午前10時、東京・霞が関の厚生労働省9階で、一つの「75円」が日本の暮らしと商いの間に置かれる。中央最低賃金審議会の目安に関する小委員会は7月27日、2026年度で5回目の会合を開く。労働者側は、現在の全国加重平均1121円を75円、率にして約6.7%引き上げるよう求めた。実現すれば平均は1196円になる。使用者側も引き上げの必要そのものは認めるが、輸入・エネルギー・原材料費が再び重くなり、労務費を販売価格へ十分移せない小規模事業者の支払い能力を慎重に見るよう迫る。

これは単純な賃上げ交渉ではない。審議会が示すのは47都道府県の最終額ではなく、A・B・Cの三つのランクごとの「目安」である。地方最低賃金審議会が地域の物価、賃金、企業経営を改めて審議し、都道府県労働局長が決める。2025年度は中央の目安が全国平均で1118円相当だったのに、39道府県が上乗せし、最終平均は1121円になった。中央の数字は強い基準だが、終着点ではない。

本稿の公開時点で2026年度の目安は決まっていない。7月27日の会合は予定された審議であり、結論を先取りすることはできない。だからこそ問うべきは「いくらになるか」だけではなく、その数字が誰の収入を増やし、どの企業の費用を増やし、価格、雇用、労働時間、地域移動をどう変えるかである。

1121円現在の地域別最低賃金の全国加重平均。2025年度に66円、6.3%上昇
+75円労働者側の2026年度要求。実現時の平均は1196円、上昇率は約6.7%
1226円 / 1023円最高の東京と、最低の高知・宮崎・沖縄。差は203円
54.2%2026年3月調査の中小企業の価格転嫁率。労務費だけでは50.0%
5.01%連合の2026年春闘最終集計。組合のある企業の結果で、全雇用者の平均ではない
1959年最低賃金法の制定年。1978年度から現在につながる目安制度

75円は、働く人に何をもたらすか

75円は小さく見える。だが8時間働けば1日600円、週40時間を年間52週働けば税・社会保険料控除前で15万6000円になる。現行1121円を同じ2080時間で換算すると年233万1680円。1196円なら248万7680円だ。月160時間なら増加は1万2000円。家賃を一変させる額ではないが、食料、光熱、交通の値上がりが重なる家計には無視できない。

仮定現行1121円75円増の1196円
8時間の勤務日8968円9568円+600円
月160時間17万9360円19万1360円+1万2000円
年2080時間233万1680円248万7680円+15万6000円

ただし全国加重平均は「誰かが実際に受け取る全国共通時給」ではない。東京の労働者には1226円、高知・宮崎・沖縄では1023円という地域別の法定額が適用される。勤務時間も週40時間とは限らず、通勤手当、賞与、時間外割増など最低賃金との比較から除かれる賃金がある。表は75円の大きさを示す機械的な試算で、手取りや実収入の予測ではない。

最低賃金は、働いた1時間の値段を守る制度である。家計の貧困を一つの時給だけで解決する制度ではなく、企業の生産性を一夜で高める制度でもない。

インフレ率が下がっても、値札は元に戻らない

6月の生鮮食品を除く全国消費者物価指数は前年同月比1.6%上昇し、5か月連続で日本銀行の2%目標を下回った。数字だけを見れば、最低賃金を急いで上げる圧力は弱まったように映る。しかしインフレ率は「値段が上がる速さ」であって、値段そのものではない。5月の総合指数は2020年を100として113.5。家計は過去の上昇を毎日の値札として払い続ける。

しかも低賃金世帯の買い物かごは平均世帯と同じではない。可処分所得のうち、食料、光熱、家賃、交通など削りにくい支出の比率が高い。エネルギー補助や米価の反落で総合指数が落ち着いても、生活の余白が直ちに戻るわけではない。2026年5月の毎月勤労統計では現金給与総額が3.3%増え、実質賃金も1.6%増えた。これは重要な改善だが、一般労働者とパート、企業規模、地域で伸び方は異なる。5月のパートの所定内給与は1.6%増に対し、時間当たり給与は5.0%増だった。時給が上がっても、働く時間が同じだけ増えるとは限らない現実が見える。

