江戸の名所をつくったのは建物だけではない。そこへ出かけ、食べ、見て、語り合った人々だった。
江戸の人々は、すでに「東京観光」を楽しんでいた
名所を探し、地図を開き、評判の菓子を買い、川辺の催しを眺める。観光という言葉から連想する行動の多くは、江戸の町でも日常の楽しみだった。都立中央図書館が10月24日に始めた企画展「Go to お江戸 ―大江戸観光案内―」は、そんな都市のもう一つの姿に光を当てる。展示の主人公は将軍だけではない。町を歩き、名物を食べ、地誌や錦絵から行き先を選んだ人々である。
都立中央図書館に集まった観光の手掛かり
企画展は東京文化財ウィーク2026への参加事業として、港区南麻布の東京都立中央図書館4階企画展示室で11月8日まで開催される。図書館の特別文庫室が所蔵する浮世絵、江戸切絵図、双六、名所案内、そして重要文化財「江戸城造営関係資料(甲良家伝来)」などを扱う。入場は無料。11月5日は休館で、平日は午前10時から午後8時45分、土日祝日は午後5時15分までだ。展示内容や開室状況は来館前に公式案内を確認したい。
まず「観光地としての江戸」を見る
展示は最初に、江戸の町案内や名所について出版された本を取り上げる。今日なら地図アプリや旅の検索サイトに相当する役割を、紙の案内書や挿絵が担った。寺社への参詣に加え、食べ物、見世物、景色、買い物も人を動かした。ただし旅の自由や所持金、身分による制約は現代とは異なり、江戸の「観光」を今日のレジャーとそのまま同一視はできない。
神田・上野――信仰と学びの名所
最初の地域は神田・上野。神田明神や寛永寺など、江戸の都市生活に深く根付いた寺社が登場する。寛永寺は江戸城の北東側に位置し、徳川将軍家とも深い関係を持った。これらを「名所」として眺めることは、信仰、都市計画、政治的権威が交差する場所を歩くことでもあった。展覧会では、この地域を絵図や浮世絵を通してたどる。
浅草――参詣、甘味、芝居が一つの町に
浅草を語るのに浅草寺だけでは足りない。公式展示案内は金龍山浅草寺、その名を名乗った菓子屋、芝居町としてにぎわった猿若町を挙げる。参詣客が集まる場所には店ができ、名物が生まれ、娯楽が育つ。こうした連なりは、現代の門前町や観光商店街にも通じる。ただし展示解説にある特定の菓子屋が今日まで同じ企業として続いているという意味ではない。
両国・向島――川がつくった娯楽の回廊
隅田川の両岸には、水辺ならではの楽しみがあった。展示では花火、向島・長命寺ゆかりの桜餅、両国の勧進相撲を紹介する。大勢が集まる行事と川沿いの名物、渡しや橋という移動の仕組みが結び付き、江戸の名所を形作った。現代のイベント都市・東京の源流を知るには、建築物の保存だけでなく、人々がいつどこへ集まったかを読み解く視点が役立つ。
日本橋――街道の起点と市場のにぎわい
五街道の起点である日本橋は、人や商品、情報の結節点だった。江戸の魚河岸・魚市を含む市場のにぎわいも、見物の対象になった。現在の日本橋を歩くと、道路や商業施設の配置は大きく変わっているが、交通と商いの中心地という性格を考える手掛かりは残る。昔の案内絵図を単純に現代地図へ重ねるのではなく、街路や水路の変化も踏まえて読む必要がある。
江戸城・大名小路――権力の中心も「見る場所」だった
最終部で扱うのは江戸城と大名小路。見どころは重要文化財「江戸城造営関係資料(甲良家伝来)」の図面類だ。甲良家は江戸城の造営に関わった大工棟梁の家として知られる。図面は築城技術と政治権力の歴史を伝える史料であり、単なる観光パンフレットではない。城と周辺の武家地が名所としてどう認識されたのかを、絵図や浮世絵と読み合わせるのが展示の趣向である。
1662年には名所ガイドがあった
江戸を案内する印刷物の歴史は古い。国立国会図書館によれば、1662年刊『江戸名所記』は江戸の名所81か所を絵と文章で取り上げ、著者は浅井了意と伝わる。1677年刊『江戸雀』は菱川師宣の挿絵を収めた江戸の案内地誌。出版物は遠来の訪問者だけでなく、江戸の人自身が町を知り直す手段にもなった。印刷物を通じて「見に行くべき場所」が共有されていったのである。
三代かけて生まれた『江戸名所図会』
1834年と1836年に刊行された『江戸名所図会』は、江戸文化の壮大な記録だ。江戸東京博物館の収蔵情報によると、斎藤家三代にわたり編さんされ、画家・長谷川雪旦は現地を訪ねて多数の名所を描いた。紹介範囲は今日の都心だけでなく近郊へ広がる。名所絵は当時の風景の重要な手掛かりだが、絵師の構図や演出も含む。写真の代用品として無批判に使うべきではない。
「浮世絵=風景写真」と考えない
名所を描いた浮世絵は鮮やかな色彩と大胆な視点を持つ。見せたい景色を強調し、人の動きを凝縮した絵を、測量図のように扱うと誤解を生む。逆に、その編集された景色こそ、人々が何に驚き、何を語り合い、どこに足を運びたかったかを教えてくれる。切絵図、地誌、設計図と照合することで、それぞれの資料にできることとできないことが見えてくる。
江戸の歩き方を現代の街で考える
神田・上野から浅草、隅田川沿い、日本橋、江戸城周辺へ。実際に一日で回るには距離も交通事情も考える必要があるが、展示の構成を頭に入れて街を歩くと、神社、食べ物、橋、川、劇場、商いが別々の観光資源ではなく一つの都市文化だったことに気づく。展示を機に現地訪問する場合は、現代の施設営業や交通情報を別途確認してほしい。
展示が残す問い――観光は誰のものだったか
江戸を楽しめたのは誰で、案内に載らなかった暮らしは何だったのか。出版物に現れる名所は町のすべてではない。観光の歴史を知ることは、都市が誰に何を見せてきたかを考えることでもある。今回の企画展は、華やかな名所案内を手掛かりに、現代の東京の見方を少し変える入り口になるだろう。
出典・確認資料
東京都・東京都教育委員会の展示発表と都立図書館開催案内、国立国会図書館および江戸東京博物館の書誌資料で確認。展示の実地取材、学芸員への独自取材は行っていない。所蔵・書誌の記述は、その作品が今回必ず展示されていることを意味しない。
