3 h実験での最大水中活動時間
~2 minスーツを着けない個体の活動停止
~6 g潜水スーツと制御装置の合計
2026.6.29原著論文の公開日

水の向こう側へ進む、小さな探索者

災害現場で最後まで人の立ち入りを阻むのは、巨大ながれきだけではない。水が流れ込んだ配管、半分水没した空洞、足場が崩れかけた狭い通路。人が入れず、一般的なロボットも入りづらい場所が、救助の手掛かりを隠してしまう。そこへ向かわせようという研究が、生きた昆虫に小さな「潜水スーツ」を着せる方法だ。

早稲田大学とシンガポール南洋理工大学(NTU Singapore)の共同研究グループが、マダガスカルオオゴキブリを用いた水陸両用サイボーグ昆虫を開発した。柔軟な防水シェルと小型の酸素発生装置によって、実験では水中で最大3時間にわたり活動を続けた。6月29日に国際学術誌「Nature Communications」で公開された成果が、10月13日に科学技術振興機構のScience Japanでも紹介された。10月に新たに論文が発表されたという意味ではない。

3時間を可能にしたのは電池ではなく「呼吸」

今回の主役は、一見すると電子回路の付いたゴキブリだ。しかし、研究が乗り越えようとした最大の制約は、電子機器の防水だけではない。陸生昆虫は体の側面にある気門から空気を取り込み、気管を通して体内へ酸素を運ぶ。水中では、この呼吸の仕組みが維持できない。

研究グループは昆虫の腹部を柔らかな防水シェルで覆い、胸部の気門へ酸素を届けるチューブを接続した。背中の小型タンク内では、過酸化水素が二酸化マンガンの触媒作用で分解され、酸素と水が生じる。発生した酸素は昆虫へ供給され、液体は装置内に閉じ込める構造とした。大型の圧縮ガスボンベではなく、必要な酸素を現場で発生させる方式だ。

2分から3時間へ――数字が示すもの

早稲田大学によると、スーツを着けない実験個体は水中で約2分後に活動を停止した。一方、装着した個体は最大3時間、水中で移動を継続した。論文には酸素濃度の経時測定や発生装置の構造、液漏れに関する試験も記載されている。

ただし「3時間」は研究条件の下で達成された最大値であり、濁った洪水、強い水流、泥、鋭利ながれきの中で3時間の任務を保証する数字ではない。また、ここでいう水陸両用は陸上と水中の両方を移動できるという意味で、昆虫が本来水中呼吸できるように進化したわけではない。

生体の脚を使うという発想

機械式の小型ロボットは、モーター、駆動機構、電池を積み込むほど重くなる。一方、サイボーグ昆虫は生きた昆虫が備える脚、関節、筋肉、地形への反応を使う。電気刺激は進行方向を誘導するために利用し、歩行そのものの大部分は生物の能力に任せる。

Science Japanの紹介では、装備できる総重量の目安は約15グラムで、今回の潜水スーツと制御装置は合計約6グラムと説明されている。追加のセンサーなどを載せる余地があるというが、余剰重量がすべて実用的な計測機器へ直結するわけではない。防水、通信、消費電力、配置、回収という課題が残る。

2022年の「太陽電池ゴキブリ」から積み重ねたもの

この研究は突然現れた奇抜な発明ではない。2022年には理化学研究所、早稲田大学、シンガポール南洋理工大学などが、マダガスカルゴキブリに厚さ4マイクロメートルの有機太陽電池を装着し、充電と無線移動制御を実証した。電子回路を背負わせても、昆虫の腹部の柔らかな動きを妨げない設計が重要だった。

2025年には関連研究が群れの誘導制御へ進んだ。同年、NTUは電子制御用の小型バックパックを自動装着する試作装置も紹介した。水中での酸素供給は、長時間動かす、複数を連携させる、量産的に準備するという一連の研究に、「浸水した空間を越える」機能を加えるものだ。

ミャンマー地震で使われたのは、今回の潜水型ではない

2025年3月のミャンマー地震では、シンガポール民間防衛隊の救援活動に、先行世代のサイボーグ昆虫が持ち込まれたとNTUは説明している。研究室の技術が実際の災害支援に接近してきたことを示す経験だ。

しかし、この実績を今回の潜水スーツの現場投入と混同してはならない。水陸両用型そのものについて、実際の洪水現場で被災者を発見した、あるいは救命に成功したとの確認はない。研究の実用性は、現場を模した試験だけでなく、救援隊員が扱える操作系、信号の届き方、結果を読み取るセンサーまで含めて評価する必要がある。

水の中では無線も難しい

昆虫に電気刺激で指示を送れても、水中から得られる情報をどう外部に伝えるかは別の問題だ。水、とりわけ導電性の高い水は無線通信の条件を変える。小さなカメラやガスセンサーを載せるなら、通信方法、照明、データ品質、位置推定の実装が不可欠になる。

研究の魅力は、地震や豪雨後に生じる複雑な空間を探索できる可能性にある。ただし水流で押し流される状況、泥による目詰まり、深い水圧、低温、化学物質への曝露、長期的な装置の耐久性など、実環境ならではの障壁はなお多い。

小さな命を「装置」にする倫理

生きた昆虫を道具として扱うことにも、避けて通れない問いがある。装着器具の負担、電気刺激による影響、実験後の飼育、野外での逸出や回収をどう考えるか。脊椎動物とは異なる制度的な扱いであっても、研究の社会的説明責任がなくなるわけではない。

科学的な有望性と倫理的な適切さは、別々に検討すべき問題だ。安全のために人を危険な場所へ送り込まずに済む未来と、生き物に課す負担をできる限り少なくする設計は、両立を目指す必要がある。

「すごいゴキブリ」で終わらせない

日常では敬遠されがちな昆虫が、人命救助の道具として注目を集める。その意外さは世界の読者を引きつけるだろう。しかし技術の価値を測る問いは地味だ。測りたいものを正確に測れるか。迷わず戻れるか。必要な数を準備できるか。過酷な場所で安定して働けるか。

研究が達成したのは、生きた陸生昆虫の移動能力を保ちながら、水中で酸素を供給するという明確な工学的前進である。災害救助で使えるようになったという最終結論ではない。その距離を正しく伝えることこそ、3時間という驚きの数字を本当のニュースにする。

出典・参考資料

  1. 早稲田大学:酸素供給スーツで3時間潜水するサイボーグ昆虫を実現(2026年6月)
  2. Nature Communications:原著論文(2026年6月29日)
  3. 科学技術振興機構 Science Japan(2026年10月13日)
  4. 理化学研究所:再充電可能なサイボーグ昆虫(2022年9月)
  5. NTU Singapore:サイボーグ昆虫の自動装着技術(2025年7月)
  6. NTU Singapore:群れの制御研究(2025年1月)
  7. 早稲田大学 梅津研究室:Cyborg Insects

2026年10月13日までに確認できた資料を基に執筆。今回の技術は研究段階であり、救助での実用化を示すものではありません。