「感情は脳のどこにあるのか」という問いは、現代神経科学ではあまりにも単純すぎる。恐怖、喜び、気分、動機づけは一つの部位に宿るのではなく、複数の領域が情報をやり取りする回路の中で生まれる。なかでも前部帯状皮質(anterior cingulate cortex: ACC)と扁桃体の結び付きは、情動や気分調節に深く関与すると考えられてきた。
ところが、その「つながり方」を霊長類で細部まで見ると、従来の教科書的イメージより複雑だった。東北大学、京都大学などの研究者からなるチームは、マカクザルを用い、ACCの前膝部(pregenual ACC: pgACC)、膝下部(subgenual ACC: sgACC)、背側部(dorsal ACC: dACC)から、扁桃体の基底核(basal nucleus: BA)と副基底核(accessory basal nucleus: AcBA)へ向かう神経投射をウイルストレーシングで解析した。結果は、どのACC領域から、どの皮質層を起点に、扁桃体のどこへ投射するかが明確に分かれていることを示した。[1]
脳の「配線図」を見る研究
この研究は、被験者に感情課題を行わせ、脳活動の増減を見るタイプの研究ではない。目的はもっと基礎的だ。どの神経細胞が、どこへ軸索を伸ばしているのか。つまり脳の解剖学的な配線図を高い解像度で確かめることにある。
研究チームは、逆行性・順行性のウイルストレーサーを組み合わせた。逆行性トレーサーは標的領域に注入し、そこへ投射する神経細胞を起始側で標識する。順行性トレーサーは起始領域に入れ、軸索終末がどこへ広がるかを追う。両方向から確かめることで、「どこからどこへ」という結線をより確実に描ける。
対象がマカクザルである点も重要だ。げっ歯類の研究は神経回路の基本原理を調べるうえで不可欠だが、前頭前野や帯状皮質の構成は霊長類でより複雑で、人の情動・気分研究へ橋渡しするには霊長類の解剖情報が欠かせない。
最大の驚きは、前膝部から基底核への経路
今回もっとも注目されるのは、前膝部ACCから扁桃体基底核への明確な投射が確認され、その多くが皮質の表層II/III層から出ていたことだ。皮質から皮質下構造への投射は深層V/VI層の神経細胞が主役とされる場合が多く、前膝部から基底核へ向かう表層由来の経路は、既存モデルに対する重要な修正を迫る。[1]
論文の著者ら自身、この前膝部ACC—基底核経路の存在はこれまで議論があったと記している。今回の結果は、その経路を霊長類で明確に示しただけでなく、「どの層から出るか」まで具体化した。
同じACCでも、投射のしかたは同じではない
ACCを一つの部位として扱うと、この研究の意味は薄れる。研究では、基底核へ投射する神経細胞は、前膝部・膝下部・背側部のいずれでも主に表層II/III層に見られた一方、膝下部では深層V/VI層からの投射も確認された。
対照的に、副基底核へ投射する神経細胞は、主に膝下部と背側部の深層から出ていた。つまり、ACC—扁桃体結合は一本の「情動回路」ではなく、起始領域と皮質層によって異なるチャネルが重なった構造と見る方が適切だ。[1]
前部帯状皮質は何をしているのか
ACCは、痛み、葛藤、誤り検出、報酬評価、意思決定、社会的認知、情動調節など、多くの機能と関連づけられてきた。ただし「ACCは○○をする部位」と一つに固定するのは危険だ。領域ごとに結線と機能が異なり、同じACCという名称の中に複数の回路が含まれる。
とくに膝下部ACCは、気分障害研究で長く注目されてきた。ヒト画像研究ではうつ病などとの関連が繰り返し報告され、治療抵抗性うつ病に対する脳深部刺激の標的候補として研究されてきた。一方、前膝部ACCも情動価値や気分処理との関係が論じられている。
しかし、機能画像で「活動が上がる/下がる」ことと、解剖学的にどこへ信号を送るかは別の問題だ。今回の研究は、その後者を精密にした。
扁桃体も一枚岩ではない
「扁桃体」という言葉も、しばしば単一の恐怖センターのように使われる。実際には複数の核から成り、それぞれ入力・出力・機能が異なる。
今回注目された基底核と副基底核は、いずれも基底外側複合体の一部として扱われることが多く、前頭葉、側頭葉、海馬系など広範な領域から入力を受ける。そこへACCの異なるサブ領域と皮質層から別々の投射が入るという事実は、情動情報が一つの経路で一括処理されるわけではないことを示唆する。
なぜ「層」が重要なのか
大脳皮質は六層構造を持ち、各層には異なるタイプの神経細胞が多く存在し、投射先も異なる。一般に表層II/III層は皮質間結合に関わることが多く、深層V/VI層は皮質下構造や視床への出力に関与することが多い。
そのため、前膝部ACCから基底核へ向かう投射が主にII/III層由来だったことは、単に「新しい線が一本見つかった」という以上の意味を持つ。皮質—皮質下結合の典型像から外れる特徴であり、情報の統合様式や局所回路との関係を再検討する必要がある。
マウスの回路図を、そのまま人へ持ってこられない
神経科学では、マウスの遺伝学的ツールを使って特定回路の機能を操作する研究が急速に進んだ。しかし霊長類の前頭葉は構造も細胞構成も異なる。今回の研究は、そうした「種差」を埋めるための解剖学的土台でもある。
研究チームの意義説明でも、霊長類でACC—扁桃体結合を正確に把握することが、将来の因果的研究やトランスレーショナル研究の基盤になるとされている。[1]
うつ病治療に直結するのか
ここは慎重に読む必要がある。論文は、ACC—扁桃体回路の機能異常がうつ病などの気分障害と関連するとされてきた背景を述べ、将来的な標的介入の解剖学的基盤になりうると位置づけている。しかし、今回の研究は治療試験ではない。
どの回路が特定の症状を引き起こすか、刺激や抑制で症状が改善するか、人で同じ投射パターンがどこまで保存されているかは、今後の課題だ。
霊長類のACC—扁桃体回路の解剖構造を詳細化し、将来の機能研究や治療標的研究が参照できる地図を作った研究である。
「感情の場所」から「感情の経路」へ
神経科学の歴史は、ある機能を一つの部位に割り当てる発想から、ネットワークと回路を理解する方向へ進んできた。扁桃体は恐怖だけの場所ではなく、ACCも葛藤だけの場所ではない。重要なのは、どの細胞群がどこへ信号を送り、その回路が行動や気分をどう変えるかだ。
今回の研究は、その回路図の中でも、情動・気分研究の中心にあるACC—扁桃体結合を霊長類で細かく描き直した。とりわけ前膝部ACCの表層から基底核へ向かう経路は、従来の予想より複雑な情報伝達が存在することを示している。
脳研究の進歩は、派手な「感情中枢」の発見よりも、こうした一本一本の配線を正しく描く作業から生まれることが多い。感情を理解するということは、場所を指さすことではなく、回路の流れを理解することだからだ。

