培養皿の中で、小さな大腸がんが育っている。平らに並んだ細胞ではない。患者の腫瘍から作られ、球状や腺管状の立体構造を持ち、元のがんの性質を部分的に残す「オルガノイド」である。そこへ、神戸大学の研究チームがiPS細胞から作ったγδ(ガンマ・デルタ)T細胞を加える。免疫細胞は組織へ接触し、がん細胞を傷つけていく。
次に研究者は、患者由来オルガノイドを免疫不全マウスへ移植した。腫瘍が生着してから細胞を局所投与し、さらに、転移がんへの将来の応用を想定して静脈からも投与した。細胞は離れた腫瘍へ到達し、増殖を抑えた。静脈内投与を試した3匹では、対照群と比べた腫瘍重量の減少幅が43%から92%に及んだ。
これは患者を治療した結果ではない。実験ごとのマウスは3~4匹、患者由来腫瘍は2人分に限られ、マウスには正常な人間の免疫系がない。それでも研究の意味は大きい。長く理論上の魅力を持ちながら、量産と標準化に阻まれてきたγδT細胞を、iPS細胞を中継点として繰り返し作り、古典的ながん細胞株より現実に近い患者由来組織へぶつけたからである。
二種類の文字で書かれたT細胞受容体
T細胞の多くは、表面にα鎖とβ鎖からなる受容体を持つαβT細胞である。通常、αβT細胞は、細胞が主要組織適合遺伝子複合体(MHC。ヒトではHLA)という「提示台」に載せた抗原断片を読み取る。感染細胞やがん細胞を精密に見分ける一方、他人のHLAを強く異物と認識すれば、移植片対宿主病(GVHD)の原因にもなり得る。
γδT細胞は、受容体がγ鎖とδ鎖で構成される少数派だ。ヒトの末梢血リンパ球では数%程度だが、腸、皮膚、肺など外界と接する組織に多く、感染、傷害、代謝異常などの「細胞のストレス」を素早く察知する。すべての働きが単純にMHC非依存というわけではないが、古典的なHLAによる抗原提示に縛られずに多様ながん細胞を認識できる点が、他人由来の細胞を複数の患者へ使う構想を支えている。
免疫学者がγδT細胞を独立した系統として認識したのは1980年代半ばだった。それ以来、この細胞は自然免疫の速さと獲得免疫の受容体を併せ持つ「第三の道」として研究されてきた。腫瘍細胞へパーフォリンで穴を開け、グランザイムを送り込んで細胞死を誘導するほか、サイトカインを放出し、別の免疫細胞を動かすこともできる。だが、患者の血液から得られる数は少なく、体外で増やし続けると機能が衰える。優秀な兵士がいても、部隊を十分な規模にできなかった。
CAR-Tが変えた血液がん、残された固形がん
現在の細胞免疫療法を語る時、CAR-T細胞療法を避けて通ることはできない。患者自身のT細胞を採取し、がんの目印を認識するキメラ抗原受容体(CAR)を導入し、増やして戻す。2017年に米国で最初のCAR-T製品が承認されて以降、白血病、リンパ腫、多発性骨髄腫の一部で、従来治療が効かなかった患者にも長期寛解をもたらした。
一方、患者ごとの採血、遺伝子改変、培養、品質検査には時間と費用がかかる。病状が急速に進む患者では製品完成を待てないことがあり、採取したT細胞の状態も患者ごとに違う。固形がんではさらに、免疫細胞が硬い組織へ入りにくい、腫瘍周辺が免疫を抑える、目印が細胞ごとに異なる、といった壁が重なる。大腸がんでは免疫チェックポイント阻害薬がよく効くのは主にミスマッチ修復欠損・高マイクロサテライト不安定性(dMMR/MSI-H)という一部の腫瘍で、多くの患者には新しい入口が必要だ。
γδT細胞には、単一のHLA・抗原の組み合わせだけに依存せず、異常細胞の複数のストレス信号を読める可能性がある。しかも他家細胞として使いやすいと期待される。しかし「使いやすい免疫学」と「大量に同じ品質で作れる製造法」は別問題だった。神戸大学の仕事は、その二つをiPS細胞で結ぼうとしている。
2006年の巻き戻し革命
iPS細胞の歴史は、日本の生物医学が世界へ与えた最も大きな転換の一つである。2006年、山中伸弥らは4つの転写因子を導入することで、成熟したマウス細胞を多能性状態へ戻せることを示した。2007年にはヒト細胞でも成功し、2012年、山中とジョン・ガードンは「成熟した細胞を多能性へ初期化できる」発見でノーベル生理学・医学賞を受けた。