春闘5%と、最低賃金の距離

2026年春闘は連合の最終集計で5.01%と、3年連続の5%台になった。6月時点の集計では従業員300人未満の中小組合も4.70%、有期・短時間・契約労働者は時給ベースで6%台の伸びを示した。政府と労働側は、この波を地方、中小、非正規へ広げる装置として最低賃金を位置づける。

だが春闘集計と法定最低賃金をそのまま並べてはいけない。春闘は労働組合のある企業を中心に、定期昇給を含む月例賃金の改定を集計する。最低賃金の近くに多い飲食、小売、宿泊、清掃、介護、小規模サービスでは組合組織率が低く、春闘の数字が届きにくい。大企業の賃金が5%上がった事実は底上げの追い風だが、すべての小店が同じ支払い能力を持つ証明ではない。

法律が命じる「三つの皿」

最低賃金法9条2項は、地域別最低賃金を決める際に、①労働者の生計費、②地域の労働者の賃金、③通常の事業の賃金支払能力を考慮するよう定める。生計費では、健康で文化的な最低限度の生活ができるよう、生活保護施策との整合性にも配慮する。労働者の暮らしだけでも、企業の損益だけでも決められないよう、法律そのものが天秤を三つに分けている。

「通常の事業の支払い能力」は、赤字の一企業が払えないから上げないという意味ではない。同時に、好調な輸出大企業が払えるから全企業が払えるという意味でもない。賃金改定状況、企業収益、労働生産性、倒産、景況、価格転嫁などから、地域に普通に存在する事業の耐久力を判断する。審議会は公益、労働者、使用者の同数委員で構成される。7月27日は全体会議を公開する一方、率直な協議と中立性を守るため、一部の公労・公使協議は非公開になる。

中小企業の訴え――コストの半分が社内に残る

中小企業庁が受注側30万社へ行い、6万9625社が答えた2026年3月の調査は、問題を数値にする。コスト上昇分の価格転嫁率は54.2%まで改善したが、原材料費55.7%、労務費50.0%、エネルギー48.9%だった。労務費が100円増えても、販売価格へ移せたのは平均50円相当。残りは利益、設備投資、経営者報酬、別の経費から出すことになる。

官公需の転嫁率は48.4%で、前回より約4ポイント悪化した。自治体の予算制約を理由に交渉を断られたという声もある。ここに最低賃金論の矛盾が凝縮される。政府が賃上げを求めながら、清掃、警備、給食、介護周辺、印刷、地域交通などを古い予定価格で発注すれば、事業者へ負担を押し戻す。最低賃金の引き上げを持続させる最初の仕事は、国と自治体自身が最新の労務費を契約単価へ入れることだ。

2026年の成長戦略は、中小企業が雇用の7割、付加価値の5割を担うとし、2026年1月施行の取引適正化法、取引Gメン、官公需の単価見直し、省力化投資、業務改善助成金、税制を束ねる。方向は正しい。ただし補助金は一度の機械購入を助けても、毎月の賃金を永久に払う収益にはならない。長期の解決は、適正価格、反復する生産性向上、顧客に選ばれる価値、そして必要な事業再編である。

1959年から――最低賃金はどう育ったか

最低賃金法は1959年、労働基準法から独立して生まれた。当初は、同業の事業者が協定した最低額に法的拘束力を与える「業者間協定方式」を中心に、地域、労働協約、審議会を含む四つの決定方式を置いた。高度成長の入り口で産業・規模・地域の格差が大きく、全国一律の額を直ちに設けるより、実態に応じて適用を広げる選択だった。

1968年改正で業者間協定方式は廃止され、公労使が参加する審議会方式へ軸足を移した。1976年には全都道府県で地域別最低賃金が設定され、1978年度に中央審議会が都道府県をランク分けして引き上げ目安を示す現在の骨格が始まる。1986年には新しい産業別最低賃金制度が発足した。

2007年改正、2008年施行は安全網としての性格を強めた。地域別最低賃金を全国で必ず設け、生活保護との整合性を法律へ書き込み、最低賃金額の時間表示を基本とし、違反時の罰則も強化した。2023年度には、地域差を縮めるため1978年以来のABCD四ランクをABC三ランクへ変更した。制度の歴史は、低賃金労働者を広く覆いながら、地域経済の違いも残そうとする試行錯誤の歴史である。

