ロケット、東京タワー、機関車。これらは油絵や版画の主題ではない。山鹿清華(やまが・せいか、1885~1981)が糸で織り上げたモチーフである。京都市京セラ美術館で9月19日から始まった特別展「生誕140年記念 染織家 山鹿清華─宙翔ぶイマジネーション」は、京都を代表する染織家の仕事を40年ぶりに総覧する回顧展だ。会期は12月20日まで。[1]
展覧会は、山鹿が自ら「手織錦」と名づけた制作方法を中心に据える。図案の構想、下絵、糸の選定、織りまでを一人の作家が担う。高度な分業を特徴とする西陣織の環境から出発しながら、山鹿は工程を自分の手に戻し、織物を「誰かの図案を再現する工芸」から、作家自身が発想から完成まで責任を持つ美術作品へ押し広げた。京都市京セラ美術館は、これを山鹿が「染織芸術のパイオニア」と呼ばれる理由の一つに挙げている。[1]
京都の印刷所に生まれ、西陣の図案から出発
山鹿は1885年、京都市内で活版印刷業を営む家の第七子として生まれた。1900年、15歳で西陣の図案家に師事し、作家としての歩みを始める。図案だけでなく日本画も学び、後に西田竹雪、河辺華挙、神坂雪佳らから影響を受けた。[1]
とりわけ重要なのが神坂雪佳との出会いである。1910年、山鹿はかねて敬慕していた雪佳に師事し、雪佳が主宰する「佳都美会」に入会した。そこで図案、日本画、織物などを発表する。雪佳は、琳派の装飾性を近代デザインへ接続した人物として知られる。山鹿が後に見せる大胆な画面構成、自然と幾何学の併置、伝統の中に現代的モチーフを入れる姿勢は、単純な模倣ではないにせよ、この環境と無関係ではなかったと考えられる。[1]
国立国会図書館の典拠でも、正式な読みは「ヤマガ セイカ」、英字表記はYamaga, Seikaと確認できる。[2]
「手織錦」は技法名というより、作家の制作宣言
展覧会資料によると、「手織錦」は山鹿自身の造語である。厳密には既存の一つの織技法を指す名称ではなく、制作の全工程を一人の作家が担うという姿勢そのものを示す。山鹿はつづれ織を基盤に、色や糸を自ら選び、画面の立体感や絵画的な色彩を織りそのものから生み出した。[1]
さらに、伝統的な絹糸だけに閉じなかった。美術館は、セロファンや金銀糸など新素材も積極的に取り入れたと説明する。つまり、山鹿にとって「伝統」とは古い素材や図柄を守ることではなく、織物という媒体の可能性を広げることだった。[1]
1927年、《和蘭陀船》が人生を変えた
山鹿の転機は1927年に来る。この年、帝国美術院展覧会(帝展)に美術工芸部門が新設され、山鹿は《和蘭陀船》を出品した。作品は特選を受賞。京都市京セラ美術館の解説では、この成功を機に42歳の山鹿は染織作家として生きる決意を固めたという。[1]
重要なのは、この受賞が「工芸」が官展の中で美術作品として評価される制度的な変化と重なったことだ。明治以降、日本の工芸は輸出産業、博覧会、帝室技芸、図案教育など複数の文脈で近代化してきた。1927年の美術工芸部門新設は、工芸を絵画・彫刻と並ぶ鑑賞の対象として見る動きを強めた。その新しい舞台で山鹿が受賞したことは、本人のキャリアだけでなく、染織そのものの位置づけを考える上でも象徴的だった。
1958年、東京タワーとロケットを織る
山鹿の仕事が現在の目で最も鮮烈に映るのが、戦後の作品群である。京都市美術館の所蔵記録には、1958年制作の《手織錦壁掛 東京タワー》と《手織錦壁掛 星座・月・ロケット》が残る。《星座・月・ロケット》は高さ3メートルを超える大作で、今回の展覧会のメインビジュアルにも選ばれた。[3][1]
1958年は東京タワーが完成した年でもある。戦後日本が復興から高度経済成長へ入り、科学技術、通信、宇宙開発、都市の垂直化が未来の象徴になった時代だった。山鹿は、その「新しさ」を金属や写真ではなく、糸の重なりで受け止めた。