当初、多くの人が思い浮かべたのは、神経、心筋、網膜など失われた組織を作り直す再生医療だった。2014年には神戸で、iPS細胞由来網膜色素上皮シートが加齢黄斑変性の患者へ移植された。だが、iPS細胞のもう一つの力は「細胞工場」になることだ。性質の分かった一つの細胞をiPS化し、保存し、増やし、必要な機能細胞へ繰り返し分化させる。2020年にはiPS-NKT細胞、2021年にはiPS由来CAR-NK細胞を用いる日本のがん治験が患者投与へ進んだ。
ここで重要なのは、今回の研究がiPS細胞そのものをがん患者へ投与する構想ではないことだ。出発点のγδT細胞をiPS細胞へ戻し、十分に増やした後、成熟したiγδT細胞へ再分化させる。最終製品から未分化細胞を排除し、均一性、染色体、遺伝子変異、殺傷力、無菌性などを確認する必要がある。iPS細胞は目的地ではなく、製造の中継基地である。
神戸で積み上げた三つの段階
青井貴之教授らの歩みは、今回突然始まったものではない。2017年にオンライン発表され、2018年に掲載された研究では、末梢血単核球の培養から細胞選別をせず、γδT細胞由来iPS細胞を樹立する方法を示した。成熟したγδT細胞が持つT細胞受容体遺伝子の再構成を、iPS細胞の段階へ持ち込む土台だった。
2023年、チームはそのiPS細胞から機能的なγδT細胞を再生できることを報告した。作られたiγδT細胞は、複数種類のがん細胞株をMHCに強く依存せず殺傷し、グランザイムBとパーフォリンを発現した。単一細胞RNA解析では、末梢血γδT細胞の多数派を単純にコピーしたのではなく、NK細胞に似た特徴を含む独特な集団であることも分かった。
そして2026年の論文では、二井諒子医員・大学院生を筆頭に、製造条件と試験対象を現実へ近づけた。動物由来の支持細胞を使わない「フィーダーフリー」、動物由来成分を排した「ゼノフリー」の条件で分化を再現し、全工程で約8万倍の増幅を得た。さらに、平面のがん細胞株だけでなく、患者由来大腸がんオルガノイドへ試験を進めた。
- 2017–2018年:ヒトγδT細胞からiPS細胞を効率よく樹立。
- 2023年:γδT由来iPS細胞から、がん細胞を殺傷するiγδT細胞を再生。
- 2026年:フィーダーフリー・ゼノフリー製造へ進み、患者由来大腸がん組織とマウス移植モデルで検証。
なぜオルガノイドが関門なのか
がん研究の標準的な細胞株は、扱いやすく、比較しやすく、同じ実験を繰り返せる。しかし、何十年も平らな培養皿で増やされた細胞は、患者体内の腫瘍が持つ三次元構造、細胞間の違い、薬剤抵抗性を十分には再現しない。
2009年、佐藤俊朗らは単一のLgr5陽性腸幹細胞から、陰窩と絨毛に似た構造を自己組織化させ、長期培養できることをNatureに報告した。2015年には20人の大腸がん患者から「生きたオルガノイド・バイオバンク」が作られ、主要な遺伝子変化と分子サブタイプを保ちながら薬剤試験に使えることが示された。患者由来オルガノイドは、細胞株と患者試験の間にある深い谷へ橋を架けた。
ただしオルガノイドも患者の完全な縮小模型ではない。血管、神経、線維芽細胞、腸内細菌、免疫細胞の全体は含まず、採取した一部分が腫瘍内部の多様性を代表し切れないこともある。今回の結果は、より厳しい標的で効いた証拠ではあるが、人体で効く保証ではない。
研究は何を、どの順番で示したのか
| 試験 | 分かったこと | まだ分からないこと |
|---|---|---|
| 製造 | フィーダーフリー・ゼノフリー条件でiγδT細胞を再現性よく誘導し、全体で約8万倍に増幅。 | 臨床規模のGMP製造で同じ品質・収量を維持できるか。 |
| 培養皿 | 白血病・大腸がん細胞株と患者由来大腸がんオルガノイドへ細胞傷害活性。 | 多数の患者、遺伝子型、治療歴、転移部位にまたがって効くか。 |
| 局所投与 | 免疫不全マウスの患者由来腫瘍で増殖を抑制。一部実験では腫瘍重量が最大88%減少。 | ヒトの免疫系と腫瘍微小環境の中で、効果が持続するか。 |
