見えなかった「細胞の奥行き」に、時間が流れ始めた
細胞を観察する顕微鏡は、生命科学の歴史を何度も書き換えてきた。だが、どれほど精密な一枚の画像でも、動き続ける細胞の内部で何が起きているかを伝えるには限界がある。しかも、ある物質がどこに存在するかを知るには、蛍光色素などで目印を付ける手法に頼ることが多かった。東京大学と理化学研究所の研究グループが11月2日に発表した成果は、その制約の一部を同時に乗り越えようとするものだ。
開発したのは、分子の赤外吸収を利用して物質の特徴を捉え、細胞の内部を立体的に再構成する「中赤外フォトサーマル顕微鏡」。毎秒19.2ボリューム、1回の三次元取得に約52ミリ秒という速度で、標識せずに細胞内の脂肪滴の動きを追跡した。単に細胞の姿を立体化したのではない。化学的な情報と動きを、時間軸に沿って結び付けた点に核心がある。
11月2日の発表で、何が確かめられたのか
研究成果は査読付き科学誌「Nature Communications」に掲載された。原著論文の題名は「Video-rate volumetric chemical imaging via mid-infrared photothermal optical diffraction tomography」。研究を担ったのは東京大学大学院理学系研究科の福島誠人氏、戸田圭一郎氏、菅原優生氏、川野将太郎氏と、東京大学大学院新領域創成科学研究科教授で理化学研究所光量子工学研究センターのチームディレクターを兼ねる井手口拓郎氏らである。
大学の公表資料によると、従来の同種の三次元計測は毎秒0.05ボリューム未満だった。今回の方式は約400倍の高速化を達成し、横方向約0.35マイクロメートル、奥行き方向約1.2マイクロメートルの分解能を示した。原著論文では信号対雑音比が70を超え、時間方向の平均化を用いずに計測したことも報告している。これらは研究条件下で得られた性能であり、あらゆる細胞・装置で保証される仕様ではない。
色を塗らずに、物質の違いを見る
赤外光を吸収する波長は分子の結合や振動の仕方によって異なる。脂質に多い炭素と水素の結合も、特徴的な振動を持つ。そこで適切な中赤外光を照射すれば、目印となる染色剤を付けずに、脂質に富む領域を選択的に強調できる。これが「非標識」で化学情報を捉えるという意味だ。
ただし、赤外光をそのまま使った顕微鏡には、波長が長いことによる分解能の制約がある。中赤外フォトサーマル法は発想を変えた。赤外光の吸収で生じる微小な温度・屈折率の変化を、波長の短い可視光を使って検出する。赤外の化学的な選択性と、可視光を利用する高精細な計測を組み合わせるわけだ。特定の結合に対応する信号を見ることと、細胞内のすべての分子種を一つずつ同定できることは同義ではない。
なぜ二次元の動画では足りなかったのか
細胞内部の脂肪滴は、脂質を蓄えるだけの静的な袋ではない。他の細胞小器官との相互作用や代謝に関わり、細胞質の中を移動する。二次元画像では、粒子が視野から消えたとき、横へ動いたのか、奥行き方向に移ったのかを見分けにくい。三次元軌跡を取得することで、実際の運動をより正確に解析できる。
研究グループは生きた細胞の脂肪滴を約3.6秒間にわたり連続撮影し、その位置の変化を追跡した。解析では、通常のブラウン運動による拡散よりも移動範囲が広がりにくい「異常拡散」の特徴が見られた。細胞内の場所によって運動の性質が異なることを示す結果である。ただし、この実験だけから、その違いを引き起こす生物学的機構まで確定できたわけではない。
52ミリ秒の立体像は、どうやって作るのか
要となったのは、感度の向上と照明方向の高速切り替えだ。研究チームは高強度のナノ秒中赤外パルスを用い、可視光の照明角度を空間光変調器で約2.3ミリ秒ごとに変更した。試料を11方向から照らした情報を集め、中赤外光を当てた場合と当てない場合の差を取り出す。
得られた複数方向のデータから、光回折トモグラフィを用いて三次元の変化を計算する。中赤外光、可視光、カメラ、空間光変調器の同期を厳密に取ることが不可欠だった。重要なのは、顕微鏡が細胞内部へカメラを入れて撮影したわけではないという点だ。観測された光の情報を計算処理して立体的な化学コントラストを再構成している。