ロケットも同様である。美術館は、官展や日展への出品作に、機関車、ロケット、東京タワーといったモチーフが登場すると説明する。一方、祭礼の懸装品では天女や雲龍など伝統的な主題を使った。山鹿の作品世界では、近代技術と古典意匠が同じ作家の中で矛盾せず共存している。[1]
なぜ「ロケット」が染織になるのか
織物は時間のかかる媒体だ。一本ずつ糸を組み合わせ、色面を積み上げる。その遅い制作方法で、速度の象徴である機関車やロケットを描くことには独特の緊張がある。
絵画なら筆で線を引ける。写真なら一瞬を切り取れる。織物は、形を糸へ翻訳しなければならない。金属の硬さ、ロケットの上昇、夜空の光、鉄塔の直線を、柔らかな繊維でどう表すか。山鹿の近代的モチーフは、単に「珍しい題材」だったのではなく、染織という媒体がどこまで現代世界を描けるかという実験でもあった。
祭礼の「動く美術館」にも残る
山鹿は美術館に収まる壁掛だけを作ったわけではない。祇園祭や長浜曳山祭の懸装品を数多く手がけた。京都市京セラ美術館は、昭和期に再興・更新された山鉾の装飾で山鹿が中心的な作家の一人だったとし、「昭和の鉾」を彩る作品群を紹介している。[1]
祭礼の染織は、展示ケースの中で保護される作品とは条件が違う。町中を動き、人に見上げられ、太陽や風の中に置かれる。しかも山や鉾の物語、町の歴史、奉納の意味を背負う。山鹿はここでは奇抜さだけを追うのではなく、祭礼の由来を象徴する主題を手織錦へ落とし込んだ。
京都の祇園祭が「動く美術館」と呼ばれるように、懸装品は町の信仰と美術が一体になったものだ。山鹿の仕事は、工芸が「鑑賞用」になっていく近代の流れと、今も使われ続ける祭礼工芸の両方にまたがっている。
建築家・村野藤吾と組み、染織を空間へ
山鹿はさらに、染織を壁掛や祭礼布から室内空間へ広げた。美術館によると、昭和を代表する建築家・村野藤吾と協働し、都ホテルなどの室内装飾を手がけたほか、大型客船「ぶらじる丸」などの空間にも関わった。現存しない仕事も多く、今回の展覧会では資料を通してその全体像を追う。[1]
これは現代でいう「空間デザイン」に近い。建築、家具、照明、織物を別々のものとしてではなく、一つの場所の印象をつくる要素として扱う。山鹿は、染織を壁に掛ける美術から、建築の中に組み込む総合芸術へ広げていた。
近代琳派の神坂雪佳から学んだもの
山鹿の師・神坂雪佳は、琳派の装飾的構成を近代の図案、工芸、出版へ翻訳した人物だった。山鹿は1910年に雪佳に師事し、その主宰する佳都美会で図案や日本画、織物を発表した。[1]
今回の展覧会は、山鹿の初期作と師たちの作品を並べ、写生力や図案構成の原点を見せる。美術館は山鹿の「圧倒的なスケッチ力」にも注目する。ロケットや東京タワーという奇抜な題材だけを見れば、山鹿は未来志向の異端に見える。しかし、その表現を支えていたのは、植物、動物、人物、器物を観察し、形を整理して図案へ変換する基礎だった。[1]
1929年のアジア視察と、拡大する視野
美術館は、1929年のアジア視察でのスケッチを、山鹿の後の作品世界を考える重要な原点の一つとして挙げる。海外や異文化への視線は、山鹿にとって単なる異国趣味ではなく、モチーフと図案を広げる方法だった。[1]
《和蘭陀船》のような船、後の列車、ロケット、東京タワーまで、山鹿の画面には「移動」「速度」「遠くを見る」という感覚が繰り返し現れる。展覧会名の「宙翔ぶイマジネーション」は、その傾向を端的に示している。
「染織美術」というジャンルを押し広げる
山鹿が活動した時代、染織は衣服、帯、祭礼装飾、室内装飾など「用途」と強く結びついていた。山鹿はその用途を否定せず、同時に、壁掛のように鑑賞すること自体が目的となる作品を制作した。
