おにぎりを包む一枚の海苔は、海だけで育つわけではない。陸から届く水と栄養、季節ごとの水温、網を管理する漁業者の仕事が重なって、色や品質が決まる。愛知のノリの将来を考えることは、川の上流に暮らす人と、河口で養殖する人の関係を考えることでもある。
9月13日、名古屋市で「きれいで豊かな伊勢湾シンポジウム」が開かれる予定だ。主催は愛知県長良川河口堰最適運用検討委員会。長良川・木曽三川と海の汽水域の恵みを受ける愛知県の海苔をテーマに、県の水産担当者、海苔メーカー、養殖現場の課題解決に関わる事業者が登壇する。食卓に身近な海苔を入口に、川と海をどう管理するかを議論する催しだ。[1]
その議論には、具体的な研究の蓄積がある。三河湾では下水処理水に含まれる栄養分の調整が試され、ノリの色調に関する成果が報告されている。ただし、一つの海域で得られた結果を、伊勢湾全体の答えに置き換えることはできない。漁場ごとの条件を見極める必要がある。
河口から広がった産業
県水産試験場の研究報告に掲載された養殖史は、愛知のノリ養殖の始まりを安政年間(1854〜60年)の前芝村、現在の豊橋市に置く。川の河口で始まった技術は県内へ広まり、戦後には人工種苗、浮き流し養殖、冷蔵網などの技術が生産を支えた。一方、港湾整備や臨海工業用地の造成によって、養殖に適した浅海干潟も失われたと記されている。[2]
その歴史は、自然条件に恵まれた産地という説明だけでは捉えきれない。漁場を使う技術を変え、設備を導入し、変わる海岸線に対応してきた産業だ。いま問われている栄養塩の管理も、そうした変化の延長線上にある。ただ、個々の漁業者が網の上で工夫できる範囲を越え、流域の水利用や処理施設の運転にまで関わる点に難しさがある。
県の養殖紹介では、支柱で支える柵や沖合に浮かべる柵に、種付けした網を張る。網は張ったままにせず、海況や天候に応じて管理するという。2012年の紹介記事が描く一般的な漁期は秋から春だが、これを今年の作業日程と受け取ることはできない。海の季節が、そのまま昔の暦どおりに進むとは限らないからだ。[3]
水がきれいになることと、ノリが育つこと
海中の窒素やリンは、ノリなどが育つために必要な栄養塩でもある。県は、排水規制によって伊勢湾・三河湾の水質が改善する一方、栄養塩不足がノリやアサリに及ぼす影響を指摘する。ノリでは色が薄くなる「色落ち」が問題になる。[7]
一方で、赤潮と色落ちも結び付いている。2016年の県水産試験場の研究は、三河湾で色落ちを起こす珪藻の一種、Eucampia zodiacusによる赤潮の発生条件を調べている。栄養塩の供給量だけでなく、それを利用するプランクトンの動向も漁場を見る手掛かりになる。[9]
つまり、減らすほどよい、増やすほどよい、という一方向の議論では足りない。いつ、どこへ、どの形で栄養分が届くのか。ノリの状態と周辺の環境を合わせて確かめることが、管理の前提になる。
三河湾の実験が示したこと
2026年2月刊行の「水産海洋研究」に、愛知県水産試験場などの研究チームが、一色干潟に近い矢作川浄化センター周辺の調査を報告した。対象は2018〜2021年度のリン増加運転。放流水のリン濃度を調整した期間を調べ、浄化センターに近い調査点で栄養塩濃度が高く、ノリの色調が良好だったとする。[6]
ここで扱うのは、処理を終えた水に残る栄養分の調整だ。また、調査場所は三河湾の一部であり、論文の刊行年と実験を行った年も異なる。結果は放流水を漁場環境の改善に生かす可能性を示すが、すべての漁場で収量や所得が同じように増えることを証明したものではない。
県はその後、矢作川浄化センターと豊川浄化センターで、2022〜2023年度に窒素・リン濃度を増やす社会実験を実施した。2024年の結果公表では、ノリの色落ちが軽減されたと考えられるとし、中断条件としていた極度の赤潮などは確認されなかったと報告した。[7]
この結果は、調べた期間と範囲での評価として読むべきだ。継続的な監視や別の漁場での検証が不要になったわけではない。漁業者が求める安定生産と、沿岸全体の環境保全を同時に確かめる作業は続く。
2026年、水質管理の目標も変わった