| 静脈内投与 | 生着1週間後の投与でも腫瘍へ作用し、3匹で重量が43~92%減少。 | 体内分布、必要投与量、反復投与、臓器毒性、長期残存。 |
| 正常細胞 | 健常人由来PBMCに明確な細胞傷害性を示さなかった。 | 正常な腸・肝臓・肺などへの標的外作用と臨床上の安全性。 |
静脈内投与で効果が出た点は重要だ。局所注射は、細胞を腫瘍のすぐ近くへ置けるため、治療能力と「腫瘍へたどり着く能力」を分けて評価しにくい。血流へ入れた細胞が腫瘍を見つけられれば、転移や再発がんを全身から狙う構想に一歩近づく。ただし3匹という数字は、統計的な確証ではなく、次の実験を正当化する信号として読むべきである。
「安全そう」と「安全である」の距離
健常人由来PBMCを攻撃しなかったことは、同種細胞製剤として望ましい。γδT細胞はαβT細胞よりGVHDを起こしにくいと期待され、移植医療の観察研究にもそれを支持する結果がある。しかし、PBMCは人体の全組織を代表しない。サイトカイン放出、正常組織への交差反応、血管や肺への細胞滞留、免疫拒絶、長期残存、反復投与時の反応は別々に調べなければならない。
iPS細胞を使う製品には、さらに固有の品質問題がある。未分化細胞が残れば腫瘍形成の懸念があり、長期培養で遺伝子・染色体異常が選択される可能性もある。治療細胞が強すぎても弱すぎても困る。製造ロットごとに細胞の同一性、純度、殺傷力、受容体構成、増殖能、無菌性を測り、「同じ名前の製品が本当に同じ働きをする」ことを保証する必要がある。
大腸がんという大きく、多様な標的
国立がん研究センターの最新集計では、日本で2023年に大腸がんと診断された人は15万4,039人、2024年の死亡は5万4,416人に上る。5年相対生存率は全体で71.4%だが、この平均値は早期に切除できる病気と、肝臓や肺へ転移した病気の厳しさを一つにまとめた数字である。
大腸がんは一つの敵ではない。APC、KRAS、BRAF、TP53、ミスマッチ修復などの状態が異なり、同じ患者の一つの腫瘍内にも複数の細胞集団がある。二人分のオルガノイドに効いたことは励みになるが、二人分で大腸がん全体を代表することはできない。特に、標準治療を受けた後の腫瘍、肝転移、低酸素で免疫抑制的な腫瘍、免疫チェックポイント阻害薬に反応しない多数派でどう働くかが問われる。
逆に、標準化されたiγδT細胞は、この多様性を研究する道具にもなる。同じ細胞製剤を多数の患者由来オルガノイドへ当てれば、治療が効く腫瘍と効かない腫瘍の差を、製品側のばらつきに邪魔されず比較できる。効き方を予測するバイオマーカーや、抵抗性を崩す併用薬を探す基盤になり得る。
神戸という場所が持つ意味
今回の研究が神戸から出たことには歴史的な連続性がある。山中伸弥は神戸大学医学部で学び、その後のiPS細胞革命へ進んだ。世界初のiPS細胞を用いた臨床研究の移植は2014年、神戸の医療機関で行われた。神戸大学の青井教授自身も、山中研究室でiPS細胞の応用範囲を広げた研究者の一人である。
兵庫・神戸には、大学、病院、理化学研究所、細胞製造施設、規制科学、バイオ企業が近接する。研究成果を論文で終わらせず、臨床用製造、品質保証、非臨床試験、治験へ運ぶには、このような集積が重要になる。今回の論文もJ-PEAKSや、広島・神戸・熊本の医療革新連携などの支援を受けた。大学研究の価値は、一つの発見だけでなく、次の検証を続けられる生態系にある。
オフ・ザ・シェルフは「安い棚の商品」ではない
既製品型という言葉は、薬局の棚からすぐ取り出せる簡単な製品を連想させる。実際の細胞医薬は、はるかに複雑だ。それでも、一つの十分に評価されたiPS細胞株から多数の投与分を作れれば、患者ごとの製造より原材料と工程を統一しやすい。製造を先に済ませて凍結保存できれば、病状が進む間の待ち時間も短くできる。
経済性は単なる価格の話ではない。失敗ロット、輸送、解凍後の生存率、施設での投与準備、追跡検査まで含めて初めて治療コストになる。大量生産ができても、複雑な検査や投与管理が必要なら安価にはならない。反対に、品質のそろった一つのロットを多施設で使えれば、臨床試験の比較可能性と患者アクセスは改善する。
