「ポイポーイ」。北海道最北端に近い幌延町、北海道大学天塩研究林で、藪の向こうへ学生の声が響く。それはヒグマを呼ぶ声ではない。先に人間の存在を知らせ、接触を避けるため、北大ヒグマ研究グループに代々受け継がれた掛け声だ。学生たちはクマを追って写真を撮るのではなく、決められた道を歩き、足跡、爪痕、食痕、そして糞を探す。

新しい発見は、その地味な糞から生まれた。北海道大学大学院理学院博士後期課程3年で北大クマ研の金杉尚紀氏、研究当時同大大学院獣医学研究院教授だった坪田敏男氏ら11人は、2016〜2021年の秋に学生が集めた食性データを解析した。論文は7月20日、動物生態学誌Wildlife Biologyに掲載された。

問いは単純に見える。ヒグマはなぜ家畜飼料用のデントコーン畑へ入るのか。森のミズナラが不作で、ドングリが足りないからか。それとも、畑に大量の食物があるからか。研究の答えは「両方」だった。ミズナラの実りが多いほど糞に含まれるデントコーンは減り、収穫前の畑面積が大きいほど増えた。

結論を正確に: この研究が示したのは、北海道北部の一つの森林・農地景観で、ヒグマの食性とミズナラの実り、収穫前デントコーン面積が統計的に関連したことだ。特定の電気柵の効果を実験した研究ではなく、作物を食べたクマが必ず人を襲うことも示していない。
2016–20219〜11月の6シーズンに食性と自然食物を調査
9ルート固定ルートを1〜2週間ごとに踏査して新しい糞を収集
1970年学生有志が北大クマ研を創設
約3.5億円2024年度の道内ヒグマ農業被害。デントコーンが約半分

森の不作か、畑の豊作か

野生動物が農作物を食べる理由を調べる研究は、しばしば片側だけを見る。自然の木の実が不作になると、動物が代替食を求めて人里へ出るという「押し出し」を測る研究。あるいは、農地が広がり、高栄養の作物へ入りやすくなる「引き寄せ」を測る研究だ。

ヒグマとデントコーンでは、ミズナラのドングリが少ない年に作物利用が増えることが以前から知られていた。しかし、それだけでは、畑にどのくらい食物が残っていたかを区別できない。不作年と、収穫が遅く作物が長く立っている年が重なれば、どちらが効いたのか分からない。

金杉氏らは、森と畑を同じ時間軸に置いた。ミズナラ、サルナシ、ヤマブドウ、ナナカマドの実りを測り、糞から食物の割合を推定した。さらに地元のデントコーン栽培企業へ聞き取り、2018〜2021年について毎週どれだけの畑が未収穫だったかを計算した。収穫が進めば、立ったままの作物面積は減る。その変化を「デントコーンの利用可能性」の指標にした。

仮説予想される結果実際の結果
森の食物不足だけが原因ミズナラ不作年には作物利用が増えるが、畑の残存面積は重要でないミズナラは有意だったが、それだけでは説明できなかった
作物の量だけが原因未収穫面積が大きいほど利用が増え、ドングリ量は関係しない未収穫面積は有意だったが、ミズナラの豊凶で減り方が変わった
押し出しと引き寄せの両方ドングリが少なく、利用できる作物が多いときに作物利用が高まるデータが最も支持した説明。二つの食物系が相互に効いた

糞を洗い、ヒグマの秋の食卓を組み直す

糞は、食べたものをそのままの比率で保存しない。葉、果実、動物組織、トウモロコシは消化されやすさが違う。研究者は採取した糞を洗い、残った種、植物片、毛、骨などを識別し、格子状の枠で見える割合を測ったうえで、消化率の差を補正して食事構成を推定した。

天塩研究林周辺のヒグマが秋に多く利用したのは、順にデントコーン、ミズナラ、サルナシ、エゾシカだった。ほかに魚、ヤマブドウ、ナナカマドも主要分類へ入った。季節が進むにつれて食卓は変わり、同じ9月でも森の実りと収穫の進み方で構成が違った。

2019年と2021年のミズナラ豊作年には、秋が深まるにつれてドングリの割合が大きくなり、デントコーンは急速に減った。2016、2017、2018、2020年の不作年では、デントコーン利用が長く続いた。収穫前は豊作年でも作物利用が見られ、不作年には収穫後にも続いた。研究チームは、取り残された穂やこぼれた粒など、収穫残渣を利用した可能性を指摘した。