制度・政策の転換意味
1959最低賃金法制定業者間協定など四方式で段階的に適用
1968法改正業者間協定方式を廃止し、審議会方式へ
1976全都道府県で地域別最賃すべての労働者を地域別の安全網で覆う
1978目安制度開始中央がランク別目安、地方が最終額を審議
2007–08安全網機能を強化生活保護との整合、時間額、罰則を整備
20234ランクから3ランクへ地域間格差の縮小を狙う

「毎年3%」から、5年連続の過去最大へ

2010年の政労使合意は「できる限り早期に全国最低800円、全国平均1000円」を掲げ、2016年の一億総活躍プランは年率3%程度の引き上げと平均1000円を目標にした。全国加重平均は2015年度798円、2019年度901円へ上昇したが、コロナ禍の2020年度はわずか1円増の902円にとどまった。

その後は2021年度28円、2022年度31円、2023年度43円、2024年度51円、2025年度66円と、5年連続で過去最大額を更新した。2023年度に平均1004円と初めて1000円を超え、2025年度には全47都道府県が1000円を超えた。これはデフレの時代から、物価、人手不足、賃上げを同時に考える時代への転換である。

政府は2025年に「2020年代に平均1500円」という高い目標を掲げたが、2026年7月21日の成長戦略は、努力を続けつつ「遅くとも2030年代前半のできる限り早期」に達成するとした。現行1121円から1500円までは379円、約33.8%。期限の幅が広がれば毎年必要な上昇率は大きく変わる。目標年から逆算して機械的に決めれば法定三要素を空洞化させ、目標を忘れれば低賃金を固定する。審議会はその二つの間に立つ。

東京と地方、203円の距離

2025年度の最高は東京1226円、次いで神奈川1225円。最低は高知、宮崎、沖縄の1023円で、差は203円である。一方、最低額の最高額に対する比率は81.8%から83.4%へ改善した。労働者側は2026年度改定で最高・最低の差を200円未満にするよう求める。

地域差には二つの読み方がある。物価と賃金、生産性が異なる以上、同じ額にすれば低所得地域の企業へ急な負担が集中する。他方で、家賃以外の食料、燃料、通信、全国チェーンの商品価格は大きくは違わず、低い最低賃金は若者や外国人を都市へ押し出す。介護、物流、観光など地域を支える職場が人を確保できなければ、支払い能力そのものがさらに弱くなる。

2025年度は地方の追い上げが強かった。中央目安はA・Bが63円、Cが64円だったが、熊本は82円、大分81円、秋田80円など大幅に上積みした。反面、発効日は2025年10月から2026年3月31日までばらついた。高い額と引き換えに実施を遅らせれば、年間所得で得られる効果は小さくなる。額だけでなく発効日も分配政策である。

上げれば雇用は減るのか――研究が示す答え

最低賃金をめぐる経済研究に、どの国、どの時代にも通用する一つの結論はない。OECDは、妥当な水準での緩やかな引き上げは低所得を改善し、総雇用への悪影響は小さいか限定的であることが多い一方、若者や低技能者など弱い集団にはより大きな影響が出得ると整理する。日本の最低賃金は2024年時点でフルタイム賃金中央値の47%と、比較可能なOECD30か国で5番目に低く、OECD平均57%を下回った。相対水準だけなら、なお引き上げ余地を示す。

しかし過去の日本研究は警告も発する。2007年改正後の地域差を利用した分析では、低賃金層の賃金は上がった一方、10代や学歴の低い若年男性の雇用が減ったとの結果がある。近年のRIETI研究は、最低賃金上昇が女性の低賃金を圧縮しても、税・社会保険の年収閾値付近で労働時間を短くするため、年収格差を縮める効果が弱まると示した。

一方、JILPTが従業員299人以下の企業を調べた2021~23年度のパネル調査では、最低賃金対応を行った企業の49.2%が価格を上げ、42.8%が人件費以外を削減した。取り組み企業の41.0%は1時間当たりの生産・売上が伸びたと答え、低下は7.1%だった。因果関係を証明する数字ではないが、企業は雇用削減だけでなく、価格、生産性、賃金体系、業務の組み替えで適応することを示す。

「年収の壁」が時給の効果を削る

最低賃金が上がると、同じ時間を働けば年収は増える。しかし配偶者の扶養、税、社会保険、企業の配偶者手当の閾値を意識する人が時間を減らせば、時給上昇がそのまま収入増にならない。これは労働者の非合理ではなく、ある地点を超えた直後に手取りが下がる制度への合理的な反応である。

