が厳しかったからこそ、連続プラスには意味がある。持家の帰属家賃を除く物価でみた年平均の実質賃金は、2022年に1.0%、2023年に2.5%、2024年に0.3%、2025年に1.3%低下した。輸入エネルギーと食料、円安、その後の国内価格転嫁が名目賃金を追い越した。
2026年は前年同月比で、1月0.7%、2月2.0%、3月1.4%、4月2.0%、5月は改訂後1.6%、6月1.6%とプラスが続く。一度きりの賞与増より説得力がある。しかし前年同月比のプラスは、過去4年間に失った購買力をすべて取り戻したことを意味しない。
指数が100から95に下がった後に2%上昇しても96.9であり、102にはならない。回復にはプラス成長の継続と、失った水準を積み戻す時間の両方が必要だ。
春闘が給与明細へ届き始めた
2026年春闘も高い妥結となった。連合の最終集計では、平均賃金方式で回答を得た5,368組合の定期昇給を含む加重平均は1万6,400円、5.01%。5%台は3年連続だった。賃上げ分を明確に分けられる組合のベースアップ相当は1万1,510円、3.50%。組合員300人未満の中小組合は定昇込み4.69%だった。
この妥結率は、全国のすべての労働者の賃金が5.01%上がるという予測ではない。定期昇給には勤続や年齢に沿った増加が含まれ、賃金表そのものを動かすベースアップとは異なる。連合傘下の組合員は労働者全体でもない。未組織の中小企業、公務部門、転職者、新規採用、パートの賃金は別の経路で全国統計に現れる。
それでも6月は「伝達」を確認する重要な月だ。新しい賃金表を4月、5月、6月に実施する企業が多い。所定内給与の3.4%増は、春闘の数字が交渉机から給与台帳へ移っていることを示す。同じ事業所を前年と比較する共通事業所系列では、現金給与総額が4.4%、所定内給与が3.0%増えた。構成変化を抑えた別角度の確認材料である。
1955年に始まった春の仕組み
春闘は1955年、産業をまたいで賃上げ要求や交渉日程をそろえる運動として始まった。日本の労働組合は企業別が中心だったため、同時期に交渉することが個社ごとの弱さを補った。高度成長期には大企業の妥結が中小企業や公共部門へ波及し、生産性向上の果実を賃金へ広げる役割を果たした。
石油危機を経て、とりわけバブル崩壊後、仕組みは変質した。企業は雇用維持を優先し、組合は要求を抑え、物価が下がる時代には名目賃金の横ばいさえ受け入れやすかった。定期昇給は一部で残る一方、経済全体のベアは弱まり、企業は賞与、昇進、非正規雇用で人件費を調整した。
その影響は積み上がった。パート、有期、派遣などで働く人が増え、賃金カーブは平らになり、家計は「物価も賃金も動かない」ことに慣れた。2010年代に政府、経営、労働が賃上げを促す協議を重ねても、低インフレと弱い需要の循環は脆かった。2022年以降の物価ショックは、物価が先に動き、賃金が後から追う厳しい形でその規範を壊した。
1955年 統一的な春季賃金交渉が始まる。
1960~70年代 高度成長の生産性向上を賃金へ波及。
1990年代 バブル崩壊後、ベアの勢いが弱まる。
2013年以降 政労使が賃上げ圧力を再び強める。
2022~25年 年平均の実質賃金が物価に負ける。
2024~26年 連合の妥結率が3年連続で5%を超える。
2026年6月 所定内給与3.4%増、実質賃金は6カ月連続プラス。
「平均的な労働者」は実在しない
毎月勤労統計は、常用労働者5人以上の事業所で働く一人当たり平均を示す。統計上の「常用」には期間の定めなく雇われる人だけでなく、一定期間を超えて雇われる人なども含まれ、いわゆる正社員だけを意味しない。6月調査は3万3,059事業所を対象とし、2万1,749事業所が回答、回収率は65.8%だった。
平均は、同じ人が昇給しても、高賃金産業の雇用比率が高まっても、一般とパートの構成が変わっても動く。入職と離職も影響する。そのため通常の本系列と、両時点で共通して回答した事業所を比べる参考系列がある。どちらか一方だけが「本当の賃金」なのではなく、答える問いが違う。
産業別の差も大きい。現金給与総額は金融・保険業で11.6%、学術研究等で11.7%、医療・福祉で5.8%伸びた。一方、卸売・小売業は0.4%減、建設業は1.2%減、不動産・物品賃貸業は4.7%減だった。賞与の支給時期が差を増幅しうるが、生活者は全国平均の中ではなく、各産業の中で働いている。
