2026年11月4日共同研究発表
2つの法則仕事とエントロピー
iMATE熱平衡の新しい定義
閉じた量子多体系証明の対象
本記事は査読付き原著論文と研究機関の日本語発表に基づく文書取材。新たな実験を報告した研究ではない。研究者への独自インタビューは実施していない。

こぼれた砂は、なぜ砂時計の上に戻らないのか

砂時計を逆さまにすれば、砂は下へ流れる。だが、落ちた粒が自然に上へ集まり、もとの状態に戻る光景を、私たちは見たことがない。温かいコーヒーは冷め、混ざった気体は広がり、砕けたガラスはひとりでに組み上がらない。現象ごとに仕組みは異なっても、そこには一方向への変化を示す共通の経験がある。

この方向性を科学の言葉で記述するのが熱力学第二法則だ。ところが、物質の極めて小さな世界を支配する量子力学の基本方程式は、原理的には可逆な時間発展を許す。ミクロでは戻れるはずなのに、マクロでは戻らない。この二つの記述が、なぜ同じ物質について矛盾せず成り立つのか。物理学に長く残る問いである。

理化学研究所、東京大学、大阪大学の研究者らは2026年11月4日、この問題に重要な理論的進展を示したと発表した。査読付き学術誌『PRX Quantum』に掲載された論文は、熱平衡と操作を量子力学の中で定義し直し、特定の現実的条件のもとでエントロピーが減少しないことを数学的に示した。研究成果は大きい。しかし、時間そのものの起源を解明したと断定するのは正確ではない。

発表の中心にいる4人――理研と東京大学を結ぶ理論研究

論文の著者は千葉侑哉氏(Yuuya Chiba)、米田靖史氏(Yasushi Yoneta)、濱崎立資氏(Ryusuke Hamazaki)、清水明氏(Akira Shimizu)の4人。理研の濱崎非平衡量子統計力学理研白眉研究チーム、量子コンピュータ研究センター、東京大学大学院理学系研究科附属フォトンサイエンス研究機構、大阪大学量子情報・量子生命研究センターに関係する共同研究である。氏名の読みは理研の日本語発表に従った。

論文名は『Second Law of Thermodynamics in Closed Quantum Many-Body Systems』。米国物理学会の『PRX Quantum』第7巻、論文番号043023として11月3日(米国側の刊行日、日本時間では11月4日)に公開された。DOIは10.1103/3y8f-yrp8。数式に基づく理論論文であり、量子装置による新たな実験を報告したものではない。

プレスリリースの見出しは『エントロピー増大則を量子力学から証明』。ただし、数学的に示した範囲を理解するには、そもそも研究者が何を『熱平衡』と呼び、何を『操作』として許したのかをたどる必要がある。そこに今回の独創性がある。

熱の流れを支えた19世紀の法則

熱力学が発展した19世紀、蒸気機関の性能を考えることは、熱をどこまで仕事に変えられるかという問いでもあった。カルノーの熱機関の研究を経て、クラウジウスやケルヴィンは熱の移動と仕事の限界を法則として明確にした。エントロピーという概念は、その議論を数量化するために導入された。

ボルツマンらによる統計力学は、粒子の膨大な配列を数える考え方でマクロな不可逆性を説明しようとした。整った状態より、同じ大きな条件を満たす無数の微視的な状態の方が圧倒的に多い。状態数とエントロピーを結び付ける発想は、物理学の世界像を大きく変えた。

20世紀に量子力学が成立すると、問いはさらに深まった。量子状態の時間発展は、外部と切り離した閉じた系ではユニタリ演算として記述される。そこで使われる『可逆』という数学的な性質と、私たちが日常で経験する『不可逆』な熱的変化をどう整合させるかが、新しい理論の課題となった。

純粋量子状態が熱平衡を表すという難しさ

熱平衡という言葉から、粒子がでたらめに混ざった確率的な状態を連想するかもしれない。しかし近年の量子多体系研究は、全系が『純粋量子状態』であっても、エネルギーや磁化などのマクロな測定では熱平衡と見分けられない場合があることを示してきた。

