古い織機を残すことと、古い生地をつくり続けることは違う。愛知県一宮市の葛利毛織工業株式会社(くずりけおりこうぎょう)は、低速のションヘル織機を使いながら、服地の表情を探り続けてきた。のこぎり屋根の工場を産業遺産として見るだけでは、その仕事の半分しか見えない。

一宮市観光協会の紹介によると、同社は1912年に創業し、当初は絹と綿を組み合わせた絣を生産していた。1932年、ションヘル織機の導入を機に毛織物へ進んだ。いま歴史を感じさせる機械も、導入された時には新しい事業へ踏み出す設備だった。[1]

2026年秋の尾州も、過去だけを見ているわけではない。9月17、18日には、産地のメーカーが2027/28年秋冬向け素材を東京で紹介する展示会を控える。古い機械を使う仕事と、先のシーズンへ提案する仕事。その二つが同じ産地にあることが、尾州を理解する入口になる。[10]

尾州は、一つの工場の名前ではない

尾州は一宮市を中心に、津島市、稲沢市、江南市、さらに岐阜県羽島市などへ広がる繊維産地を指す。尾州ファッションデザインセンターの情報サイト「BISHU JAPAN」は、愛知県尾張西部から岐阜県西濃にまたがる地域として説明している。愛知の特集として一宮に焦点を当てても、産地全体を県境の内側に収めることはできない。[4]

その特徴は、織機の台数だけではない。同サイトは、紡績、撚糸、染色、製織、編立、整理加工といった工程を、地域内の分業と協業で担えることを強みに挙げる。糸をつくる会社、織る会社、仕上げる会社が、それぞれの技術で一枚の生地に関わる。[5]

この構造で考えると、葛利毛織の織機は単独の名品ではなく、産地の工程をつなぐ一つの拠点として見えてくる。織る側が素材の持ち味を引き出しても、その先の仕上げが合わなければ、求める服地にはならない。生地の価値は、機械の中だけで完結しない。

毛織物の歴史は、繊維の歴史より新しい

尾州の長い織物史を、そのまま同じ長さのウール産業史として語ることはできない。尾州ファッションデザインセンターの産地史は、綿や絹の織物から毛織物へ移る過程をたどる。1891年の濃尾地震による被害や、大規模な綿布生産との競争が、産地に新しい道を探らせた背景として記されている。[3]

初期の難題は、織れるかどうかだけではなかった。同センターの記録によれば、毛織物の染色や整理・仕上げを地域で行う体制が不足し、京都へ仕上げを依頼する例もあった。1908年には専業の毛織物整理工場が開業する。織機とともに、織り上がった布を商品へ仕上げる設備と知識が必要だったのである。[3]

第一次世界大戦期には輸入の途絶や国産需要を背景に毛織物生産が伸び、やがて洋服地へと展開した。今日の産地は、変わらない伝統を保存して成立したのではない。外部の技術を取り入れ、素材を変え、市場に合わせて生産の仕組みを組み直してきた。[3]

シャトルが往復する。その前にも仕事がある

ションヘルは、緯糸を左右に運ぶシャトル、すなわち杼を使う織機の一種だ。手織りに近い風合いという説明はあっても、手だけで織る機械という意味ではない。動力で動く旧式のシャトル織機である。ウール産業団体のザ・ウールマーク・カンパニーは、葛利毛織の製造方法をこの仕組みから紹介している。[2]

織り始める前には、経糸を設計に沿ってそろえる整経がある。続いて糸を綜絖や筬に通し、糸を上下に分ける動きや、布の幅、織り込みの条件を整える。一宮市観光協会の工場取材でも、これらの準備と、製織中に糸が切れた時の対応が紹介されている。動いている織機を見る時間の外側にも、多くの作業がある。[7]

同協会とウールマークの紹介には、50メートルを織るのに3〜4日かかるという例が載る。ただし、これは掲載された取材での説明であり、2026年の全製品に共通する生産能力や納期を示すものではない。織物の設計や素材、準備の内容を考えず、単純な速度比だけで生産性を測ることはできない。[2][7]

遅さを、どんな価値へ変えるのか

ウールマークに掲載された同社への取材では、糸へ必要以上の張力をかけずにゆっくり織ることが、素材の風合いを生かすという考え方が語られる。複雑な織組織に対応する設備の使い方も紹介されている。これは同社のものづくりの説明であり、旧式の織機なら必ず現代の高速機より上質になるという一般法則ではない。[2]

