日本一になった瞬間、自転車は1センチも前へ進まなかった。本田純盛(ほんだ・じゅんせい)は最後の300メートルでペダルに力を集中させ、画面のアバターを集団から引き離した。山本侑果(やまもと・ゆか)は最後の登りで仕掛け、10秒余りの差をつくって単独でフィニッシュした。汗、呼吸、脚の痛みは現実にあり、速度とコースはソフトウェアの中にあった。

8月16日、東京都板橋区高島平のeスポフィールドで「第1回全日本自転車競技選手権大会 サイクリング Eスポーツ」決勝が行われた。主催・主管は公益財団法人日本自転車競技連盟(JCF)。男子オープンは本田、女子オープンは山本が制し、初代のナショナルチャンピオンジャージを得た。

これは、日本で最初のオンライン自転車レースではない。民間大会、リーグ、日々のZwiftレースはすでにあった。「初」は、国内自転車競技を統轄し、UCIとJOCに加盟するJCFが、サイクリングEスポーツ種目で初めて全日本選手権を主催したという範囲である。

確認できた範囲:JCFは公式大会ページに要項、予選・決勝テクニカルガイド、スタートリスト、男女の決勝結果を掲載した。決勝は男子10人、女子は4人がエントリーし3人が出走。一般の現地観戦は認められず、JCF公式YouTubeで配信された。戦術の描写と選手発言は、現地取材した『Bicycle Club』の記事に帰属させ、公式リザルトと混同しない。
54分39秒男子36.8キロを制した本田純盛の記録。
41分42秒女子26.4キロを制した山本侑果の記録。
10人/3人決勝を実際に走った男子/女子の人数。
2020年UCIが第1回サイクリングEスポーツ世界選手権を開いた年。

本田は「踏まない時間」で勝った

男子はZwiftのリッチモンド「Cobbled Climbs」。1周9.2キロを4周し、計36.8キロ。短い登りが1周に3回あり、平坦の集団走と瞬発的な上りを12回繰り返す。屋外なら路面、風向、コーナー、位置取りが速度を変える。仮想空間では、送られたパワー、登録された体格、勾配、機材設定、ドラフティングなどをソフトウェアが速度へ変換する。

現地取材した『Bicycle Club』によると、10人の集団では永山貴浩が何度も動き、2025年UCI世界選手権の日本代表経験を持つ高杉知彰も逃げを試みた。本田も同じ世界選手権の代表経験者で、相手から監視される立場だった。そこで自らレースを壊しに行かず、集団内で脚を残した。

最後の登りを越え、残り300メートル。本田は長いスプリントを始め、伊藤大地に3.65秒、下川達也に5.49秒の差をつけた。短距離走の差としては大きい。公式結果の秒表示では、本田54分39秒、伊藤54分43秒、下川54分45秒となる。

画面上のレースで「踏まない時間」は消極性ではない。集団の空気抵抗軽減を模したドラフティング、アバターの位置、前方へ出るコストを読み、最後に出せる実パワーを保存する。屋外のロードレースと同じ語彙がありながら、位置の判定と速度変換はプラットフォーム固有である。本田は脚力だけでなく、Zwiftの集団を走る知識で勝った。

山本は予選の敗因を、決勝の武器に変えた

女子はインスブルックリンクを3周、26.4キロ。エントリー4人のうち1人が不出走となり、佐藤恵美、山本、中島深希の3人で争った。小集団では一人の脱落が戦術を大きく変える。後ろに隠れる人数が少なく、攻撃を誰が追うかも明瞭になる。

『Bicycle Club』の現地報告によると、オンライン予選の同じコースでは佐藤が登り手前でペースを上げ、山本を引き離した。決勝の1周目、山本はその攻撃を自分から行った。登り区間「レッグスナッパー」の前で加速し、予選首位の佐藤を切り離した。

山本と中島の二人になった後は交代で先頭を担い、最終周回の最後の登りで山本が再び攻撃。中島に10.68秒、佐藤に59.23秒の差をつけた。男子の一発のスプリントとは違い、女子は予選の記憶を使った早い選別と、最後の登りの独走で決まった。

山本は東京都立大学時代にトライアスロンへ取り組み、ロード競技にも出場してきた。JICFの公式結果は氏名を山本侑果、ローマ字をYAMAMOTO, Yukaと記録する。2026年はHigh Ambitionに所属する。仮想競技だけの専門家と決めつける根拠はない。屋外で培った持久力、集団感覚、攻撃の時機を、画面内のコースへ移した選手である。