ここで意外な衝突が起こる。純粋状態のフォン・ノイマンエントロピーはゼロだが、熱平衡を表す物質の熱力学エントロピーは一般にゼロではない。また、数学的に許される任意のユニタリ操作をすべて使えると考えると、純粋状態を別の純粋状態へ移し、平衡状態から仕事を取り出すような操作まで想定できてしまう。

従来からよく知られた熱平衡の安定性と、量子力学が認める操作の自由度が食い違う。論文の問いは『量子力学が第二法則に反するのか』ではなく、『熱力学の条件を量子力学でどう適切に表すか』である。

鍵は「何でも操作できる」と考えないこと

研究チームが目を向けたのは、物理的な操作の意味だ。熱力学で外部から変えられるのは、ピストンの位置、磁場、体積といった少数の巨視的な制御変数である。これに対し、数学上のユニタリ操作には、膨大な粒子やスピンを一つひとつ望む通りに操るような、通常の熱力学からはかけ離れた操作も含まれる。

そこで研究者らは、エネルギーや全磁化など、各部分の寄与を足し合わせた『相加物理量』に注目した。全ての相加物理量のマクロな値が平衡値と一致する状態を、iMATE(infinite-observable macroscopic thermal equilibrium)と定義した。純粋量子状態でもこの条件を満たすことができる。

操作については、有限個の外部制御変数が相加物理量に作用する形の時間発展を『マクロ操作』と呼ぶ。言い換えれば、量子力学の数式上で実行可能なあらゆる魔法を認めるのではなく、私たちが熱力学的操作として意味を認める範囲を物理的に定めたのである。

取り出せない仕事――プランクの原理をどう証明したか

最初に示したのは『プランクの原理』に対応する結論だ。熱平衡から出発し、外部の制御変数を最終的に元へ戻す循環的な断熱操作を加えても、系のエネルギーをマクロに無視できないほど減らすことはできない。閉じた系でこのエネルギー減少は外部に取り出す仕事に対応する。

今回の定理は、iMATEを表す任意の量子状態について、許されたマクロ操作ならば巨視的な量の仕事を取り出せないことを保証する。全系が純粋状態であっても、である。この点が、任意のユニタリ操作を許すと仕事の抽出が可能になるという見かけの矛盾を整理する。

ただし『物理的な装置から一切の仕事を取り出せない』という主張ではない。温度差や化学反応など、非平衡にある資源から仕事を得る機械は実際に存在する。ここで論じられるのは、特定の熱平衡状態から始め、規定の循環マクロ操作を行う場合の限界である。

エントロピーは何を測るのか――新しい「量子マクロエントロピー密度」

第二の成果には、量を測る物差しそのものの組み替えが必要だった。全系が純粋状態ならフォン・ノイマンエントロピーはゼロのままになる。これを熱力学的なエントロピー増大の物差しとして直接使うと、現実の平衡状態との対応が見えにくい。

研究チームは、一定の大きさの領域の量子状態を空間的に平均して得られる状態を用い、『量子マクロエントロピー密度』を定義した。iMATEを満たす状態であれば、純粋状態を含めて、熱力学エントロピー密度と一致するという。

そのうえで、平衡状態からマクロ操作を施し、外部制御変数を固定した後の緩和過程を考える。物理的に自然な条件のもとで、このエントロピー密度が減少しないことを証明した。仕事が取り出せないという命題と、エントロピーが減らないという命題は、量子力学的には同じ内容ではない。論文は両者を別々に扱い、それぞれを導いている。

「時間の矢」をどこまで説明したのか

ここで問いを大きくしすぎてはならない。第二法則は、私たちが日常に経験する不可逆性を語る中心的な法則であり、エントロピー増大は『時間の矢』と密接に関わる。しかし本研究は、宇宙の初期条件、なぜ過去のエントロピーが低かったのか、人間の記憶がなぜ過去に向くのかといった問題を一挙に解いたものではない。