不作年にヒグマがトウモロコシだけへ依存したわけでもない。サルナシとエゾシカが代替食として使われる傾向があった。柔軟な雑食性こそヒグマの強みであり、管理を難しくする理由でもある。

ヒグマは「森に食べ物がないから畑へ来る」のではなく、森にあるものと、人間が畑に残しているものを同時に選んでいた。人はドングリの豊凶を命令できないが、作物へのアクセスは変えられる。

デントコーンは、偶然のおやつではない

デントコーンは、夏の食卓に並ぶスイートコーンとは用途が違う。主に家畜飼料として大面積で栽培され、秋には高エネルギーの穂が密集する。冬眠前に脂肪を蓄えたい大型雑食動物にとって、一本ずつ探す木の実より、予測しやすい食物の塊になり得る。背の高い茎は、採食中の姿を隠す。

北海道の過去研究も作物の重要性を示してきた。1991〜1998年に捕獲されたヒグマ556頭の胃内容物を調べた2005年の研究では、地域によって晩夏の胃容積の32〜46%を農作物が占め、デントコーンが最も多かった。富良野での2006年研究は、ミズナラが極端な不作だった1995年、9〜11月の糞で農作物が長く見つかったことを示した。

新研究は「森の不作」説を否定しない。そこへ、作物がいつまで立ち、収穫後に何が残ったかを加えた。つまりクマは不足に反応するだけでなく、機会にも反応する。いったん安全に高い報酬を得れば、道筋と場所を学習し、別の年にも戻る可能性がある。

そのことは、農作物被害を単なる金銭損失以上の問題にする。畑に近づく成功体験は、人間の生活圏への接近を学ぶ機会になり得る。ただし、作物を食べた事実だけから攻撃性は判断できない。個体の行動、警戒心、人への接近、現場の状況を別に評価する必要がある。

55年続く「学生サークル」という研究装置

英語見出しの“Bear Lab”は親しみやすい訳だが、北大クマ研は正式な研究室ではない。1970年、北海道大学の大学院生や学部生が自発的に結成した学生サークルである。当時、ヒグマは大きな関心を集めながら生態研究が乏しく、北海道では個体数を減らす政策が強く進められていた。創設メンバーはクマを見たいという好奇心から始め、痕跡、聞き取り、文献翻訳へ活動を広げた。

1975年から天塩研究林で継続調査が始まった。約225平方キロの森林を、春と夏に1〜2週間かけて歩く。学生は入れ替わるが、固定ルート、記録方法、地図、日誌、安全手順は引き継がれる。大型哺乳類の寿命や政策効果は、普通の研究費や大学院在籍期間より長い。毎年卒業する組織が、観察だけは卒業させなかった。

これは気軽な写真投稿型の市民科学ではない。藪、川、林道を歩き、同じ定義で痕跡を記録し、試料を持ち帰る。紙資料を後にデジタル化し、大学・研究機関の専門家が統計解析する。学生の自主性と、研究林職員、地域、OB・OG、教員の支えが重なって初めて続く仕組みだ。

安全も方法の一部である。大学の紹介によると、新入生は調査前に対策マニュアルを読み、クマスプレーを学ぶ。一人で行動せず、日の出後に入り、霧で見通しが悪ければ中止する。新しい大きな糞や鮮明な足跡を見つければ引き返す。「ちゃんと知って、正しく恐れる」という姿勢が、研究対象との距離を保つ。

1966 北海道が春グマ駆除制度を開始。残雪期の捕獲を奨励

1970 大学院生・学部生が北大ヒグマ研究グループを結成

1975 天塩研究林で継続的な痕跡モニタリングを開始

1987–1989 痕跡減少などにより天塩調査が中断

1990 個体群衰退への懸念から従来の春グマ駆除制度を廃止

2021 40年の学生記録から、駆除期の減少と廃止後の回復を学術発表

2026年3月 1976〜2015年の40年分の痕跡データをデータ論文として保存

2026年7月 6年の食性調査から、自然食と作物の相対的利用可能性を解析

足跡が、政策の結果を記録していた

クマ研の長期記録が最初に大きな科学的答えを出したのは2021年だった。1975〜2015年の糞と足跡を状態空間モデルで解析すると、春グマ駆除制度の期間に痕跡発見率は年平均15%減り、1980年代後半にはほとんど見つからなくなった。制度廃止後には年平均7%増え、個体群の回復を示した。