Eスポーツは脚力を消した自転車競技ではない。現実の脚力を、センサー、体格データ、通信、ソフトウェアの規則を通して順位へ変える競技である。

同じ部屋に集める理由

オンライン競技の最大の利点は、場所を問わず参加できることだ。同時に、公平性の弱点もそこにある。機材の個体差、校正、通信、体重入力、別のパワーメーター、室温、扇風機の強さまで結果へ影響し得る。だからJCFは7月25日の予選をオンラインで行い、8月16日の決勝は選手を一会場へ集めた。

大会報告によると、決勝では主催者が用意したWahoo KICKR v6を使用し、どの機材と位置を使うかを抽選した。選手は自分の自転車を取り付け、身体計測を受けた。レース後には、別系統で記録したセカンダリーデータの提出も求められた。KICKR v6についてメーカーは測定精度±1%、最大出力2,200ワット、勾配20%の再現を公称する。

統一しても差はゼロにならない。個体の測定誤差、チェーンやタイヤではなくドライブトレインの状態、冷却位置、無線干渉、選手が室内で力を出す技術が残る。イベント報告は、同じ会場内で多数のセンサー電波が飛び、ペアリングに苦労する場面もあったと記す。

それでも、同じ会場、同じ型のトレーナー、実測体重、二重データは、家庭から各自の環境で競うより比較可能性を高める。公平性とは、完全に同じ条件をつくることではない。差を減らし、残る差を記録し、異議が起きたときに検証できることだ。

項目男子オープン女子オープン編集上の意味
出走10人3人(4人エントリー、1人DNS)初代王者は正当だが、特に女子の競技人口の厚みはまだ示せない。
コースRichmond Cobbled Climbs 36.8kmInnsbruckring 26.4km距離も地形も異なり、男女タイムの単純比較は無意味。
決着本田54:39、終盤スプリント山本41:42、最終周回で独走同じ機材でも必要な戦術は集団人数とコースで変わる。
機材オンサイト、同型スマートトレーナー、Zwiftハードの統一と体格確認で比較可能性を高める。

パンデミックが加速した世界選手権

サイクリングEスポーツが突然2026年に生まれたわけではない。UCIは2020年12月、Zwiftの仮想世界ワトピアで第1回世界選手権を開いた。新型コロナウイルスによる移動制限の中、18か国以上から男女132人が各地で接続した。優勝者には他種目と同じ虹色のアルカンシエルが与えられた。

日本自転車競技連盟はその第1回へ、男子の別府史之、増田成幸、女子の與那嶺恵理、樫木祥子を派遣した。JCF自身が、開催場所を「Zwift Watopia」、選手は各自の滞在先から参加すると発表している。日本は世界の出発点から競技に加わっていたが、国内の公式全日本選手権を設けるまでには約6年を要した。

プラットフォームも固定されていない。UCI世界選手権は2020、2022、2023年の3大会をZwiftで行い、2024年からMyWhooshと3年契約を結んだ。2025年の決勝は選手をアブダビに集め、UCIが検証したトレーナーで競った。日本の2026年大会はZwiftを採用したが、世界タイトルのソフトウェアはすでに別である。

この変化は競技の弱さだけではない。ロードなら道路、トラックなら走路規格が舞台を決める。サイクリングEスポーツでは、民間ソフトウェアの物理演算、コース、ドラフト、アイテム、更新が競技規則の一部になる。連盟はプラットフォームを借りるだけでなく、どの機能を採用し、変更をどう告知し、データをどう監査するかを統治しなければならない。

2020年12月 Zwiftで第1回UCIサイクリングEスポーツ世界選手権。日本から4人。

2021年 IOCのオリンピック・バーチャル・シリーズでUCIとZwiftが自転車企画を実施。

2022・2023年 UCI世界選手権を引き続きZwiftで開催。

2024年 UCI世界選手権のプラットフォームがMyWhooshへ移行。

2025年 本田と高杉が日本代表としてUCI世界選手権に出場したと大会主催側が発表。

2026年7月25日 JCF初の全日本選手権オンライン予選。

2026年8月16日 東京でオンサイト決勝、本田と山本が初代王者。

13人の決勝が示す始まりと限界

男子10人、女子3人の決勝は、王者の資格を否定しない。大会が定めた予選、ワイルドカード、機材検証、コースを経て、同じ日に最も速くフィニッシュした選手が勝った。ただし、「全国で競技が成熟した」と結論づける規模でもない。