論文が対象にしたのは、閉じた量子多体系における熱平衡状態からの特定の断熱操作と緩和過程だ。長い宇宙史の全体ではなく、有限の操作とその結果を記述する理論である。しかも、数学上の全てのユニタリ操作でエントロピーが減らないと証明したわけでもない。

大きな成果は、ミクロな可逆法則とマクロな不可逆法則の間に、何を観測し何を制御できるかという物理的な橋を架けたことにある。その意味を尊重するなら、派手な『時の謎を完全解明』という見出しより、二つの法則をつないだ条件付きの証明と伝える方が正しい。

長時間の操作では、なぜ別の問いが残るのか

研究チーム自身が明確に示した限界がある。今回の定理が厳密に成り立つのは、系の規模を大きくしても、マクロ操作に要する時間がその規模とともに長くならない場合である。言い換えれば、操作時間について条件を課している。

現実の熱力学では、ピストンを非常にゆっくり動かすような過程も重要だ。研究者らは、時間が系の大きさとともに長くなる操作へ今回の枠組みをそのまま延長すると、第二法則に反するような反例も構成できると説明している。これは実際の自然界で第二法則が破れたという実験結果ではない。理論をどこまで一般化できるかという未解決問題を浮かび上がらせる。

量子シミュレーターによる検証の可能性も挙げられているが、今回その検証が完了したわけではない。異なる時間尺度、相互作用、制御の制限を扱う理論の拡張が必要である。境界条件を明示したこと自体が、次の研究課題をはっきりさせた。

量子技術に役立つ日は来るのか

量子計算や量子制御では、何が理論上できるかに加え、その操作にどれだけの精度や資源が必要かが問題になる。今回の結果は、マクロに意味のある制御だけで何が禁止されるかを考える枠組みを提供する。

ただし、この成果によって特定の量子コンピューターが速くなったり、熱機関の効率が改善したりしたという実証はない。プレスリリースが示す将来の応用は、量子系の制御指針への貢献という期待であり、完成した製品の性能を表すものではない。

既存の量子熱力学研究には情報とエネルギーの関係を扱う『マクスウェルの悪魔』の研究もある。しかし、測定とフィードバックを伴う小さな量子装置の議論と、今回の閉じた量子多体系における巨視的操作の定理は、対象と条件が異なる。両者を混同してはいけない。

厳密な条件を明示したことが、理論を前に進める

論文が示したのは、日常の常識を量子力学が無条件で裏付けたという単純な物語ではない。むしろ、熱平衡を何で判定し、どんな操作を許し、エントロピーをどう定義するかによって、正しく示せる法則の形が決まるという理論物理学らしい成果だった。

多くの粒子から成る世界は、測定と制御のしかたによって、個々の粒子の世界とは異なる規則を示す。閉じた量子多体系の熱平衡を論じるとき、実験者が手にできるのは、通常は全粒子の完全な情報ではなく、エネルギーや磁化といったマクロな量である。そこに熱力学が成立する根拠を求めた。

砂時計の砂がいつも下へ向かう理由を、今回の論文ひとつで語り尽くすことはできない。それでも、なぜ自然界の同じ物質に可逆的な量子力学と不可逆的な熱力学が共存できるのか。日本の研究チームは、その答えの一部を、定義と証明によって鮮明にした。

出典と取材方法

原著論文、理研・東大・大阪大の共同発表、関連研究の公表資料を照合した。論文本文の技術条件を要約し、未実証の応用は将来の見通しとして区別した。

  1. 理化学研究所・東京大学・大阪大学、2026年11月4日共同発表 / Japanese joint release
  2. 東京大学大学院理学系研究科・日本語発表 / University of Tokyo Japanese press release
  3. Chiba, Yoneta, Hamazaki and Shimizu, PRX Quantum 7, 043023 (2026), peer-reviewed original article
  4. 東京大学・英語の機械翻訳版 / University of Tokyo English release (machine translated)
  5. 東京大学・量子情報を活用したマクスウェルのデーモン研究(2025年) / Maxwell’s demon research context