東京で9月4日、元防衛相の中谷元(なかたに・げん)氏が口にしたのは、対米関係をめぐる通常の慎重論とは異なる言葉だった。米国が国際刑事裁判所(ICC)の赤根智子(あかね・ともこ)所長を制裁対象に指定したことについて、日本は抗議し、撤回を求めるべきだと訴えたのである。中谷氏が共同代表を務める超党派の議員組織は、9月15日に木原稔官房長官へ要請書を提出する方針だ。
問われているのは一人の日本人裁判官の処遇だけではない。米国の金融制裁に日本の企業や銀行がどう対応するのか。米国の主権を重視するワシントンの立場と、条約に基づく裁判所の独立を掲げるハーグの立場を、東京はどう扱うのか。そして日本政府が繰り返してきた「法の支配」重視の外交を、同盟国との対立が生じた場面でも貫けるのか。三つの問題が重なっている。
この問題の要点
- 米国の措置
- 8月18日、赤根所長とICCのアブドゥライ・セイエ上級法務官を制裁対象者リスト(SDNリスト)に追加。
- 法的な効果
- 米国の管轄下にある資産・資産権益を凍結し、米国人との取引を原則禁止。入国制限の枠組みも伴う。
- 猶予措置
- 米財務省の一般許可第12号は、指定対象者に関する通常の取引終了を米東部夏時間9月17日午前0時1分まで限定的に認める。
- 日本の立場
- ICC締約国。2007年に加盟し、外務省によれば分担金の最大拠出国。
- ICCの規模
- 2026年9月時点で125カ国がローマ規程の締約国。米国とイスラエルは締約国ではない。
「同盟か法の支配か」ではないという主張
中谷氏は日本記者クラブで、日米同盟の維持とICCの擁護は両立し得ると論じた。日刊スポーツなどの報道によると、「日米同盟の堅持と法の支配の擁護は、二者択一ではない」と述べ、首相に対し、制裁への抗議、撤回要求、ICCへの継続支援を明確にするよう求めた。議員側は、日本の企業や金融機関がICCとの通常業務を続けられるよう、政府が実務上の支援を示すことも要望している。
「外交は言うべきことを言ってこそ信頼される」中谷元・元防衛相の9月4日の発言。日本記者クラブでの記者会見を報じた国内報道による。
中谷氏は自由民主党のベテラン議員であり、同盟の安全保障上の重みを熟知する元防衛相でもある。その人物が「沈黙すれば同盟の価値基盤が損なわれる」と主張したことには意味がある。一方で、政府には、通商、安全保障、首脳外交を含む対米関係全体を管理する責任がある。強い抗議が直ちに制裁解除へ結びつく保証はなく、静かな働きかけの方が実務的だという判断もあり得る。争点は、抗議するか沈黙するかという単純な二択ではなく、どの手段で、どの程度まで立場を可視化するかにある。
制裁は何を変えるのか
米国務長官マルコ・ルビオ氏は8月18日、大統領令14203号に基づき、赤根所長とセイエ氏を指定したと発表した。米財務省外国資産管理室(OFAC)は同日、両氏をSDNリストに掲載した。指定された人物のうち、米国内または米国人が保有・管理する財産と権益は凍結され、OFACへの報告対象となる。米国人は、許可がない限り、指定対象者との取引やサービス提供を原則として行えない。
一般許可第12号は、取引終了に必要な一部行為を米東部夏時間9月17日午前0時1分、日本時間では同日午後1時1分まで認めている。これは指定の発効日を先送りするものではない。8月18日の指定はすでに有効であり、認められたのは限定的な「巻き取り」の窓である。対象者への支払いが必要な場合、米国の金融機関に置かれた利息付きの凍結口座へ入金することなど、条件も細かい。
日本法が米国の大統領令に自動的に従うわけではない。しかし、ドル決済、米国拠点、米国人従業員、米系決済網のいずれかが取引に関われば、企業は米国法上のリスクを精査する必要がある。さらに、直接の法的義務がなくても、金融機関が違反リスクを避けるため取引を広く断る「過剰順守」が起きれば、ICCの日常業務に影響が及び得る。どの日本企業に、どの取引で具体的な支障が出ているかは公表されておらず、影響の範囲はまだ確定できない。
制度上の注意
制裁対象者との関係だけで取引が一律に違法になるわけではない。所有比率、取引主体、通貨、決済経路、一般許可や個別許可の有無によって結論は異なる。本稿は制度の概要を報じるもので、個別の法務・制裁対応に関する助言ではない。
衝突する二つの法的説明
米国政府の説明は明確だ。米国もイスラエルもICCの設立条約であるローマ規程の締約国ではなく、両国はICCの管轄権に同意していない。ルビオ国務長官は、ICCが同意のない国の当局者を捜査、逮捕、拘禁または訴追しようとする取り組みに両氏が直接関与したと主張した。ただし、8月18日の国務省発表は、赤根所長によるどの事件のどの司法行為を指定理由としたのかを具体的には示していない。
ICC側の説明は異なる。ローマ規程は、締約国の領域で行われた犯罪について、被疑者の国籍国が非締約国であっても一定の条件下で裁判所が管轄権を行使できると定める。国連安全保障理事会の付託や、非締約国による個別の管轄権受諾という経路もある。またICCは国内裁判所を置き換える機関ではなく、関係国が真正に捜査・訴追する意思または能力を欠く場合に補完的に介入する仕組みだ。
したがって対立は、単に「加盟していない国に裁判権があるか」という一文では解けない。領域管轄、補完性、国家主権、国際裁判所の独立が交差する。米国は自国民や同盟国当局者への権限行使を主権侵害と捉え、ICCは締約国が合意した規程を適用していると主張する。制裁指定はこの法的争いの本案を司法的に決着させる手続きではなく、米政府が経済・入国措置を通じて圧力を加える政策手段である。