京都市京セラ美術館の関連講演会は、山鹿の仕事を「『用の美』から、鑑賞の対象としての芸術作品へと引き上げた」と紹介する。これは美術館側の評価であり、美術史上の位置づけには研究者による議論があり得る。しかし、山鹿が官展・日展、祭礼、ホテル、客船と複数の制度と空間を横断したことは事実である。[4]
- 図案:西陣の図案と日本画から出発。
- 手織錦:構想から織りまでを作家自身が一貫制作。
- 官展・日展:《和蘭陀船》《東京タワー》《星座・月・ロケット》などを発表。
- 祭礼:祇園祭、長浜曳山祭の懸装品を制作。
- 空間装飾:都ホテルや大型客船の室内装飾へ展開。
1969年、文化功労者に
山鹿は作品制作だけでなく、工芸の発展と後進育成にも取り組んだ。美術館の略歴によると、1969年に文化功労者に選ばれている。1981年に死去。国立国会図書館の典拠も1885年生まれ、1981年没としている。[1][2]
それほどの評価を受けた作家でありながら、現在は広く知られているとは言いにくい。京都市京セラ美術館自身が、1985年の「近代染織の創始者:山鹿清華」展以来、その仕事を総覧する機会はほとんどなく、多くの現代の鑑賞者にとって「未知の作家」かもしれないと記している。[1]
なぜ40年ぶりの回顧展が今なのか
2026年に山鹿を見る意味は、単なる再評価にとどまらない。工芸と美術、伝統と現代、手仕事と工業技術、地域文化と国際性という区分が、現代のデザインやアートでも改めて揺れているからだ。
山鹿は、その境界を昭和の早い段階から横断していた。伝統祭礼の布を作りながらロケットを織り、琳派を学びながら東京タワーを主題にし、西陣の技術を背景にしながらホテルや客船の空間を設計した。現在の言葉で「クロスディシプリナリー」と呼ぶような仕事を、染織家として続けていた。
ただし、現代的に見えるからといって、山鹿を現在のデザイナー像へ単純に置き換えるのも危険だ。彼が生きたのは明治、大正、昭和であり、帝展、日展、祭礼、戦前・戦後の社会制度の中で制作した。今回の展覧会の価値は、山鹿を「今っぽい作家」として消費するのではなく、その時代の制度と素材の中で何を変えたかを見せることにある。
《星座・月・ロケット》は未来を織ったのか
1958年の《星座・月・ロケット》を、単純な「宇宙時代への礼賛」と断定することはできない。美術館資料は、山鹿の作品群が戦前の世相から戦後の平和運動までを色濃く反映すると説明しているが、個々の作品の政治的・思想的意味を一義的に決めてはいない。[1]
だからこそ、作品そのものを見る意味がある。月、星座、ロケットを、絵具ではなく糸で組み立てた1958年の画面。そこには、戦争を経た日本が科学技術と宇宙へ視線を向け始めた時代の空気と、京都の染織技術が同じ平面に存在する。
山鹿清華の面白さは、「伝統を守った人」でも「伝統を壊した人」でも説明しきれないところにある。彼は伝統の技法を使って、その時代で最も新しいものを織った。
40年ぶりに、糸の中の昭和を見る
展覧会は12月20日まで京都市京セラ美術館本館南回廊1階で開催され、その後2027年2月20日から4月11日まで東京ステーションギャラリーへ巡回する予定だ。[1]
今回の回顧展で見えてくるのは、ロケットや東京タワーの奇抜さだけではない。図案家としての基礎、神坂雪佳から受け継いだ構成感覚、祭礼への関与、建築空間への展開、後進育成まで、一人の染織家がどれほど広い領域を動いたかである。
山鹿が「手織錦」と名づけた仕事は、一本一本の糸を重ねる非常に遅い制作だった。しかし、主題は常に時代の速度を追っていた。機関車、東京タワー、ロケット――昭和の「新しいもの」を、京都の手仕事が受け止めた。その交差点こそ、40年ぶりの回顧展が現代に見せる最も新鮮な景色かもしれない。