2025年の年金制度改正で、月額8万8000円、年収換算約106万円という社会保険の賃金要件は、最低賃金上昇を踏まえ2026年10月に撤廃予定となった。週20時間以上という要件は残り、企業規模要件は2035年まで段階的に撤廃される。106万円の数字が消えても130万円の扶養認定、税、企業手当など複数の境目は残る。最低賃金政策と社会保険改革を別々に動かせば、働く時間と手取りのねじれは続く。

最低賃金だけで貧困はなくならない

最低賃金は低賃金労働者へ直接届き、短期的に大きな財政支出を必要としない。だが働いていない人、働けない人、勤務時間が短い人には十分届かない。最低賃金労働者が必ず低所得世帯の世帯主とも限らない。古い日本研究では、最低賃金近傍の労働者の約半数が年収500万円超の世帯で世帯主ではなかった。家計構造は変化しているが、時給と世帯貧困が一致しないという原理は残る。

したがって、子どもの貧困や高い家賃を最低賃金だけで解決しようとすれば標的がずれる。給付付き税額控除、児童・住宅・食料支援、社会保険料の設計、保育と交通、職業訓練を組み合わせる必要がある。最低賃金は床であり、家全体ではない。

小さな店を守ることと、低賃金を守ることは違う

地域の食堂、旅館、商店、介護事業所を失いたくないという感情は正当である。しかし存続条件を「従業員へ低い賃金を払い続けられること」に置けば、人手不足の社会では結局、担い手が消える。反対に、急な引き上げで健全な事業まで閉じれば、地域の雇用とサービスは失われる。選ぶべきは店か賃金かではなく、良い仕事を生む店へどう移行するかだ。

持続する引き上げに必要な六つの条件
  • 価格転嫁:労務費の上昇を大企業、自治体、消費者との取引価格へ反映する。
  • 予見可能性:中期の上昇経路とデータを示し、採用、値付け、投資を準備できるようにする。
  • 省力化と経営改善:会計、予約、在庫、配膳、物流の改善を小規模事業者へ実装する。
  • 公共単価:介護報酬、委託、入札予定価格、補助事業単価を新しい賃金に連動させる。
  • 労働者の手取り:年収の壁、保険料、給付を同時に見直し、時給増を所得増へつなげる。
  • 移行支援:再編、承継、廃業、再就職まで支え、企業ではなく人と地域機能を守る。

7月27日に見るべきこと

見出しは結局、何円になったかを伝えるだろう。だが数字の背後に、より重要な問いがある。生計費では平均CPIだけでなく低賃金層の支出を見たか。賃金では春闘の大企業平均と、パート・小規模企業の実績を分けたか。支払い能力では利益だけでなく価格転嫁、官公需、人手不足、生産性を見たか。ランク間の目安は地域差を縮めるか。地方が上積みする場合、実施を遅らせすぎないか。

そして、答申文が政府へ何を求めるかにも注目したい。2025年の記録的な引き上げは、39道府県の上積みで平均1121円に達した一方、事業者支援、取引価格、発効日という課題を翌年へ持ち越した。2026年の審議が同じく大きな数字だけを残せば、天秤は不安定なままだ。

最低賃金は国が「この額より人の時間を安く買ってはならない」と線を引く制度である。その線が生活から遠すぎれば、働いても暮らせない。企業の収益力から突然離れすぎれば、時間削減、閉店、雇用の選別が起きる。成熟した政策とは、線を低く据えることでも、高く掲げて企業へ丸投げすることでもない。賃金を上げられる価格、投資、社会保障、公共調達を同時に作ることである。7月27日の75円をめぐる攻防は、単なる時給の会議ではない。日本が低価格と低賃金の均衡を、本当に終わらせられるかを試す会議なのだ。

主要資料と検証方法

本稿は、厚生労働省の2026年度中央最低賃金審議会の開催記録・資料・開催案内、2025年度の47都道府県の決定額、最低賃金法と制度説明を中心に、総務省、連合、中小企業庁、JILPT、RIETI、OECDの一次資料・研究で照合した。7月23日の労働者側75円要求は共同通信・朝日新聞等の会合後報道による。2026年度目安は本稿公開時点で未決定であり、7月27日の結果を推測していない。金額試算は控除前で、実際の手取りを示さない。