日本の再生医療は、手術室の風景を少しずつ変えようとしている。これまで心臓へiPS由来の心筋細胞を届ける治療は、胸を開き、心臓の表面に細胞シートを貼る、あるいは外側から注入するという発想が中心だった。だがHeartseedが発表したHS-005のEMERALD試験は、その流れを一歩先へ進める。カテーテルを心臓の内側から進め、iPS細胞から作った心筋スフェロイドを心筋内へ注入する。狙いは、重症心不全に対する再生医療を、より低侵襲で、より多くの施設が扱える形へ近づけることだ。
Heartseedは2026年6月12日、iPS細胞由来心筋スフェロイドをカテーテルで投与する世界初の臨床試験で、最初の患者への投与を成功させたと発表した。対象となったのは拡張型心筋症による心不全の70代患者で、2026年3月下旬に信州大学病院で実施され、術後経過はおおむね良好、退院済みと報じられている。試験は虚血性心疾患と拡張型心筋症を背景に持つ重症HFrEF患者を対象に、各7人、計14人を登録し、安全性と心機能への効果を評価する計画である。
iPS細胞が心臓に届くまで
iPS細胞は、2006年に山中伸弥教授らがマウスで作製を報告し、2007年にヒト細胞でも実現した。皮膚や血液などの成熟細胞に特定の遺伝子を導入し、さまざまな細胞へ分化できる状態へ巻き戻す技術である。日本では京都大学CiRAを中心に基礎研究と細胞ストック整備が進み、2012年のノーベル賞以後、眼、神経、心臓などの領域で実用化への道が開かれてきた。
心臓でiPSが注目される理由は明快だ。心筋細胞は一度大きく損傷すると、皮膚のようには再生しない。心筋梗塞や拡張型心筋症で収縮力が落ちた心臓は、薬、ペースメーカー、補助人工心臓、移植で支えることはできても、失われた心筋そのものを根本的に補う選択肢は限られている。iPS由来心筋細胞は、その空白を埋める可能性を持つ。
シートからスフェロイドへ
日本の心臓再生医療は、まず「心筋シート」で大きな一歩を踏み出した。大阪大学の澤芳樹教授らのグループは2008年から山中教授と連携してiPS心筋研究を進め、2012年にはブタの虚血性心筋症モデルでiPS由来心筋細胞シートを検証した。2020年には医師主導治験でヒトへの移植が始まり、重症心筋症患者に対して心臓表面にシートを貼る方法の安全性と有効性が調べられてきた。
2026年3月には、CuoripsのiPS由来心筋細胞シート「RiHEART」が日本で条件・期限付き承認を受けた。これは心不全治療におけるiPS由来心筋細胞製品として世界初の承認であり、日本の再生医療制度と産学連携の象徴的な成果となった。シートは心臓表面に貼り、分泌因子や新生血管形成などを通じて心機能を支える。
Heartseedのアプローチは少し異なる。HS-001では心筋スフェロイドを心外膜側から届けるが、HS-005では心臓の内側、すなわち心内膜側から専用カテーテルで心筋層に届ける。スフェロイドとは、心筋細胞を小さな塊、微小組織のように形成したもので、単一細胞よりも細胞の定着率や生存率が高まる可能性があるとされる。細胞を“貼る”から“打ち込む”へ、そして外科手術からカテーテル治療へ。そこに今回のニュース性がある。
なぜカテーテルなのか
カテーテル治療は循環器医療では日常的な技術になっている。狭心症や心筋梗塞では、脚や腕の血管から細い管を入れ、心臓の血管へ到達してステントを置く。心房細動では、カテーテルで心臓内の異常な電気信号を焼灼する。重症大動脈弁狭窄症では、TAVIのようにカテーテルで弁を置き換える。心臓を開けずに内部から治療するという発想は、心臓医療を大きく変えてきた。
もしiPS心筋細胞をカテーテルで安全に届けられるなら、再生医療は外科手術だけのものではなくなる。高齢者、体力の落ちた患者、複数の合併症を持つ患者にも選択肢が広がる可能性がある。もちろん、細胞治療は通常のカテーテル治療よりはるかに複雑だ。細胞の品質、投与部位、量、免疫反応、不整脈、腫瘍化リスク、長期の定着、安全な製造管理を検証しなければならない。


日本発の医療産業になるか
iPS医療の強みは、基礎技術、細胞ストック、製造、臨床研究、規制制度、大学発スタートアップが日本国内に集積していることだ。だが産業化は簡単ではない。細胞製品は薬のように大量生産して箱に詰めるだけではない。品質管理、輸送、保存、病院側の手技、医師の訓練、患者選択、保険収載、価格設定まで、医療システム全体を設計する必要がある。
HS-005が成功すれば、日本のiPS心臓治療は“できる病院が限られる高度外科手術”から、“循環器センターで検討できる低侵襲治療”へ一歩近づくかもしれない。だがそれは、数年単位のデータと慎重な規制判断を経て初めて言えることだ。今回のニュースは、心不全が治ると宣言するものではない。むしろ、日本の再生医療が、夢から手技へ、手技から制度へ進む長い道の、次の分岐点に立ったことを示している。
出典・参考
このJapan.co.jpレポートは、企業発表、臨床試験情報、大学発表、公開報道をもとに構成した。
- Heartseed: First patient dosed in catheter administration of iPSC-derived cardiomyocyte spheroids
- Nippon.com / Jiji: Japan startup tests catheter injection of iPS heart muscle cells
- WIRED: Japan approves iPS-derived regenerative medical products
- Osaka University: iPS cardiomyocyte sheets clinical trial background
- Cuorips: Conditional approval of iPS-derived cardiomyocyte sheet therapy
- ClinicalTrials.gov: HS-001 cardiomyocyte spheroids study
