深海に「新種のクモ」がいたのではない。すでに知られたウミグモの体で、別の動物が次世代を育んでいた可能性が見えてきた。
泥の海底を歩く、意外な「産卵場所」
日本海溝の水深約3,700~3,900メートル。太陽光が届かない海底で、細長い脚を広げたウミグモがゆっくりと動く。その体には、本人のものではない卵が付いていた。北海道大学の研究者が標本から見いだしたのは、扁形動物の卵嚢(らんのう)だ。生きものが別の生きものを「産卵場所」に利用するという、深海の知られざる関係が浮かび上がった。
今回の成果は、北海道大学が2026年10月22日に発表し、国際分類学誌『SPIXIANA』に同月16日オンライン掲載された。見つかったのは「深海の新種のクモ」ではない。ウミグモは陸上のクモとは異なる海産の節足動物で、標本自体はすでに学名がある種だった。未知の可能性が高いのは、卵嚢を産み付けた扁形動物の側である。
発見の舞台は2023年の「白鳳丸」航海
資料となったのは、2023年の学術研究船「白鳳丸」のKH-23-5次研究航海で採集された2個体。9月27日に水深3,685~3,693メートルからメス1個体、9月29日に3,890~3,893メートルからオス1個体が得られた。研究を担ったのは、北海道大学大学院理学院博士後期課程の関口翔悟氏と、同大学大学院理学研究院講師の角井敬知(かくい・けいいち)氏。
研究者は顕微鏡による形態観察とDNA配列の比較を重ね、両個体が Ascorhynchus mariae(アスコリンクス・マリアエ)であると判断した。1971年に記載された既知種だが、日本近海からは初の記録で、今回は同種の最深記録にもなる。メスの詳しい形態は従来知られておらず、今回の論文では雌雄双方を記載し直した。
「ヘビジタトックリウミグモ」という名前
研究グループが新たに提唱した標準和名は「ヘビジタトックリウミグモ」。頭部の突起の先が二つに分かれ、蛇の舌を思わせることに由来する。印象的な命名の背後には、生物の種類を見分け、後世の研究者が同じ生物を追跡できるようにする分類学の地道な仕事がある。
ウミグモ類は世界で約1,400種、日本では約170種が報告されているという。長い脚の大きさに比べて体幹部は小さいものが多く、表面に付着した小さな生物を見落としやすい。今回、分類のための観察が予想外の発見につながった。
5個の卵嚢と、3個の痕跡
メスの体表では卵嚢5個が確認された。さらに雌雄の体表から、卵嚢の殻とみられる構造が計3個見つかった。これらが何の卵かは、見た目だけでは高次の分類群すら判定できなかった。そこで研究者は複数の遺伝子の配列を調べ、系統関係と遺伝的距離を検討した。
その結果、卵嚢は扁形動物の Trigonostomidae(トリゴノストマ科)に属すると判断された。浅い海に生息する Ptychopera 属に近い一方、比較した既知種との遺伝的な隔たりや生息場所の違いから、未知種である可能性が強く示唆された。ただし親となる成体を採集できていないため、正式な新種記載には至っていない。卵嚢の分類と産卵行動の全容は、なお研究課題だ。
「寄生」と決めつけてはいけない
卵が他の動物に付いているからといって、ただちに寄生と呼ぶことはできない。寄生は、宿主から栄養などを得て不利益を与える関係を指す。今回の研究はウミグモの体表が産卵基質として使われていることを初めて記録したもので、ウミグモの健康状態や卵嚢を運ぶ利益・不利益を実験で測ったわけではない。
ウミグモの体に産卵する生物としては、以前から浅海のヒル類や南極海の巻貝類が知られていた。そこに扁形動物が新たに加わった。つまり「他種の卵を運ぶ海のクモ」自体が世界初ではない。世界初とされるのは、扁形動物がウミグモの体表を産卵場所として利用する記録である。
なぜ岩ではなく、歩く動物なのか
深海底の広い範囲は泥の平原や斜面で占められる。硬いものに卵を固定したい生物には、安定した付着場所が必ずしも豊富ではない。硬い外骨格を持ち、泥に埋もれず移動するウミグモは、別の生物にとって貴重な足場となる可能性がある。
しかし、卵を産み付けた扁形動物が本当にウミグモを選好するのか、卵がいつ孵化するのか、移動が分散を助けるのかは未解明だ。複数個体で卵嚢や殻状の構造が見つかったことから偶然の付着だけではない可能性が示されるものの、行動そのものを深海で直接撮影したわけではない。
2024年の「岩に付く卵」と、今回の「歩く卵」
角井氏らは2024年、千島・カムチャツカ海溝の水深6,176~6,200メートルの岩に付いていた扁形動物の卵嚢を『Biology Letters』で報告している。当時の卵嚢は直径約3ミリの黒い球形で、調べたものには3~7個体の発生段階の生物が入っていた。深海の自由生活性扁形動物がどのように初期発生を進めるかを知る手がかりとなった。
ただし2024年の岩上の卵嚢と、今回のウミグモ上の卵嚢は同じ生物の卵だと確認されたわけではない。前者は別の海溝、別の水深帯、別の系統群の研究である。二つをつなぐのは「これまで見えなかった深海の繁殖の営み」が標本の綿密な観察によって見えてきたという科学史上の流れだ。
小さな付着物が書き換える深海の地図
研究成果は、海底に生きる種の一覧だけでは生態系を十分に描けないことを教える。誰が誰の体に住み、どこに卵を産み、どのように次世代へ命を渡すのか。生物同士のつながりは、種数の調査だけでは分からない。
深海調査では採集の機会自体が限られる。柔らかな生物は採集時に損傷しやすく、卵だけが残る場合もある。形態学とDNA解析を組み合わせることで、従来は正体不明だった小さな構造物も研究対象になる。だからこそ論文の「未知種の可能性」と「新種の証明」を取り違えないことが重要だ。
深海のゆりかご、その答えはまだ途中
今回の発見は、海の最も遠い場所で起きた一つの出来事を、人間がようやく読み解き始めたことを意味する。ウミグモが卵を守っているのか、ただ通りすがりの足場なのか。産卵した扁形動物はどんな姿をしているのか。研究はその答えをまだ持っていない。
将来、成体を採集し、卵嚢との関係を確かめることができれば、深海の種の多様性だけでなく、生命同士が共存する仕組みをより具体的に説明できるだろう。見過ごされかねない小さな卵が、巨大な海の理解を一歩進めた。
出典・参考資料
北海道大学の一次発表、詳細資料と既発表研究に基づく。研究者への独自インタビューは実施していない。推測と実証を区別した。
