「60時間」を値札にどう載せるか
一着の服に、60時間。週5日勤務なら、およそ1週間半に相当する。東京で「TMMY」を手がける松田朋也が向き合うのは、手仕事に費やす時間をどう価格に反映し、どう事業として続けるかという問いだ。刺し子の美しさだけを語っていては、この問題にはたどり着かない。
松田氏は10月23日付のJAPAN.co.jpへの書面回答で、時間のかかる刺し子作品を安売りするつもりはないとした一方、こうした制作だけで事業全体を支えるのは難しく、ほかの企画やコレクションとの両立が必要だと説明した。売れた数量や利益率を公表したわけではない。そこにあるのは、完成した経営モデルの成功談ではなく、ものづくりを生業にする人の率直な葛藤である。
大量に、速く、安く。それとは別の時間が流れる服を、誰が、どのような理由で買うのか。さらに、その服は本当に長く着られるのか。松田氏の歩みは、「スローファッション」という耳当たりのよい言葉の内側にある経済の現実を映している。
先に学んだのは「作ること」ではなく「伝えること」だった
公式サイトによると、松田氏は慶應義塾大学商学部と文化服装学院Ⅱ部服装科を卒業した後、クリエイティブエージェンシーで広報・コミュニケーション業務に携わった。2025年にTMMYを本格始動。デザイン、型紙づくり、縫製、刺し子、染色を一貫して自ら担うという。
書面取材では、もともと自分の手で何かを作り、生計を立てたいと考えていたと明かした。ただ、まずは製品を社会に伝える仕事を経験したかった。仕事を通して、国内の産地や職人の活動を重視するブランド、環境問題への姿勢を貫くブランドの制作現場に接し、進む方向がはっきりしていった。勤め先の社長も、その独立を理解し後押ししたという。
完成品を買う側には、布の選別や縫い直しに費やした時間は見えにくい。なぜこの素材を使い、この価格になるのか。それを説明できることは、ひとりで服を作る事業にとって、縫製技術と同じくらい重要な力になる。

価格は一着ごとに違う。商いも一つではない
TMMYの公式オンラインストアを開くと、Tシャツや通常のシャツに交じって、手間のかかる刺し子の衣服が並ぶ。公開価格の例では、刺し子コットンシャツが4万4000円、刺し子ウールジャケットが29万7000円。刺し子デニムジャケットなどには個別見積もりの表示がある。いずれも掲載価格であり、販売数量や利益を示す数字ではない。
価格帯の異なる品を組み合わせることには意味がある。身近な製品を通じてブランドを知る客がいる一方、何十時間も要する品に価値を見いだす客もいる。制作にかかる時間も、接客や受注の方法も違う。すべての製品を同じ採算式で考えることはできない。
仮に労働時間だけを1時間2000円と置けば、60時間で12万円になる。これは計算上の例であり、松田氏の実際の賃金や原価、販売価格を表すものではない。材料費、設備、送料、販促なども別に必要だ。手縫いの一着が高価になりやすい理由は、この単純な掛け算からも見えてくる。
刺し子は、もともと暮らしを支える技術だった
刺し子を藍色の生地に浮かぶ白い幾何学模様として眺めるだけでは、その背景が抜け落ちる。東北の寒冷地では木綿の入手が容易ではなく、麻布の衣服に糸を刺して補強し、保温性を高める暮らしの工夫が育まれた。青森県の津軽こぎん刺しと南部菱刺しは、刺し目の数え方や文様の作り方に地域ごとの特色を持つ。
2026年3月24日、国は「津軽・南部の刺し子技術」を記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択した。資料は、技術や意匠の変化が進むなかで継承が懸念され、記録が急務であることを指摘している。厳しい生活の中で女性たちが積み重ねた仕事は、いまや保存の対象にもなっている。
ただし、TMMYの刺し子を津軽こぎん刺しや南部菱刺しの特定技法と同一視することはできない。松田氏が重視するのは、布を無駄にせず使い切るという考え方と、手を動かすことが生む価値を現代の服に生かすことだ。

伝統の形を守るだけでは、伝統を守れない
今回の取材で印象的なのは、松田氏が「伝統をそのまま残す」ことを無条件に善と考えていない点だ。文化や技法は、ある時代の生活や必要から生まれ、変化を繰り返して今に至る。かつての意味が薄れた後も形だけを固定してよいのか。氏は、その根本にある理由や役割を問い直す必要があると説く。
直線裁断を基本とする伝統的な和服づくりは、端切れを抑えやすい。しかし、現代の洋服に求める立体的なシルエットをすべて実現できるとは限らない。松田氏は、その制約を受け入れて形を限定するのではなく、裁断で生じる端切れを次の作品へ生かす道を選んだという。
何を残し、何を変えるか。この判断は古い技術を軽んじることとは違う。過去の実用品から着想を得て、今の暮らしで使い続けられる衣服を作る。その試みに、松田氏なりの伝統への敬意がある。
遠州の機音――1928年創業、古橋織布との出会い
松田氏が具体的に名前を挙げた生地の供給元が、静岡県浜松市の古橋織布有限会社だ。遠州の織物産地に根を張る同社は1928年創業。旧式のシャトル織機を使い、綿を中心に天然素材の風合いを生かした織物を製造する。経済産業省の「次代を担う繊維産業企業100選」にも掲載されている。
松田氏によると、工場では約20台の古いシャトル織機が使われ、1965~74年製の機械もあるという。台数や機械ごとの製造年は今回の本人回答に基づく情報で、工場の公式公開資料による独立した確認には至っていない。初めて同社の生地に触れたときの驚きが、日本の繊維産地への関心をさらに深めたと語る。
国内の小規模メーカーと独立デザイナーの関係を、単なる調達先と取引先では片づけられない。産地の技術と独自の設計が結びつけば、標準化された布では作りにくい表情が生まれる。ただし、それがそのまま優れた環境性能や高い収益性を保証するわけではない。

