絞りの模様は、染める前の仕事から生まれる。布を縫い、糸で括(くく)り、染料が入りにくい部分をつくる。染めた後に糸を解くと、それまで隠れていた白場が現れる。有松・鳴海絞会館が示す工程を追うと、目を引く色柄の奥に、締める手と解く手の仕事が見えてくる。[2]
名古屋市緑区の有松(ありまつ)では、この技術と商いが街道の風景を形づくってきた。古い商家を眺めるだけでも街の厚みは伝わる。けれど、産地を知るにはもう一歩、布が商品になるまでの道筋に目を向けたい。誰が模様を考え、誰が括り、どこで染めるのか。四百年を超える歴史は、いまも続く仕事の分担と、その組み替えの歴史でもある。
宿場と宿場の間で育った商い
市の説明によれば、有松は1608年、尾張藩によって東海道の鳴海宿と池鯉鮒(ちりゅう)宿の間に開かれた。宿場そのものというより、往来する人々に商品を売ることで育った町だった。旅人が持ち帰る絞り染めは、街道の人の流れを地域の生業へと結びつけた。[1]
有松・鳴海絞会館は、竹田庄九郎らを開祖として紹介し、尾張藩の保護の下、手拭いや浴衣が土産物として買い求められたと説明する。技法の伝来については、名古屋城の築城に伴って豊後から来た人々が伝えたという説もある。伝統的工芸品産業振興協会の解説も伝承として扱っており、起源を一つの確定した出来事にまとめることはできない。[2][3]
ここで注目したいのは、工芸と流通が初めから近かったことだ。旅の記憶を持ち帰りたい客がいて、それに応える布があった。今日、使う場面を考えながら手拭いや衣服を選ぶ行為も、この産地の歴史と無縁ではない。用途が変わっても、人に使われることで技術が次の仕事につながるという関係は、産地を見る手がかりになる。
一枚の布に、いくつもの専門職
有松・鳴海絞の特徴を「手仕事」の一語で片づけると、かえって仕事の細部が見えなくなる。伝統的工芸品産業振興協会は、18世紀末から19世紀初めごろに分業の形が定まったと説明する。型紙を彫る人、下絵を刷る人、布を括る人、染める人。それぞれの専門性をつないで製品ができる。[3]
同協会の2017年掲載の産地訪問記事では、竹田嘉兵衛商店の仕事が、デザインと各工程への発注、販売を担うものとして紹介されている。問屋は完成品を並べるだけの存在ではない。どの部分にどの技法を使い、誰の手に託すかという判断が、布の仕上がりを左右する。これは当時の取材に基づく説明だが、分業の意味を理解する具体例になる。[4]
染めた後の糸抜きにも熟練が要る。堅く締めた糸を、布を傷めずに外さなければならない。模様が現れる瞬間の手前まで、作業は続く。店頭で見えるのは完成した一枚でも、その価格を考えるときには、染色の時間だけでなく、前後の工程にも目を向ける必要がある。[2]
青い布を見る前に、模様のつくり方を見る
絞りは防染の方法であり、藍は染料の話である。青く染まっていることだけで、天然藍を使った製品と判断することはできない。会館の工程解説も、布や用途に応じた染料を使うとしている。色の印象と技法を分けて見ると、有松の表現の幅を捉えやすくなる。[2]
| 技法 | 染める前の操作 |
|---|---|
| 縫絞 | 布を縫い、糸を引き締めて防染する。 |
| 蜘蛛絞 | 布のひだを集め、根元から糸を巻き上げる。 |
| 板締絞 | 布を三角形や四角形に折り重ね、固定して染め分ける。 |
表は伝統的工芸品産業振興協会の技法解説を要約したものだ。[3]名称を覚える以上に大切なのは、白場の形を布の扱い方と結びつけることだ。縫い目、折り目、糸を掛ける位置を想像すれば、模様は平面の図柄から、手順の痕跡へと変わる。
大火と商売の転換が残した町並み
有松を「江戸初期のまま残る町」と受け止めるのは正確ではない。1784年の大火で村の大半が焼けた。さらに明治維新後には街道の往来が減り、絞り産業も衰退したが、新しい意匠や製法、卸売への転換によって再興した。現在の町並みには江戸後期から昭和前期の建物が重なる。保存地区の国の選定は2016年7月25日だった。[1]
建物には商いの規模と防火への意識も刻まれている。名古屋観光コンベンションビューローの紹介によると、服部家住宅には荷造りの作業場や倉庫群があり、主屋には塗籠(ぬりごめ)造、虫籠(むしこ)窓、卯建(うだつ)が見られる。外観を眺めるときにも、品物を扱う場所だったことを思い浮かべたい。軒や壁は写真の背景である前に、商家の仕事と暮らしを支えた構造物だった。[7]
修理して建物を残すことと、その内側で仕事が続くことは、つながりながらも別の課題だ。景観だけで産地の健全さを測ることはできない。美しい通りの先に、つくり手が技術を学び、注文を受け、生活していける条件があるか。その問いを持つことで、保存の意味も広がる。
外から技術を学び、街道に拠点を持つ
継承の道筋は家業の相続だけではない。工芸の作り手による「凛九」の紹介では、括り職人の大須賀彩(おおすか・あや)は大学の授業と会館の展示をきっかけに、この仕事を志した。修業を経て2017年に独立し、2020年には旧東海道沿いに自宅兼アトリエを開いたという。異なる絞りの技法を使った商品づくりと染め体験を、その活動として挙げている。[5]
この経歴が示すのは、展示を見る人が、技術を担う側へ移る可能性だ。ただし、興味を持つことと、職業として続けることの間には距離がある。前述の2017年の産地訪問記事は、後継者講習を修了した人が仕事を続けられるよう、組合が受注の機会をつなぐ取り組みも紹介していた。技術を教えるだけでなく、仕事を届けることが継承を支える。[4]
日曜は、実演から街を読み直す
産地を知る入口には有松・鳴海絞会館がある。公表されている通常の開館時間は午前9時30分〜午後5時、実演は午後4時30分まで。体験は予約が必要で、土日は午前10時30分と午後2時の板締め雪花絞りを案内している。これは通常案内であり、9月13日の空席を保証するものではない。訪問前に営業日と予約状況を確かめたい。[6]
実演では、出来上がった柄だけでなく、布を持ち替える動きや糸を締める手順に注目したい。その後で商品を見ると、質問も変わる。どの技法を使ったのか。素材は何か。洗濯や保管で何に気を付けるのか。使う人の具体的な関心が、つくる側との会話を生む。
有松に残る四百年は、同じものを同じように売り続けた時間ではない。街道の客に始まり、卸売への転換を経て、学びに来た人が工房を構えるところまで、産地は担い手と客の関係を結び直してきた。その営みを見るなら、模様の美しさの先にある仕事まで持ち帰りたい。
