花束は二つ、慰霊碑の前に置かれた。2026年8月22日、パラグアイ中部パラグアリ県のラ・コルメナを訪れた秋篠宮皇嗣同妃両殿下は、それぞれ供花し、先没者へ拝礼された。首都アスンシオンから南東へ約130キロ。ここは1936年に組織的な日本人農業移住が始まった、同国最初の日系移住地である。

宮内庁によると、今回の訪問は日本人のパラグアイ移住90周年にあたり、パラグアイ政府が招待した公式日程の一部だった。ご夫妻は19日にアスンシオンへ入り、22日にラ・コルメナ、23日にイグアスを訪問。秋篠宮さまにとってパラグアイは、70周年式典に出席した2006年以来20年ぶりだった。

この日の中心にいたのは、国家間の儀礼だけではない。FNNの映像では、ご夫妻が80年以上前に渡航した日系1世を含む住民と面会した。1941年に移住した金澤代津子さんは、船上で3歳を迎え、航海には70日かかったと答えた。幼児の時間として残る「70日」は、移住史の年表を人の生涯へ戻す数字である。

1936年大統領令第1026号に基づき、ラ・コルメナへの組織的な日本人農業移住が始まった。
90年パラグアイ政府、議会、日系団体が2026年を通じて記念事業を展開。
約130 kmアスンシオンからラ・コルメナまでのおおよその距離。
約1万人外務省が推計するパラグアイの日本人移住者・日系人の規模。

「最初」の意味を正確にする

ラ・コルメナを「日本人移住発祥の地」と呼ぶとき、二つの歴史を混同してはいけない。日本人個人のパラグアイ滞在は1936年より前に確認されている。日系社会の歴史調査は、1910年代にアスンシオンで柔道を教え、治療や花店を営んだ福岡庄太郎らを記録する。ラ・コルメナが最初なのは、政府の許可、土地取得、家族単位の入植計画を伴う組織的な日系農業移住地としてである。

公式の90周年は5月15日を節目とする。移住史研究「ディスカバー・ニッケイ」は、同日に11家族81人の最初の一団が入植地へ入ったと記す。一方、パラグアイ日系・日本人会連合会の地域史は、6月にブラジルから指導移民を迎え、8月に日本からの最初のパラグアイ移民が到着したと段階を分ける。5月15日は入植地の創設を記念する日であり、「日本から全員が同日に到着した日」と単純化しない方が史料に忠実である。

90周年は一日の到着記念ではない。 土地選定、先遣・指導要員、ブラジルからの移動、日本からの渡航が続く過程の起点を、ラ・コルメナは5月15日に記念している。

ブラジルの扉が狭まり、パラグアイへ

移住先の変更には、南米の移民政策があった。1934年、ブラジルで新規移民を国籍別に制限する、いわゆる「移民二分制限」が導入され、日本からの渡航枠は大幅に縮小した。ブラジル拓殖組合、通称「ブラ拓」の専務理事だった宮坂国人は新たな候補地を調査し、パラグアイ政府と交渉した。

チャコ戦争が1935年に終わった直後のパラグアイでは、政変により交渉が一時揺れた。それでも1936年4月30日、大統領令第1026号により、日本人100家族を試験的に受け入れる許可が出た。ブラ拓側は約1万1,000ヘクタールを取得した。移住は歓迎の物語だけで始まったのではない。当時の南米各国にあった排外的な制度、労働力と開発を求める国家の政策、民間移住会社の事業判断が交差した結果だった。

候補地の西南には、標高約300メートルのセロ・アプラグアが見えた。連合会の歴史解説によれば、移住者はその姿に富士山を重ね、「コルメナ富士」と呼んだという。景観が土地選定の一因になったとも伝えられる。これは測量図から導かれる事実ではなく、移住地が受け継いできた由来である。

故郷に似た山が見えても、森は畑ではなかった。移住者が最初に手にしたのは、完成した農地ではなく、家、井戸、道、作付け方法を一からつくる仕事だった。

「開拓成功」の陰にある離農

準備期間は短く、野菜さえ乏しかった。家を建て、森を焼き、井戸を掘る。輸出作物として期待された綿花は、ブラジルで想定した農法がそのまま通用しなかった。1936年の干ばつ、翌年の降雹、その後の洪水も重なった。連合会史によると、1938年から離農が始まり、1941年までに24家族と独身者3人が土地を離れた。

この数字は、記念史にしばしば現れる「勤勉による成功」を否定しない。しかし、成功だけを選び取る見方を修正する。残った人だけでなく、病気、負債、不作、適応できない農法のために去った人も、移住事業の結果に含まれる。入植地には同時期、周辺のパラグアイ人農家や町の住民も暮らした。森を切り開いた主体を日本人だけに限定する説明も、地域社会の実像を狭める。