今年3月27日、愛知県は「三河湾(ハ)」という指定水域について、全窒素・全りんの環境基準の類型をIIからIIIへ変更すると告示した。基準値は全窒素が0.3から0.6mg/L以下、全りんが0.03から0.05mg/L以下となった。県は地域の実情や科学的知見を踏まえ、ノリ・アサリ漁場などに合った水質管理を行うためと説明する。[8]
これは指定された海域の環境上の目標であり、個々の施設が放流できる濃度をそのまま示した数字ではない。基準の変更だけで、必要な栄養分が必要な時期にノリ網へ届くわけでもない。制度の変更を、現場での測定と生産の変化へ結び付けて評価する必要がある。
暖かい秋と、網を囲む仕事
栄養塩の問題とは別に、水温も生産を左右する。県水産試験場は、秋の水温低下が遅れることで養殖開始が遅れ、開始後にもノリの葉体が変形したり脱落したりする高水温障害が生じると説明している。[4]
対応は以前から進められてきた。2013年、県と愛知県漁業協同組合連合会は、高水温に強い「あゆち黒誉れ(あゆちくろほまれ)」の開発を発表した。県の説明では、色調が濃く、高水温での障害が少ない特性を持つ。品種の工夫と海域の管理は、異なる制約に向き合う取り組みだ。丈夫な種苗があっても、必要な栄養や漁場の条件まで不要になるわけではない。[5]
さらに、魚やカモによる食害がある。2024年公表の県水産試験場の調査は、2022年度に77経営体へ聞き取りを行い、防除網などの対策を調べた。これは栄養塩だけでは説明できない現場の仕事だ。色よく育てたノリを収穫まで守るにも、手間と設備が必要になる。[10]
海の回復を、続けられる経営へ
西尾地区の2023〜2027年度「浜の活力再生プラン」は、ノリ養殖の経営体が減る中で、乾燥機の整備による生産性向上や省エネ化を掲げる。海苔網を保管する冷凍庫の共同利用も記されている。海の状態が改善しても、加工や保管の負担を引き受けられなければ、地域の産業は続かない。[11]
県水産試験場の情報サイト「Ai-FISH」は、養殖に役立つ水温やクロロフィル、赤潮・栄養塩の情報の見方を案内している。観測値を共有することは、漁業者の判断を支えるとともに、行政の取り組みを検証する土台にもなる。[12]
9月13日のシンポジウムは午後1時30分から4時40分まで、名古屋市の桜華会館で開催予定で、ライブ配信も案内されている。議論の焦点は、川と海のつながりを大切にするという共感を、何を測り、誰が管理し、どう負担するかという具体策へ進められるかにある。[1]
愛知の海苔を残すために必要なのは、海の色だけを見ることでも、生産枚数だけを追うことでもない。漁場を健全に保ち、育ったノリを収穫し、加工して届ける人が仕事を続けられること。その条件を整える責任は、河口の外、流域に暮らす人々にもつながっている。
- 愛知県:きれいで豊かな伊勢湾シンポジウム(2026年9月13日開催予定)
- 井野川仲男「愛知の水産史-ノリ養殖の沿革-」愛知県水産試験場研究報告21、22–42頁(2016年、PDF)
- 愛知県:新海苔の季節になりました!(2012年12月7日更新、養殖の一般的な紹介)
- 愛知県水産試験場:ノリ優良種苗開発(2023年1月10日更新)
- 愛知県:高水温に強いノリ新品種「あゆち黒誉れ」(2013年11月28日)
- 柘植朝太郎ほか:下水処理場におけるリンの増加試験運転が三河湾のノリの色調およびアサリの秋冬季減耗に与える影響、水産海洋研究90(1)、22–34頁(2026年)
- 愛知県:水質の保全と「豊かな海」の両立に向けた社会実験の実施結果(2024年7月23日)
- 愛知県:三河湾の全窒素・全りんに係る水域類型の見直し(2026年3月27日)
- 柴田晋作・中嶋康生:三河湾における養殖ノリ色落ち原因珪藻Eucampia zodiacus赤潮の発生予察(2016年、PDF)
- 中島広人・成田正裕:愛知県の海苔養殖漁場における食害対策の手法とその現状(2024年、PDF)
- 西尾地区地域水産業再生委員会:浜の活力再生プラン、第2期・2023〜2027年度(水産庁掲載、PDF)
- 愛知県水産試験場 Ai-FISH:のり養殖業での活用ガイド
