c. 1825今回の作品の推定制作年
JP1107メトロポリタン美術館の所蔵番号
20.3 × 17.6 cm作品の大きさ
Public Domain美術館の権利表示

江戸時代後期の摺物は、広く売るための出版物ばかりではなかった。詩を贈り、仲間と技を競い、見る者だけが解ける仕掛けを詰め込む。約200年前の小さな紙片には、贅を尽くした印刷文化が凝縮されている。

ニューヨークに残る「龍を呼ぶ賢人」

米ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵する八島岳亭の《Chinese Sage Evoking a Dragon》(中国の賢人が龍を呼び起こす場面を描いた作品)は、1825年頃の摺物である。美術館の収蔵番号はJP1107。大きさは縦20.3センチ、横17.6センチ。作品そのものは展示中ではないが、館の公開データで確認できる。龍という主題には力強さがある。しかし、その迫力だけで岳亭を理解したつもりになるのは早い。この版画が生まれた江戸後期には、詩歌と絵を組み合わせた少部数の印刷物が、人々の交流と趣味の世界を彩っていた。

摺物はなぜ特別だったのか

「摺物(すりもの)」は、木版で摺ったものを広く指し得る言葉だが、美術史上は、しばしば狂歌の愛好家や仲間の集まりが私的に制作・配布した精巧な版画を意味する。正月の挨拶、祝賀、詩歌の会の記念などが制作の契機になった。版元が市場で大量に売る錦絵とは、流通と費用負担の仕組みが異なる。発注する側が意匠と費用に関与するため、細やかな摺り、上質な紙、金銀を思わせる顔料、凹凸を生む空摺りなど、ぜいたくな仕立てが可能になった。ただし、すべての摺物が同じ技法を備えているわけではなく、個別作品ごとの実見や収蔵記録が必要だ。

絵を「読む」文化

摺物では詩と絵が互いを説明し、時に裏切り、見る者に連想を促す。とりわけ狂歌は、五・七・五・七・七の三十一音を基礎とする、機知や言葉遊びを好んだ和歌の一形態だ。故事、季節、地名、古典文学、縁起のよい動植物が重なり、身内の集まりにしか伝わらない趣向もあった。絵が美しくても、当時のことばの含意を現代の読者がすべて読み解けるとは限らない。ゆえに作品の価値は、絵柄だけでも、添えられた詩だけでも完結しない。

八島岳亭は何者だったのか

岳亭は江戸後期の浮世絵師、挿絵画家、戯作者、狂歌作者として活動した。一般に1786年頃生まれ、1868年没とされるが、生年の確実性は高くない。ベイツ大学美術館は大阪生まれと紹介する。一方、江戸時代の人物伝を引用する日本側の資料には江戸の霞が関や青山との関係を伝える記述があり、出生地の断定には注意が要る。名前も「八島岳亭」「岳亭丘山」「岳亭春信」「岳亭定岡」などの表記・号が見られる。表記の違いを別人と誤解しないことが、作品を追う第一歩となる。

北斎の時代を生きた、独立した表現者

岳亭の画業は魚屋北渓(ととや・ほっけい)や葛飾北斎との関係のなかで語られてきた。ベイツ大学美術館は両者に学んだとするが、どの時期にどのような形で師事したかは資料によって叙述が異なる。「北斎の弟子」とだけ書けば簡潔でも、岳亭が文筆にも取り組み、摺物の注文に応え、独自の工夫を重ねた事実が見えにくくなる。北斎の名声の陰で活動した二流の追随者という読み方は、作品そのものの多彩さを説明しない。

紙の表面に現れる技術

岳亭の技巧を語るうえで欠かせないのが空摺り(からずり)だ。顔料を用いず版木の圧力で紙に模様を浮かび上がらせる技法で、光の角度によって衣紋や文様が初めて見えることがある。ベイツ大学美術館が紹介する弁財天に見立てた花魁の作品では、着物の白い層にうねる文様が浮き上がっていると説明される。アマースト大学の展覧会資料は、岳亭の鯉の摺物について、金属顔料の装飾、ぼかし摺り、細緻なうろこの描写を挙げる。作品ごとの記録を比べると、岳亭の技量は線の巧みさにとどまらなかったことが分かる。

龍、鯉、詩人――一つの題材には収まらない

今回の主役とした龍の図以外にも、岳亭は鯉や詩歌の神格化された人物、風俗や文学に由来する主題を手がけた。メトロポリタン美術館には柿本人麻呂を題材にした摺物も所蔵される。鯉が滝をのぼるイメージと龍への変身を結ぶ中国起源の伝承など、当時の視覚文化は国境を越える物語を受け取っていた。もっとも、《Chinese Sage Evoking a Dragon》の人物を特定の賢人や伝説の一場面だと決めつけるには、原画の詞書・銘文の解読と作品研究が必要だ。本稿では美術館が与えた英語題名以上の図像特定を行わない。

私的な版画が、世界の公共財になるまで

こうした作品が欧米の博物館に収蔵され、現代ではネットで公開されていること自体、興味深い歴史の転換だ。かつて限られた詩歌仲間に届いた紙片を、いまは世界の読者が拡大表示できる。メトロポリタン美術館はこの作品を1919年にロジャーズ基金で収蔵し、パブリックドメインと明記する。収蔵品の権利表示とデジタル画像の利用条件を照らし合わせれば、現代のウェブ媒体が真正の歴史作品を紹介する道が開かれる。ただし、ウェブ上の圧縮画像では、紙の起伏や金属顔料の反射が十分に分からないことも忘れてはならない。

何が「秘密のぜいたく」なのか

江戸時代の木版画というと、大きな版元のもとで広まった役者絵や風景画が思い浮かぶ。摺物のぜいたくは、必ずしも高価な大判や派手な色にあるのではない。持ち主が手元で見つめ、角度を変え、詩を読み、余白を味わうための小さな工夫にあった。岳亭の作品は、手で触れられる紙に情報と技巧を重ねた、江戸時代の精密なコミュニケーションでもある。デジタル時代に画面を流れていく画像とは、時間の使われ方が違った。

見る前に知っておきたいこと

メトロポリタン美術館の収蔵情報は制作年代を「1825年頃」とする推定であり、正確な制作日を示すものではない。英語題名は館による整理上の名称で、日本語の定訳を確認できていないため、本稿の日本語表現は内容説明として扱った。岳亭の生地・生年も資料によって差がある。収蔵作品の細部について断定を避けることは、面白さを損なうのではなく、本物の作品に向き合う準備となる。

小さな版画から、江戸の想像力を読む

龍は空に舞い上がる。だが、この作品のもっと大きな発見は、約20センチの紙片に広がる人間の好奇心かもしれない。詩を作る者、意匠を考える者、版木を彫る者、色を摺り重ねる者。小さな一枚が成立するまでに、さまざまな技能と人間関係が交差した。岳亭の名を知ることは、有名な浮世絵の周辺に埋もれていた江戸の豊かな表現世界を、もう一度見ることでもある。

出典・確認資料

収蔵館と研究機関の公開資料に基づく。収蔵作品の銘文の独自翻刻・解釈や現地調査は行っていない。

  1. The Metropolitan Museum of Art: Chinese Sage Evoking a Dragon, JP1107
  2. Bates College Museum of Art: Yashima Gakutei biography
  3. The Met: Gakutei, Kakinomoto no Hitomaro
  4. Amherst College: Nature, Pleasure, Myth exhibition checklist
  5. 慶應義塾大学「江戸廼花也」摺物データベース
  6. 日本人名大辞典:岳亭丘山
  7. The Metropolitan Museum of Art: Open Access