作物は綿花だけではなかった。自家用米、トウモロコシ、マンディオカ、タバコから、タマネギ、ジャガイモ、豆、落花生、ブドウへと試行が続いた。後年の多角経営は、最初から完成していた「日本式農業」の移植ではなく、現地の土壌、気候、市場に合わせた失敗と修正の積み重ねだった。

戦時下、移住地は収容の場所になった

太平洋戦争は遠い日本の出来事にとどまらなかった。パラグアイが枢軸国との国交を断つと、新たな入植は途絶えた。1942年に日本語学校が閉鎖され、1945年には土地と建物が没収された。パラグアイが日本などへ宣戦すると、ラ・コルメナは国内の日本人を集める収容地となり、区域外への移動が制限されたと連合会史は記録する。

8月22日の式典を報じたパラグアイ紙ABC Colorによると、秋篠宮さまは、戦時中にも日本人移住者を支え、守った地元女性Agustina Miranda Gonzálezさんへの感謝に触れた。本稿は現地紙による内容紹介として扱い、氏名は同紙の綴りを用いた。戦時史を「両国の友情」だけで包まず、制限と保護の両方を記録する必要がある。

戦後も災害が続く。1946、47年には大規模なバッタの群れが作物だけでなく立ち木まで食い尽くしたと地域史は伝える。さらに離農者が増え、アルゼンチンやブラジルへ移った。日本の敗戦で苦難が終わったのではなく、土地に残る判断は何度も試された。

出来事歴史上の意味
1934年ブラジルが国籍別の移民制限を導入。日本側がパラグアイを新たな移住先として具体的に調査する背景となった。
1936年大統領令第1026号。ラ・コルメナで入植開始。パラグアイ最初の組織的な日系農業移住地が生まれた。
1942–45年日本語学校閉鎖・没収、戦時下の移動制限。移住地が国内の日本人を集める収容地となった。
1946–47年大規模な蝗害。作物と樹木に被害が出て、域外への転出が増えた。
1951年農協がワイン醸造を開始。綿花依存から果樹・園芸を組み合わせる営農へ向かう象徴となった。
1965年アカアイ方面の道路が開通。アスンシオン市場へ野菜と果物を運びやすくなった。
2026年入植90周年。史料館、切手、各地の式典、皇室訪問。移住史を外交儀礼だけでなく、次世代へ残す年となった。

綿花からワイン、そして「果物の都」へ

転機は作物と道路だった。綿花の連作で地力が落ちるなか、農家はタマネギ、ジャガイモ、ブドウ、豆類などを組み合わせた。1951年、ラ・コルメナ農協は「ラ・コルメニータ」「ラ・ハポネシータ」の銘柄でワインづくりを始めた。醸造は1995年に終わったが、単一作物から抜け出す象徴だった。

1965年、ラ・コルメナとアカアイを結ぶ道路が整うと、アスンシオンへトマト、ピーマン、キャベツ、スイカ、メロンなどを出荷しやすくなった。果樹と近郊野菜の産地として発展し、「Capital de las Frutas(果物の都)」と呼ばれるようになった。スペイン語の地名La Colmenaは「蜂の巣箱」を意味する。勤勉な日本人移住者にふさわしい名として付けられたという説明は、連合会が伝える地域の由来である。

日本の外務省は、日本人移住者がパラグアイの大豆やゴマの発展に大きく貢献したと説明する。ただし、ラ・コルメナの役割を、後年のイグアスやピラポなどを含む日系農業全体と同一視してはならない。ラ・コルメナで集団的な大豆栽培が試みられたという地域史はあるが、同地の最も明確な産業的軌跡は果樹、野菜、ブドウと市場アクセスにある。今日の大豆輸出国パラグアイを一つの移住地だけが作った、と結論づける根拠はない。

「戻った」のは、国家ではなく人である

英語版の見出しは「Japan Returns」とした。だが、8月22日にラ・コルメナへ戻ったのは抽象的な国家ではない。20年前にもこの場所を訪ねた秋篠宮さまと、初めてパラグアイを公式訪問した紀子さま、そして90年の記憶を受け渡す人々である。

現地報道によると、ご夫妻はラ・コルメナパラグアイ日本文化協会を訪ね、宮坂国人の名を冠した公園の慰霊碑で供花し、地域の女性による日本食関連の事業や田中写真博物館も見学した。秋篠宮さまは日本語であいさつされた。その内容について本稿は、移住者と子孫への敬意、パラグアイ社会への謝意、言語・文化・歴史を次世代へ伝える活動への期待だったとするABC ColorとEFEの要約に帰属させ、日本語の直接引用は用いない。