- 所定内給与、残業代、賞与を分ける。
- 実質化に使う物価指数を正確に確認する。
- 一般、パート、時間当たり給与を見比べる。
- 構成変化の影響を見るため共通事業所系列も確認する。
- 速報を確定した歴史にせず、確報を待つ。
統計そのものにも歴史がある
毎月勤労統計への信頼は2019年に大きく傷ついた。厚労省は、全数調査とすべき東京都の大規模事業所を2004年から抽出で調べ、必要な復元処理もしなかったことを明らかにした。結果が雇用保険、労災保険などの給付計算に使われていたため、多数の人への追加給付が必要になった。
この問題は現在の統計を捨てる理由ではない。手法、改訂、限界を見えるようにする理由である。30人以上の事業所は2018年から、数年おきの総入れ替えではなく毎年1月の部分入れ替えに変わった。2026年1月の新旧標本を比べると、現金給与総額にマイナス1,582円、0.5%の断層が生じたと注記されている。
速報はすべての調査票の審査が終わる前に集計される。8月24日の6月確報では、後から審査を終えた回答が加わり、数字が変わる可能性がある。5月の現金給与総額の伸びも、6月資料では3.3%へ改訂されている。
なぜ日本銀行が注視するのか
日本銀行にとって賃金は家計の厚生指標だけではない。期待する「賃金と物価の好循環」の半分である。人件費が上がった企業が価格へ転嫁し、売上と生産性が次の賃上げを可能にし、家計所得が需要を支える。輸入エネルギーだけで物価が上がり賃金が遅れれば、好循環ではなく家計圧迫になる。
日銀は7月の展望リポートで、2026年春闘のベアが前年とほぼ同じ約3.5%となり、今年度の所定内給与も前年度並みの伸びになる可能性が高いとした。一方、中東情勢と交易条件悪化が企業利益と家計の実質所得を押し下げるリスクにも触れた。6月統計は賃金側を支えるが、外部発の物価リスクを消したわけではない。
金融政策が知りたいのは、賃金上昇が一部に偏らず、消費を壊さずに持続するかである。金融業の賞与だけでは答えにならない。中小企業、サービス業、地方の通常給与に広がるかが粘着性を決める。
家計に必要なのは一度の大幅増ではない
日本に必要なのは一カ月だけ最大の賃金数字をつくることではない。企業が賃金表を引き上げられる生産性と価格転嫁、労働力不足を反映する採用競争、取引先や中小企業にも届く交渉、弱い企業を置き去りにしない最低賃金政策、名目増を税・保険料だけで吸収しない制度が繰り返し動くことだ。
家計には予見可能性が重要である。月1万円の恒久的なベアは、家を借り、子どもを育てる判断を変えうる。年間12万円の賞与が同額でも、減額のリスクは違う。6月統計でもっとも力強いのは53万円という総額ではなく、所定内給与の3.4%増だ。
パートの時間当たり給与が4.3%伸びたことも明るいが、月間の所定内給与は3.0%増にとどまる。労働時間は変わり、税、社会保険、家族手当に関連する「年収の壁」を意識する人もいる。時給の上昇が同じ比率の可処分所得増になるとは限らない。
次の試験は賞与の後に来る
7月、8月は6月の賞与効果が薄れ、通常給与だけで物語を支えられるかが見える。8月24日の確報は速報値を検証する。秋の統計では新賃金表の浸透がさらに分かり、物価統計はエネルギー、食料、円相場が再び実質賃金の余白を狭めるかを示す。
見るべき問いは三つだ。所定内給与は3%前後を保てるか。大企業の妥結が未組織の中小企業へ届くか。実際の取引に近い物価の伸びを名目賃金が十分長く上回り、失った購買力を取り戻せるか。
6月は最初の問いに一カ月分の答えを与え、慎重な楽観を許す。賃金は物価より伸び、上昇は賞与だけでなく通常給与にも及び、一般とパートの双方で増えた。しかし日本の賃金史は、結論を急がないよう促す。夏の封筒は転換を告げられる。転換が続いたことを証明するのは、賞与のない月の給与明細である。
取材注記・主要資料
6月値はすべて速報で、確報で改訂される可能性がある。増減率は特記しない限り前年同月比。厚労省の主要な実質賃金は「持家の帰属家賃を除く総合」、国際比較用系列は総合CPIで実質化している。