ICCは今回の措置を「公平な司法機関の独立に対する露骨な攻撃」として退けた。米国務省は反対に、ICCを政治化した組織だと批判し、各国に資金拠出や協力の停止まで求めている。双方の表現は鋭い。だからこそ、日本政府がどちらの主張を支持するかだけでなく、司法官個人に対する金融制裁を正当な政策手段とみなすのかが独立した論点となる。
「力強く支援」から「大変残念」へ
日本政府の公式な言葉を時系列で並べると、温度差が見える。高市首相は1月7日に赤根所長と面会し、法の支配に基づく国際秩序の維持・強化を重視する日本として、ICCと赤根氏を「力強く支援していく」と伝えた。赤根氏への指定翌日の8月19日、外務省は「今回の措置は大変残念です」とする外務大臣談話を発表し、関係国と意思疎通を続けるとした。
8月28日には茂木敏充外相が赤根所長と約20分間、電話で意見交換した。外務省が公表した概要は「ICCを取り巻く状況」について意見を交わしたと記すにとどまり、米国への抗議や制裁撤回要求を表明したとは記載していない。この抑制された公表文が、水面下の外交が弱いことを意味するとは限らない。しかし、議員側が求めているのは非公開の働きかけだけではなく、日本の公式な立場を公に示すことだ。
赤根所長自身も8月26日、ロイター通信のインタビューで、日本が米国との近い関係を生かし、ICCへの圧力に対抗するよう求めた。制裁は自身の執務をこれまで妨げていないとする一方、裁判所の存続には日本の強い支援が重要だと述べた。個人の不便より制度への波及を前面に出した発言だった。
日本とICC、19年の積み重ね
ICCは、集団殺害犯罪、人道に対する犯罪、戦争犯罪、侵略犯罪について個人の刑事責任を追及する常設裁判所として、ローマ規程が発効した2002年に設立された。日本は2007年7月17日に加入書を国連事務総長へ寄託し、同年10月1日に正式な締約国となった。2026年9月時点の締約国は125カ国である。
加盟後の日本は分担金の最大拠出国となり、裁判官や検察官を送り、被害者信託基金などにも貢献してきた。赤根氏は2017年12月に裁判官へ選出され、2018年3月に就任。2024年3月11日、日本人として初めてICC所長に選ばれた。任期は2027年3月10日までである。
愛知県出身の赤根氏は、検察官、法務省法務総合研究所長、最高検察庁検事、国際司法協力担当大使などを歴任した。日本の刑事司法実務と国際協力の双方を経験する人物が裁判所の代表を務めることは、日本にとって象徴的な意味を持つ。ただし、ICC所長は日本政府の代表ではなく、裁判所の独立した司法官である。日本人であることだけを支援理由にすれば、司法の独立を守るという本来の論拠を狭めることにもなる。
米国とICCの対立はいつ始まったか
制裁をめぐる主な経緯
- 2002年 ローマ規程が発効し、ICCが設立。米国では同年、米軍人保護法が成立した。
- 2020年6月 第1次トランプ政権が大統領令13928号でICC関係者への資産凍結・入国制限の枠組みを設けた。
- 2021年4月 バイデン政権が大統領令14022号で同枠組みを終了した。
- 2025年2月 第2次トランプ政権が大統領令14203号を発令し、ICC制裁を再導入した。
- 2026年8月18日 米国が赤根所長とセイエ上級法務官をSDNリストへ追加した。
2020年の制裁枠組みは、アフガニスタン情勢に関するICCの捜査を背景に導入された。2021年、バイデン政権は、ICCの行動に異議はあるものの、制裁は不適切で効果的でないとして解除した。ところが第2次トランプ政権は2025年1月にその解除命令を撤回し、翌2月、大統領令14203号で新たな枠組みを発動した。今回はイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相とヨアヴ・ガラント前国防相に対する逮捕状を米政府が強く批判したことが直接の政治的背景にある。
この歴史は、米国のICC政策が一枚岩ではないことを示す。非締約国としての管轄権への懸念は政権をまたいで存在してきたが、司法関係者への経済制裁を採用するかどうかは政権により大きく異なる。したがって、日本の対応も「米国かICCか」という恒久的な陣営選択ではなく、現政権の特定の政策手段にどう向き合うかという性格を持つ。
9月半ばまでに見るべき四つの点
- 政府の表現:「大変残念」から一歩進み、抗議または撤回要求を公表するか。
- 実務支援:日本企業や金融機関に対し、許容される取引や相談窓口を政府が示すか。
- 多国間外交:日本がICC締約国会議や価値を共有する国々と共同歩調を取るか。
- 制裁の実害:一般許可第12号の期限後、ICCの給与、調達、出張、法務サービスなどに具体的な障害が現れるか。
赤根氏への指定は、日本外交の抽象語を具体的な選択に変えた。「法の支配」を掲げるだけなら費用は小さい。だが、同盟国が日本人の国際裁判官を金融制裁の対象とし、その裁判所への各国の参加停止を求めたとき、同じ言葉には外交的、経済的な費用が伴う。
日本が米国との同盟を重視することと、ICCの独立を支持することは、理念上は両立する。実務では、抗議の強さ、企業への指針、多国間連携という細部に両立の成否が現れる。9月15日の要請と9月17日の取引終了期限は、政府が「残念」という評価を、どのような政策へつなげるのかを見る最初の節目になる。