皇室訪問は強い象徴性を持つ一方、移住者自身の生活を国家の美談へ回収する危険もある。1936年の許可は外交関係樹立から17年後の出来事で、戦時中には関係が断絶した。日本とパラグアイの関係が「107年の友情」と表現されるとき、その間にあった排除、収容、離農を消さないことが、記念の信頼性を支える。

90周年は、記憶のインフラをつくる年

2026年の記念事業は一度の訪問で終わらない。3月27日、パラグアイ日系・日本人会連合会本部に「パラグアイ日本人移住史料館」が完成した。在パラグアイ日本大使館によると、写真、記録、農機具、工具、日用品など310点を展示する。移住の記憶を、式典の言葉から保存・閲覧できる物へ移す試みだ。

6月にはパラグアイ議会が90周年を「国民的関心事」とする決議を伝達し、記念切手が発行された。ユキ・ハヤシが手がけた図案は、折り鶴をパラグアイの伝統レース「ニャンドゥティ」で包む。作者は「鶴の恩返し」になぞらえ、日系社会からパラグアイ社会への感謝を表したと説明している。これは図案作者の意図であり、90年すべてを一つの物語へ決めるものではない。

パラグアイ外務省が公表した年間予定には、各移住地の記念行事、日系人シンポジウム、いけばな、書道、音楽、スポーツ、食、出版が並ぶ。政府は日系社会による経済・農業・文化への貢献を強調する。それは政府の公式評価である。史料が示す日常はより複雑で、移住者と地元住民の協力、国家政策、自然災害、離脱、世代交代が重なっている。

開拓の物語から、農村の将来へ

90周年が過去だけを向くなら、地域の持続可能性には届かない。JICAと横浜国立大学などが2016年から約9年かけて進めた農村女性の生活改善・複合的農村開発事業は、ラ・コルメナを含む地域で加工食品、販売、アグリツーリズム、地域資源の可視化を支援した。事業側の評価では、二つのフェーズを通じて延べ1万人を超える受益女性が知識や技術を得たとされる。この人数と成果はJICAの事業報告に基づく自己評価であり、自治体全体の所得効果を測った統計ではない。

それでも、開拓史と現在の課題をつなぐ視点は重要だ。かつて道路の開通が農産物を首都市場へつないだように、いまは観光情報、加工、ブランド、販売拠点が収入への回路になる。日本文化は保存の対象であるだけでなく、現地の女性が運営する食や観光の事業資源にもなっている。

90周年を読むための四つの区別
  • 最初の日本人と最初の日系移住地:日本人の個人滞在は先行し、ラ・コルメナは最初の組織的農業移住地。
  • 公式記念日と到着過程:5月15日が節目だが、ブラジルからの指導移民と日本からの到着は段階的だった。
  • ラ・コルメナと日系農業全体:同地の果樹・野菜史と、後の移住地を含む大豆発展を分ける。
  • 歴史的事実と記念の語り:政府の「貢献」評価、地名や山の由来、切手作者の意図は、それぞれ発表者を明示して読む。

70日を、次の90年へ渡す

パラグアイと日本は1919年11月17日に外交関係を樹立した。外務省は現在、日本人移住者と日系人を約1万人と推計する。人数の大きさだけでは、二国間関係の厚みは測れない。日本語を話す世代が減り、家族の写真に写る人の名が分からなくなれば、制度上は同じ「日系社会」でも記憶の密度は変わる。

だから史料館の310点と、金澤さんの70日は同じ仕事をしている。農具は何を植えたかを残し、船旅の記憶は誰がどれほどの時間をかけて来たかを残す。片方だけでは、農業政策の成功譚か、家族の懐旧談のどちらかへ歴史が傾く。

ラ・コルメナの90年は、一直線の発展ではなかった。許可を得て始まり、土地に苦しみ、去る人が出て、戦争で閉じ込められ、蝗害で再び試され、作物と道を変えて果物の町になった。そこへ20年ぶりに一人の皇族が戻り、初めて訪れた妃とともに花を置いた。

慰霊碑の役割は、成功者だけを称えることではない。志半ばで亡くなった人、去った人、隣で支えたパラグアイ人、物語を保存する子孫を、同じ時間の中へ置くことにある。90周年の重みは、過去を美しく整えることではなく、その複雑さを失わず次の世代へ渡せるかで決まる。

主な一次資料・参考資料

帰属に関する注記: 皇室の正式名称と日程は宮内庁、5月の式典、史料館、切手と外交関係は日本大使館・外務省、移住地の農業・戦時史は連合会資料を中心に確認した。秋篠宮さまの8月22日のあいさつ内容は現地報道による要約であり、日本語の発言として引用していない。JICA事業の受益者数と効果は事業側の報告、切手の意味は作者の説明である。