特に女子は、4人のエントリーから3人の出走だった。少人数だから容易という意味ではない。逃げを追わせる相手が少なく、失敗を隠す集団も小さい。だが、参加の入口、登録費、対象機材、Zwift利用料、通信環境、身体計測への不安、情報の届き方が出場者を絞っていないかは検証が要る。

予選には2026年度JCF競技者登録と、要項を満たすスマートトレーナーまたはスマートバイクが必要だった。公式性を担保する条件である一方、初めて競技へ入る人には費用と手続きの壁になる。競技人口を増やすなら、全日本の厳格さとは別に、貸出機材、地域予選、初心者カテゴリー、女性向け説明会、障害のある選手への適応などの導線が必要になる。

また、JCFの公式ページはスタートリストとリザルトを公開したが、本稿確認時点で大会全体の参加者属性、予選エントリー数、失格・データ検証の件数をまとめた事後報告は見当たらない。信頼をつくるのは優勝者名だけではなく、監査の透明性である。

「ゲーム」と「実走」を分けない選手たち

本田は国際的なZwiftチームRestart p/b Alex Cohに所属し、Zwift Gamesの公式結果にもJunsei Hondaとして残る。同時に屋外ロードの競技者登録を持ち、自転車店TRYCLEで働く。山本はHigh Ambitionの女子エリート選手で、学生ロード、トライアスロン、グランフォンドを経験してきた。

二人の経歴は、Eスポーツと実走の境界が選手の中では薄いことを示す。屋外のフォーム、持久力、乳酸への耐性は室内でも要る。室内で磨く一定出力、間隔トレーニング、データ読解は屋外へ戻る。違うのは、転倒、横風、路面、下りの危険が減る一方、冷却、校正、通信、プラットフォーム理解が競技力になる点だ。

だから「本物の自転車か」という問いは狭い。競技は常に器具と規則を通して身体を比較する。サイクリングEスポーツでは、その器具に計測器とコードが加わる。問うべきは、コードが見えないことを理由に退けるかではなく、見えない規則を誰が検証し、変更履歴を誰が説明するかである。

次回大会で公開したい五つの情報
  1. 参加の全体像:予選申込、実出走、完走、DNS、失格を男女別に示す。
  2. 計測手順:体重・身長、校正、機材割当、セカンダリーデータの照合方法。
  3. 技術事故:通信切断、ペアリング、機材交換と救済判断。
  4. プラットフォーム設定:ドラフト、機材、パワーアップ、アップデート版を固定して記録。
  5. 普及経路:貸出、地域大会、初心者と女性の参加支援、次年度への継続率。

ジャージが始める制度

初代王者の名は残る。本田純盛、山本侑果。漢字も読みも、公式記録に正確に置くことから競技史は始まる。だが、全日本選手権の価値は一度ジャージを渡すことでは完成しない。翌年も同じ精度で開催し、参加を広げ、記録を比較し、世界大会への選考につなげて初めて制度になる。

本田の勝利は、強い最後の300メートルだけでなく、そこまで脚を温存する仮想集団の読みだった。山本の勝利は、予選でされた攻撃を学び、決勝で自分から再現する修正力だった。両者は同じ「Eスポーツ王者」でも、勝ち方が違う。

会場の自転車は動かなかった。それでも選手は距離を走り、順位は変わり、疲労は残り、日本の競技制度に新しい二枚のジャージが加わった。サイクリングEスポーツ元年の本当の成果は、仮想を現実らしく見せたことではない。現実の身体をデジタルの規則で比べるなら、その規則にも全日本選手権の厳格さが必要だと示したことである。

主な一次・公式資料現地取材・補助資料

編集注:本田純盛(ほんだ・じゅんせい/Junsei Honda)、山本侑果(やまもと・ゆか/Yuka Yamamoto)の表記と読みは競技団体の公式資料で確認した。「初」はJCFが初めて主催・主管した同種目の全日本選手権を指し、日本国内すべての民間・オンライン大会の初開催を意味しない。「サイクリング Eスポーツ」はJCF表記に合わせた。提供された為替の更新時刻、8月26日午後7時24分UTCは、日本時間8月27日午前4時24分に換算した。