端切れは全部取っておく。それでも数字はまだない
服を裁断すれば、布の端が残る。松田氏は自らの制作で生じた端切れを捨てず、保管しているという。新しい布から服を作る期間と、残った布を使って作品を作る期間を交互に設ける。素材が足りない場合には、産地の工場から廃棄前の残布を入手することもある。
一方、回収した布の重量や長さは現在集計していないと明言する。したがって「何%の廃棄削減」「何トンのCO₂削減」といった数字をTMMYの成果として示すことはできない。作り手の実感と、測定による環境評価は分けて考えるべきだ。
環境省の2024年推計では、国内の衣類供給と使用後の排出は大きな規模に達する。ただし、国全体で家庭から手放される衣類の統計と、TMMYの裁断端材の再利用は別の流れである。数字を混ぜて効果を大きく見せる必要はない。むしろ「まだ測っていない」と話す姿勢が、報道の出発点になる。
作り手がひとりであることの強みと限界
設計から縫製まで一貫して担当すれば、服の細部を自分で判断できる。その一方で、手を動かせる時間には上限がある。注文が増えれば、生産を外部へ委ねるか、工程を変えるか、価格を見直すかという選択を迫られる。少量生産の独自性と事業の拡大は、必ずしも同じ方向を向かない。
松田氏は、60時間かかる刺し子を安値で広く売ることや、注目を集めるためだけに宣伝することには慎重だ。価値を一着ずつ丁寧に伝え、理解する人へ届けたいという。製品群全体の収益で支える考えは示したが、現在の売上高、粗利益、固定費、販売点数は明らかではない。
ゆえに、この事業をすでに「採算が合う成功例」と断定することは避けたい。長く続けるための条件を模索する、その過程にこそ取材の意味がある。

作り手の写真は、装飾ではなく取材資料である
本稿では、TMMYから提供された6点の写真を掲載した。作品の素材感や仕立てを知るには、イメージだけを美しく描いた創作画より、実物を撮影した資料の方が大きな力を持つ。写真は提供者の協力の下で掲載するものであり、ここに写る品がすべて「60時間の作品」だと確認したわけではない。
松田氏は書面取材で、制作工程、材料、完成品の写真を本稿に適切なクレジット付きで掲載することを了承している。今回の6点には「写真提供:TMMY」と記した。実際に本人がどの写真に写るか、衣服の型番や撮影場所など個別のキャプション情報は、確認できた範囲を超えて付け加えなかった。
この独自取材では、制作の実像を伝えるため、TMMYから提供された作品写真を使用した。写真に写る個々の製品や制作工程について、確認できない情報は付け加えていない。
着る時間まで含めて、服の価値を考える
良質な生地を使い、手間をかければ、その服は必ず長く着られるだろうか。答えは単純ではない。丈夫さ、サイズ直しのしやすさ、洗濯の手間、着用頻度、着る人の好み。服の寿命を決める要因はいくつもある。TMMYが掲げる「衣服の寿命を伸ばしたい」という理念の成果は、購入後の年月の中で試される。
ただ、消費者が一着の背景を知ることには意味がある。どの産地で織られ、誰が裁ち、どのような時間をかけて仕立てられたのか。それを理解した服なら、古くなったときにすぐ手放す以外の選択が生まれるかもしれない。そうした期待と実証済みの効果は区別しなければならない。
松田氏が突きつける問いは、服を安く大量に作る仕組みへの単純な反発ではない。60時間の仕事を60時間として認め、作る人も買う人も無理なく付き合える形を探せるか。服の値段ではなく、服と過ごす時間から経済を考え直す試みである。

TMMYの作品と制作――提供写真6点
TMMYから提供された写真を一覧で紹介する。写真は作品と制作の実際を示す資料として掲載し、個別のモデル名・制作時間・場所を推測していない。






出典・取材方法
本人から2026年10月23日に受領した書面回答を一次資料とし、氏名・経歴・商品価格、織物産地と刺し子史、繊維循環政策を公開一次資料で照合した。引用可能な未公開の売上・環境数値は存在しないため、記事内では推計していない。