北海道庁が1966年に始めた従来の制度は、残雪で足跡を追いやすい早春に捕獲を奨励し、捕獲総数、区域、親子連れに上限を置かなかった。効率的に減らすことが目的だった。個体群の衰退が懸念され、1990年に廃止された。現在の早春捕獲は、モニタリング、地域・雌雄別の上限、人材育成を組み込んでおり、同じ名称の印象で混同してはならない。

道の推計では、ヒグマは1990年の約5,200頭から2022年末の約1万2,200頭へ増えた。推計には不確実性があるが、分布と人の生活圏との重なりが広がった。2024年度の農業被害は過去最高の約3億5,000万円となり、デントコーンが半分を占めた。回復は保全の成功である。同時に、予防と個体群管理を必要とする新しい局面を作った。

学生記録の価値は、政策の前後を同じ方法で見たことにある。制度が始まってから調査を設計し直したのではない。毎年の足跡と糞が先にあり、数十年後に変化の形が見えた。2026年3月には1976〜2015年の40年分がEcological Researchのデータ論文となり、次の世代が再利用できる形へ整理された。

「作物の利用可能性を管理する」とは何か

論文でいう利用可能性は、植えた面積と完全に同じではない。今回の統計では、週ごとの未収穫面積を主な指標にした。しかし現場では、同じ面積でもヒグマにとっての入りやすさが違う。十分な電圧を保つ電気柵、見通しのよい境界、残渣のない収穫後の畑は、物理的に作物があっても報酬を得にくくする。

北海道のヒグマ対策手引きは、誘引物の除去、草刈り、適切な電気柵、監視と情報共有を予防の柱に置く。新研究はその時期を精密にする。ミズナラが実る前の9月初めは、豊凶が最終的にどうなる年でもデントコーンが魅力的になり得る。不作年には、収穫後も穂や粒が残れば利用が続き得る。

管理手段ヒグマ側の選択をどう変えるか研究から生まれる現場の問い
電気柵高い報酬へ近づくコストと不快感を上げる電圧、草の接触、地面との隙間を収穫後まで点検しているか
収穫と残渣除去立った作物と取り残しという報酬を減らす不作年に、端の列、落ちた穂、こぼれ粒を早く除いているか
境界の草刈り隠れて接近できる経路を減らす森林と畑の間に、発見と追い払いができる視界があるか
堅果類モニタリング代替食への圧力が高い年を早く知るドングリ予測で柵の開始時期と撤去時期を変えられるか
地域での情報共有一つの畑から隣の無防備な畑へ報酬が移るのを防ぐ農家、市町村、研究者が同じ出没・被害地図を使っているか

予防と捕獲は別の問いに答える。畑を守ることは、新たに作物へ学習する個体を減らす。しかし、地域全体に何頭が適正か、人への警戒を失った個体にどう緊急対応するかは決めない。逆に捕獲だけでは、次のクマを呼ぶ無防備な食物が残る。環境省は2024年、本州の一部個体群を除くクマ類を指定管理鳥獣に加え、2026年には管理計画ガイドラインを改定した。必要なのは、誘引物管理、個体対応、地域個体群の三つの尺度である。

この研究を農家向け警報へ発展させるなら
  • 毎年同じ方法でミズナラの結実を測り、豊凶予測を地域で共有する
  • 収穫前面積だけでなく、熟度、残渣、柵電圧、境界植生を週単位で記録する
  • 糞のDNAで個体を識別し、同じクマの反復利用と集団全体の傾向を分ける
  • カメラとGPSで初回侵入の時刻・経路・追い払い後の行動を確認する
  • 保護区画と比較区画を設け、電気柵・残渣除去の効果を前後比較する

この研究がまだ説明できないこと

研究は観察研究で、畑へのアクセスを研究者が無作為に操作したわけではない。未収穫面積と糞中のトウモロコシが一緒に増えたことは、特定仕様の電気柵が被害を何%減らすかを示さない。畑面積は作物のエネルギー量、熟度、残渣、クマごとの侵入可能性を直接測ったものでもない。

調査ルートは農地境界に近い。森林奥部の個体群より、作物利用を強く捉える可能性がある。糞から個体識別をしていないため、同じクマが繰り返し使った結果か、多数のクマに広がった行動かを完全には分けられない。糞は食べた場所も攻撃性も示さない。

