1887年作品の刊行年
1838–1912作者の生没年
1868年戊辰戦争
2026年上越で回顧展

ミシンを囲む女官たち――明治20年の一枚

洋服の布地を裁ち、ミシンに向かう女官たち。傍らには西洋式の衣装をまとった皇后と、制服姿の皇子が描かれる。明治20年(1887年)8月23日付の錦絵《女官洋服裁縫之図》は、華やかな宮廷風俗画に見えて、近代国家の姿をめぐる問いを秘めている。

作者は楊洲周延(ようしゅう・ちかのぶ、1838~1912年)。メトロポリタン美術館が所蔵する大判三枚続の作品だ。美術館の作品解説によれば、中心人物は昭憲皇后。洋装の女官たちは裁断や縫製の技術を示し、近代的なミシンも登場する。外国からどう見られるかが国家の課題となった時代、服装と手仕事は宮廷外交の表象になった。

ただし、これは皇居内での出来事を記録した写真ではない。錦絵は絵師・彫師・摺師・版元が世に送り出す商品でもある。周延は人びとの憧れや関心を呼び起こす場面を構成したのであり、画中の裁縫作業が特定の日に実際に行われたと断定することはできない。

高田藩士・橋本直義のもう一つの顔

周延の本名は橋本直義(なおよし)。天保9年(1838年)、高田藩の江戸詰藩士・橋本直恕(なおひろ)の嫡男に生まれた。上越市立歴史博物館や町田市立国際版画美術館の資料によると、若くして歌川国芳、三代歌川豊国、豊原国周(とよはら・くにちか)らの系譜で絵を学んでいる。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では筆を離れ、江戸の高田藩士らが組織した神木隊(しんぼくたい)に加わった。上野戦争を経て旧幕府方として戦い、箱館戦争にも関わった。敗戦後に謹慎を命じられたことも、故郷の博物館の調査で紹介されている。

「武士から絵師へ」という紹介は分かりやすい。だが正確には、周延は戦う前から絵を学んでいた。維新を境に突然絵筆を握ったのではない。政権の交代と戦争をくぐり抜け、身につけていた画技で新しい時代の生活を描く道を選んだのである。

戦争錦絵から御所絵へ

周延が本格的に画壇へ戻ったのは明治8年(1875年)ごろとされる。明治10年(1877年)の西南戦争では戦争錦絵の需要が高まり、周延も戦場を題材にした作品を制作した。実地の戦闘に参加した経歴を持つ絵師が、今度は遠くの戦況を画面に組み立てて販売する。そこには明治の情報文化の変化が凝縮されている。

その後の周延は役者絵、名所絵、歴史画、美人画、時事画へと画題を広げた。写真や石版画が浸透するなか、錦絵の魅力は単なる写実だけにはなかった。鮮やかな色彩、人物の表情、物語性、そして三枚続ならではの大きな場面構成。周延はそれらを使い、宮廷の行事や新しい服装を人びとに届けた。

町田市立国際版画美術館は、天皇・皇后と女官を描く「御所絵(ごしょえ)」を周延の代表的な画題と位置づけている。鮮烈な赤色を伴う華やかな画面には、未知の宮廷をのぞきたいという当時の読者の関心も映っている。

皇后の洋装は何を意味したのか

明治の「文明開化」は、西洋風の衣服を着れば完成するものではない。それでも皇后の服装は政治的な意味を持った。町田市立国際版画美術館の解説は、明治19年(1886年)から皇后が公の場で洋服を着用し始め、洋装女性が周延の主要画題となったと記す。

近代国家として国際社会に受け入れられ、外交儀礼を整えるうえで、宮廷の装いは見える制度改革だった。一方、日本の衣生活が一斉に洋服へ切り替わったわけではない。地域や身分、職業によって変化の速度は違い、着物や伝統的な織物、染色の文化も続いた。宮廷の絵から全国の女性の実態を推し量るのは危険だ。

《女官洋服裁縫之図》のミシンは興味深い。新しい技術が工場や鉄道だけでなく、衣服を作る現場にも入り込む姿を象徴する。人びとが何を着るかという問いには、素材、労働、技術、外交、教育が折り重なっていた。

三枚続のなかで女性たちは何をしているか

作品を一つの舞台として眺めると、細部の意味が浮かぶ。西洋風の衣装を着た人物たち、布地、道具、整えられた室内。ミシンは一際目を引くが、絵の主役は機械だけではない。新しい仕事の仕方を学ぶ女性たちが、宮廷の格式と結びつけられている。

そこには二つの読みがある。裁縫の技術を身につける女性の姿を、新しい社会での主体性と見ることはできる。しかし宮廷画としての理想化も強い。女性が自ら何を望んだのか、実際の衣服づくりを支えた職人は誰だったのか。この絵だけでは答えられない。