次の一歩は、人ではなくデータで決まる
研究チームが次に目指すのは、臨床用iγδT細胞の製造と、治験開始に必要な非臨床データパッケージである。より多くの患者由来大腸がん、正常組織、複数の投与量、反復投与、長期観察を使い、効力と毒性の境界を定める必要がある。肺がんや膀胱がんなど別の固形がんへ広げる計画も示されている。
もう一つの道は、γδT細胞の自然な腫瘍認識へCARなどの人工受容体を加えることだ。自然な複数標的認識と、特定抗原へ向かう高い精度を組み合わせられる可能性がある。一方、機能を足すほど製造、遺伝子安全性、過剰反応の管理は難しくなる。強さだけでなく、止められること、予測できることも治療設計の一部になる。
2026年の成果が患者へ届く時期を、今のデータから約束することはできない。臨床試験へ進んでも、最初の目的は通常、安全な投与量と副作用を見極めることであり、マウスでの大きな腫瘍減少率がそのまま人の奏効率になることはない。
培養皿と病室の間に架けた橋
この研究の価値は、派手な「がん消滅」の言葉ではなく、実験の階段を一段上がったことにある。γδT細胞をiPS細胞へ戻せる。そこから殺傷能力を持つ細胞を作れる。動物成分に頼らない条件で増やせる。患者由来の立体がん組織を攻撃できる。マウスの血流から離れた腫瘍へ作用できる。一つずつは限定された答えだが、つなげると臨床開発の道筋になる。
1980年代に見つかった少数派のT細胞、2006年に京都から始まった細胞の巻き戻し、2009年に腸幹細胞から育った小さな臓器。その三つの研究史が、2026年の神戸で一つの実験へ合流した。患者のがんを模した小さな組織と、同じ設計から大量に作られた免疫細胞が培養皿で向き合う。病室までの距離はまだ長い。だが、その距離を測れる場所まで、研究は進んだ。
Sources and references
本稿は神戸大学と原著論文の発表内容を中心に、iPS細胞、γδT細胞、CAR-T、患者由来オルガノイドの一次資料と公的資料を参照した。動物実験の結果は前臨床データであり、患者への有効性・安全性を示すものではない。
- 神戸大学:iPS細胞由来γδT細胞が患者由来大腸がん組織に抗腫瘍効果(2026)
- Futai et al., Allogeneic iPSC-derived γδT cells demonstrate antitumor efficacy against patient-derived tissues, Stem Cell Reports (2026)
- 神戸大学:ヒトiPS細胞から様々ながんを攻撃するγδT細胞を作製(2023)
- Murai et al., Re-generation of cytotoxic γδT cells from human γδT-derived iPSCs (2023)
- Watanabe et al., Generation of human γδT cell-derived iPSCs (2018)
- ノーベル財団:成熟細胞を多能性へ初期化する発見
- Ribot, Lopes & Silva-Santos, γδ T cells in tissue physiology and surveillance
- Sato et al., Single Lgr5 stem cells build crypt-villus organoids (2009)
- van de Wetering et al., Living organoid biobank of colorectal cancer patients (2015)
- 米国国立がん研究所:CAR-T細胞療法と固形がんの課題
- 国立がん研究センター:大腸がん統計
- AMED:iPS-NKT細胞による頭頸部がん治験(2020)
- AMED:iPS細胞由来CAR-NK細胞による卵巣がん治験(2021)
- 理化学研究所:世界初のiPS細胞由来RPEシート移植(2014)