また、統計的関連は因果の方向を一つに固定しない。収穫時期は天候、作物の成熟、農作業条件で決まり、それらがクマの行動と同時に動く可能性がある。6年間の複数年データは単年観察より強いが、長期的な気候変化や農地構成の影響を確定するにはさらに年数と地域が要る。

言えること言えないこと
デントコーン利用はミズナラと未収穫面積の双方に関連したすべての侵入をこの二要因だけで予測できる
不作年には収穫後も利用が続き、残渣利用の可能性があるどの残渣を、どの個体が、どれだけ食べたか
作物へのアクセス管理を予防策として重視する根拠が増えた特定の柵・草刈り・収穫日が被害を減らす正確な効果量
学生の反復調査が査読研究に使える長期データを生んだ学生調査なら自動的に精度と継続性が保証される
作物利用は人の生活圏との接点を増やし得る作物を食べた個体が必ず危険、または捕獲すべきである

クマは一度ずつ畑へ入り、共存も一度ずつ作る

この研究で最も重要な像は、トウモロコシの中に立つヒグマではない。学生が同じ線を歩く姿だ。林道、沢沿い、ミズナラの下、畑の近くを通り、一、二週間後にまた歩く。その反復が、森の不規則な収穫と、人間が決める農地の収穫を一つのグラフへ載せた。

半世紀の反復は、さらに大きな変化を記録した。北海道はクマを減らし、痕跡がほとんど消えるところまで行った。次に保全へ転じ、個体群が回復した。いまは、回復した大型動物と、人口減少、高齢化する狩猟者、広い農地が重なる時代の管理を探している。

答えは「森へ餌を置く」でも「畑に来たクマをすべて除く」でもない。ドングリを数え、柵を通電し、境界を見通せるようにし、収穫残渣を除き、出没を共有し、個体と個体群を追い続けることだ。人間が畑に差し出している報酬を減らせば、森の不作を止められなくても、衝突への道筋の一部は変えられる。

ヒグマは一回の選択で畑へ入る。共存もまた、調査、予防、判断を一回ずつ積み重ねて作られる。北大クマ研の学生たちは、その積み重ねを55年、次の学生へ渡してきた。

資料・取材ノート
  1. 北海道大学「学生モニタリング調査でヒグマの農作物利用要因を解明」、2026年7月24日。概要、手法、結果、論文情報。
  2. Kanasugi et al., “The relative abundance of crop and natural food influences crop consumption by brown bears”, Wildlife Biology, 2026, DOI: 10.1002/wlb3.01693。
  3. 北海道大学広報誌「クマを感じる——ヒグマの『痕跡』をたどり半世紀」。クマ研の調査、安全、試料処理、学生研究。
  4. ヒグマの会「ヒグマ研究の歴史」。北大クマ研の1970年創設と天塩調査の展開。
  5. 国立環境研究所「学生モニタリング調査によるヒグマ個体群動態の解明」、2021年。40年記録、春グマ駆除期の減少と廃止後の回復。
  6. Furumaki et al., 40-year brown-bear field-sign dataset, Ecological Research, 2026, DOI: 10.1111/1440-1703.70054。
  7. 北海道「野生鳥獣被害調査」。2024年度の農林水産業被害とヒグマによる作物被害。
  8. 北海道「ヒグマ対策の手引き」。誘引物、農地防除、電気柵、出没時の対応。
  9. 環境省「クマに関する各種情報・取組」。指定管理鳥獣、被害対策、堅果類結実情報。
  10. 環境省「特定鳥獣保護・管理計画作成のためのガイドライン(クマ編)の改定」、2026年。
  11. Hokkaido University and Bears: Researching Bears。北大におけるヒグマ研究、学生調査、社会への応用。
  12. Sato, Mano & Takatsuki, stomach contents of 556 Hokkaido brown bears, Wildlife Biology, 2005。
  13. Sato et al., crop use and mizunara acorn production in Furano, Mammal Study, 2006。

編集注: “Bear Lab”は英語見出し上の通称で、北大クマ研は正式な研究室ではなく学生サークルである。2026年論文は査読付き観察研究。電気柵や残渣除去は大学発表と行政手引きが支持する管理上の含意だが、本研究自体は特定防除法を無作為比較していない。作物利用と人への攻撃性は別の指標である。画像は象徴的作品で、学生が野生のヒグマへ接近する実際の調査方法を描いたものではない。為替レートは読者提供値のUTC時刻を日本時間へ換算した。