また、旧幕府方で戦った周延が新政府の宮廷を描いたからといって、内心で政治的転向を遂げたと決めつけることもできない。作品はまず出版物であり、絵師の思想を一枚から読み取るには慎重さが要る。

文明開化と江戸懐古を同時に描く

明治20年前後の周延を読み解く鍵は、「新しいもの」と「失われゆくもの」を同時に描いたことだ。近代的な洋装や宮廷行事の一方、周延は徳川時代の女性たちの暮らしにも深く関心を寄せた。

明治27~29年(1894~1896年)には、江戸城大奥の風俗を題材とする《千代田之大奥》が刊行された。国立国会図書館には当時の資料が残る。ここで描かれる大奥も、幕末の現場をそのまま写したものではない。明治に生きる人びとが「過去」をどう見ようとしたかを物語る再構成された歴史の世界である。

さらに《真美人》などの揃物では、身なり、髪形、生活風俗を通して同時代の女性像を描いた。新時代を称揚する絵と旧時代を懐かしむ絵は矛盾しない。急激な社会変化のただなかでは、未来への好奇心と、過去を確かめたい気持ちは同じ人のなかに生まれる。周延の人気は、その両方に応えた点にあったのだろう。

錦絵は一人だけの芸術ではない

錦絵(にしきえ)は、絵師が原画を描き、彫師が版木を彫り、摺師が色を重ね、版元が出版する共同制作である。色数が増え、複雑な文様を配すほど、現場には高度な分業と調整が必要だった。

メトロポリタン美術館によると、《女官洋服裁縫之図》は紙に墨と色彩を施した三枚続で、画面の大きさは縦36.4センチ、横75.4センチ。宮廷の一室を横長の大画面に広げる構図も、この媒体の強みだった。手で彫った木版を通じて、近代的なミシンが都市の鑑賞者へ伝わっていく。その取り合わせが面白い。

2026年、故郷で約1200点の寄贈

2026年の周延再評価には、もう一つの具体的な動きがある。上越市立歴史博物館は、村田コレクションから約1200点の作品寄贈を受け、7月18日から10月12日まで特別展「楊洲周延―サムライ、浮世絵を描く―」を開いた。前後期を通じ約150点を紹介した。会期はすでに終了しており、10月23日現在の開催中展覧会ではない。

生まれ育った高田藩との縁を持つ地域で、美人画や開化絵、歴史画をまとめて見る機会が生まれた意味は大きい。町田市立国際版画美術館も2023年の展覧会で周延の多面的な画業を検証した。人物を華やかに描く絵師という印象だけでは、戦争と情報、文明開化と江戸懐古を横断する仕事は見えてこない。

作品は何を証明するのか

1887年8月23日という刊行日、作品の正式名称、作者、技法、所蔵先はメトロポリタン美術館の公開記録で確認できる。同館はこの作品をパブリックドメインとし、1959年にリンカーン・カースタインから寄贈されたものと記載する。現在は展示されていない。

一方、周延が皇后の裁縫場面を直接目撃したかどうかや、女官の具体的な発言を裏づける資料は、今回確認した公開資料にはない。美術作品が伝えるのは出来事そのものに加え、その時代が望んだ姿、見せたかった姿でもある。見たままを「史実」と取り違えない視点が必要だ。

刀から絵筆へ、そして未来へ

幕府のために戦った藩士が、新しい皇室の洋装を描く。木版画の職人技で、近代的な機械の姿を広める。周延の歩みと《女官洋服裁縫之図》には、明治の日本が抱えたねじれと創意が同居している。

明治維新を大きな制度改革としてだけ捉えると、人びとが暮らしの細部で経験した変化を見落とす。周延が描いたのは、歴史の教科書に載る出来事の周辺で、社会が少しずつ姿を変える瞬間だった。ミシンの針が布を進めるように、新しい時代も、こうした小さな実践の積み重ねで形づくられていった。

出典・作品の来歴

国内外の美術館による公開資料に基づく美術史記事です。学芸員への独自取材や作品の現地実見は行っていません。上越の特別展は2026年10月12日に終了しました。

  1. The Metropolitan Museum of Art — Court Ladies Sewing Western Clothing
  2. 上越市立歴史博物館 — 楊洲周延―サムライ、浮世絵を描く― (2026)
  3. 町田市立国際版画美術館 — 楊洲周延 明治を描き尽くした浮世絵師
  4. 神奈川県立歴史博物館 — 文明開化編
  5. 太田記念美術館 — 生誕170年記念 楊洲周延展
  6. 国立国会図書館 — 千代田の大奥 (1894–1896)
  7. 上越市 広報 — 楊洲周延(2026年7月)