貞秀が見せたのは、新しい港の姿だけではない。世界とつながる道筋そのものだった。
海の向こうに、新しい都市が生まれる
港の沖に外国船が停泊し、海岸には新しい町並みが広がる。手前には東海道の神奈川宿、遠景には房総半島と富士山。五雲亭貞秀(ごうんてい・さだひで)の《御開港横浜之全図》は、横浜が国際貿易港として歩み始めた瞬間を、約190センチに及ぶ横長の紙面へ収めた。単なる名所案内ではない。土地の位置関係、商いの舞台、外国との距離感を、見る人が一度に理解できるようにした視覚的な報告である。
1859年7月1日、横浜港の開港
横浜開港資料館によれば、横浜の開港日は1859年7月1日(旧暦安政6年6月2日)。日米修好通商条約では当初7月4日が予定されていたが、日露条約で7月1日とされ、実施日となった。条約に記された開港場「神奈川」と、実際に整備された横浜の位置には外交上の争点もあった。現在の横浜が当然のように港になると決まっていたわけではない。
大きな八枚をつないだ、早い時期の都市図
スミソニアン国立アジア美術館所蔵の1859年版《御開港横浜之全図》(S1998.58a-h)は約69.5×191.1センチ。フィラデルフィア美術館は八枚の大型木版を組み合わせた作品と説明する。神奈川県立歴史博物館所蔵の別例は1860年ごろ、横浜美術館所蔵品も1860年ごろとする。つまり「1860年の一枚」と言い切るより、初期版や異なる刷りがあると理解するのが正確だ。
子安村からの眺望を絵師が選んだ理由
貞秀自身が記した説明には、神奈川の海岸側、子安村からの眺望を写したという趣旨の文言がある。そこに描かれるのは日常の人間の視線をはるかに超える鳥瞰(ちょうかん)図だ。外国人居留地と日本人の町をひとつの画面で示し、東海道の道筋や海上交通も一望させる。「実際の風景」を標榜しながら地上からは見えない全体像を描く。その緊張関係が、この作品の面白さである。
「横浜絵」は、新しいものを見るためのメディアだった
横浜開港資料館は、横浜浮世絵を開港後の街並み、外国人、舶来の文物などを描いた錦絵と位置づけ、出版が1860~61年ごろに集中したと説明する。現在なら海外ニュースや街の最新情報を画像付きで届ける媒体に近い役割を担った。しかし横浜絵は写真ではない。版元が売れる主題を選び、絵師が構図を整え、彫師と摺師が作品を仕上げた商品である。新奇さを伝える力と、誇張される可能性をあわせ持っていた。
歌川派から「空を飛ぶ絵師」へ
貞秀は1807年生まれ。歌川国貞、のちの三代歌川豊国の門人として美人画、武者絵、風景画、絵地図など広い領域で活動した。横浜開港資料館は横浜を扱う作品が100点を超えると記す。五雲亭、玉蘭斎、橋本玉蘭斎など複数の号を使い、鳥瞰による一覧図に強みを示した。現地を踏まえつつ、地理を読ませるため大胆に視点を高くする。その方法が、変化の速い港町とよく合った。
生糸を運んだ道の先に世界市場
港の開設だけで、瞬く間に貿易都市が完成したわけではない。横浜開港資料館による調査では、開港後の生糸輸出が急増し、やがて蚕種や茶も主要輸出品となった。日本の生糸を扱う商人、外国商館、運搬する人々を結ぶ道は、絵の中の道路や船着場を現実の経済活動と結びつける。日本から海外へ何が売られ、利益や交渉力が誰に集まったかまで考えれば、港の絵は経済史の入口となる。
目をこらすと、町は均一ではない
スミソニアンの解説では画面中央に新しい横浜の町があり、左側の大きな建物が外国人の居住区域、右側が日本人の居住区域にあたる。前景の神奈川宿から東海道が江戸へ続く。近代化の一枚絵として眺めるだけでは、居留地の区画、条約の制度、生活や言葉の違いが見えなくなる。地図の細部は、開港が同時に接触と境界を作ったことも語る。
記録として読むときの、二つの注意
画面に多くの建物が描かれていても、その全てが同時に建っていた証明にはならない。別作品《神名川横浜新開港図》について国文学研究資料館所蔵の解説は、町の景観に似合う桜を運び込む植木屋まで描かれたと紹介する。貞秀は観察者であり、編集者でもあった。また《御開港横浜之全図》は所蔵先ごとに年代や寸法が異なる。版の同定と、一場面の描写を史実として扱うための裏付けは欠かせない。
作者の没年はなぜ資料によって異なるのか
生年1807年は概ね一致するが、没年には資料の相違が残る。スミソニアンやカーネギー美術館は1873年、横浜美術館や千葉市美術館は1878年、大分県立美術館は「1879年?」と記す。この記事ではいずれかを確定した事実として採用しない。版画の著作権判断にかかわる場合でも、いずれの年代でも十分に保護期間を経過している。美術史の不確実さを隠さないことは作品への敬意でもある。
原画はパブリックドメイン、画像利用は所蔵館の条件も確認
カーネギー美術館は同作の著作権をPublic Domainと明記し、スミソニアンのアーカイブ掲載例にはCC0との表示がある。ただし同じスミソニアンの現行検索ページには「Usage Conditions Apply」とも記される。古い版画そのものに著作権が残っていないことと、各館から取得した画像ファイルの利用案内は区別する必要がある。本記事のメイン画像は実物の複製ではなく、貞秀の鳥瞰表現に着想を得たAI生成イラストである。実物は所蔵館のリンクから確認できる。
世界が変わる瞬間に、何を描くか
横浜は地図にあった港ではなく、港を必要とする世界のなかで姿を変えた町だった。貞秀はその変化を、遠くを見渡しながら細部まで読む絵に変えた。船だけが主役ではない。道を行く人、岸辺の建物、町の配置もまた時代のニュースだ。誇張や省略に注意しながら見るなら、《御開港横浜之全図》は約166年前の社会が新しい国際関係をどのように見て、売り、記憶したかを伝えてくれる。
出典・作品情報
歴史資料と所蔵館の解説を照合。所蔵版ごとに年記・寸法・利用条件が異なる。絵師への独自取材は不可能であり、現存作品を通じた歴史分析である。