大切なのは、遅さそのものを売れるわけではないという点だ。服になった時の落ち方、厚み、触れた時の感覚、柄の現れ方が、デザイナーの狙いや着る人の用途に合う必要がある。時間がかかる工程を残す判断は、その工程によって何を実現できるかと組み合わせて初めて、経営上の意味を持つ。

一宮市観光協会の取材記事では、2009年に日本貿易振興機構(JETRO)の商談に参加し、海外ブランドから服地を評価されたことが転機として語られる。設備投資の制約もあったという説明を含む歩みは、最初から一貫して古い機械を守るためだけに進んだ成功物語より複雑だ。残してきた生産方法の価値を、別の買い手との接点で捉え直したのである。[7]

県の観光サイトも海外の高級ブランドからの引き合いを紹介している。高級服地の仕事を考える上では、知名度の高い顧客がいることと、工場の経営が安定することは分けて見る必要がある。[9]

風合いの最後は、仕上げの現場で決まる

織機から出た生地は、まだ完成品とは限らない。一宮市の染色整理企業、艶清興業株式会社は、自社の技術紹介で、製織時の油分や汚れを洗い落とす「洗絨」を説明する。また、ウールの「縮絨」は、水分、熱、圧力によって繊維を絡ませ、生地を緻密で厚みのあるものにする工程として紹介している。[6]

織りでつくった構造に、仕上げが別の働きを加える。柔らかさやふくらみを、織機の古さだけで説明してしまえば、この工程の役割を見落とす。艶清興業の例は尾州の仕上げ技術を示すもので、同社が葛利毛織のどの製品を加工しているかを示すものではない。

分業には強みと条件がある。専門家同士が相談できれば、難しい素材でも試作を重ねやすい。一方、一つの工程を担う会社や人が不足すれば、織る設備だけが残っても同じ生地をつくれるとは限らない。継承する対象は、建物や機械に加えて、仕事を受け渡す関係でもある。

のこぎり屋根を残し、使い方を伝える

葛利毛織の建物群は2020年に国の登録有形文化財となった。一宮市博物館は2022年の企画展で、その建物と服地生産を取り上げている。一宮市観光協会は、工場、事務所、倉庫、住居などが同じ敷地にある職住一体の構成と、採光のため北側に高窓を設けた工場を紹介する。[8][1]

建物が残ることは、産業の記憶を伝える。しかし、稼働を続けるには、設備を調整し、糸の状態を見て、織り上がりを判断する人がいる。ウールマークの取材でも、機械ごとの癖を把握し、地域の修理技術に支えられながら使い続ける姿が描かれる。保存と生産は重なる部分があっても、同じ仕事ではない。[2]

技能を次へ渡す時間も、工場の費用の一部になる。受注をこなしながら、判断の理由を説明し、失敗を修正する機会をつくれるか。産地を応援するなら、古い機械を称賛するだけでなく、その機械を使う人の仕事に対価が戻る取引を考えたい。

2027/28年秋冬へ。産地は次を提案する

尾州ファッションデザインセンターが8月21日に公表した「2027/28 Autumn & Winter Bishu Material Exhibition」は、9月17、18日に東京のWITH HARAJUKU HALLで開催予定だ。主催者によれば、尾州のテキスタイルメーカー14社が約1,250点の新作生地を出展する。対象シーズンは2027/28年秋冬で、開催年の2026年とは異なる。[10]

同発表の出展企業アンケートでは、次の対象シーズンについて増収を計画する企業が半数弱ある一方、横ばいや減収を計画する企業もあった。これは限られた出展企業の販売計画であり、実績や産地全体の予測ではない。それでも、産地の未来を一色の好況で描けないことは分かる。[10]

こうした産地全体の提案活動に目を向けると、古い機械を使う仕事も、過去だけでなく将来の需要との関係で考える必要がある。残すべきなのは過去の姿だけではなく、顧客の次の要求へ応える力である。

工場見学を希望する場合、県の案内は少なくとも2週間前の相談を求め、土日は原則受け入れ不可としている。日曜版を読んで、そのまま立ち寄れる常設展示ではない。現役の仕事場として、その予定を尊重したい。[9]

一宮の古い織機が問うのは、速さを捨てるべきかという単純な選択ではない。どの素材を、どんな布にし、誰に使ってもらうか。その答えに必要な技術を見極める仕事である。尾州の未来は、昔の音が聞こえることだけでなく、その音の先に新しい服が生まれることにある。