同じ細胞でも、波長を変えると別の顔が現れる
もう一つの実験では、中赤外光の波数を連続的に変え、約300 cm⁻¹の範囲で約20の異なる波数に対応する三次元情報を約1秒で取得した。固定した細胞の脂肪滴と核小体などでは、異なる振動スペクトルが観測された。核小体は、リボソームRNAの合成などに関わる核内の構造である。
ここで注意したいのは、スペクトルを変えながら撮る実験と、一定の波数で生細胞の脂肪滴を連続追跡する実験は別の実証だという点だ。研究チームは「生きた細胞の全成分を毎秒20回、同時に完全識別した」と主張しているわけではない。分光の幅、細胞への影響、測定対象の広がりは、今後の評価が必要になる。
2023年、2024年を経てたどり着いた立体の速度
井手口氏らの研究は今回突然始まったわけではない。東京大学は2023年7月、細胞内の分子動態を非標識で高速観察する中赤外顕微鏡研究を発表した。さらに2024年4月には、約100ナノメートルの空間分解能で分子振動の分布を可視化する成果を公表している。
2023年の成果が二次元での高速化に光を当て、2024年の成果が空間分解能の可能性を押し広げたとすれば、2026年のテーマは「奥行き」と「時間」を両立することだった。各研究の構成や性能指標は同じではないため、数字を単純に並べた競争として読むべきではない。むしろ、分子を識別する、細かく見る、速く追うという複数の難題に、研究が段階的に向き合ってきたと捉えるのが適切だ。
なぜ脂肪滴なのか――生命活動の現場を選ぶ
脂肪滴は、細胞内の脂質貯蔵と利用に関係する小器官だ。大きさ、数、移動の仕方は細胞の状態によって変わり得る。しかも脂質に由来する中赤外の吸収が比較的捉えやすく、新しい化学イメージング手法の実証に向いている。今回、脂肪滴が選ばれたことには、測定上の合理性がある。
細胞内輸送、局所的な代謝の変化、分子が集まってできる構造の形成・融合といった現象への応用は、研究グループが示した将来の方向性だ。細胞の動きを見ることが新たな知識につながる可能性は大きい。一方で、今回の論文が薬剤の効果を臨床的に証明したわけでも、病気を診断する装置の完成を示したわけでもない。
「見える」ことと「分かる」ことの距離
研究者にとって、視覚化はゴールではなく問いをつくる道具である。三次元の軌跡を得れば、動きが均一でないことに気づける。化学的な違いを重ねれば、同じ形に見える構造が異なる成分を持つ可能性を検証できる。しかし、その原因を示すには追加実験や独立した手法での確認が欠かせない。
利用できる波数域、測定深さ、撮影時間、光照射の影響、試料の種類、装置の複雑さやコストといった課題も残る。論文中の高い速度は特定の条件で達成されたもので、厚い組織、丸ごとの臓器、患者の体内で同じ性能を発揮できると確認したものではない。装置の汎用化には光源・計測系・解析法の改良が必要だろう。
東京と理研の共同研究が世界に問うもの
今回の研究には東京大学の理学系研究科、新領域創成科学研究科、理化学研究所が関わった。光学、物理、計測、データ再構成を一体で考える学際的な仕事である。論文は技術の性能だけでなく、生細胞内の移動を定量的に追えることを示し、生命科学との接点を具体化した。
国際的な競争で問われるのは、「世界初」という宣伝よりも、他の研究室でも使える再現性、従来法と比較した利点、実際の生物学的発見に結び付くかどうかだ。原著論文と発表資料は、今回の成果を確かめるための出発点になる。
顕微鏡の未来は、細胞をもっと長く見つめることかもしれない
生命は立体的で、しかも止まらない。これまで研究者は、成分を知るために染め、細かく見るために時間をかけ、速く見るために奥行きを犠牲にする場面があった。新しい顕微鏡は、その交換条件を緩める一つの方法を示した。
今後この技術が普及するかは、機器の使いやすさや検証の積み重ねにかかっている。それでも今回、数秒の細胞内運動を、化学的な手掛かりを伴う立体の軌跡として示した意義は小さくない。細胞を「何があるか」で切り取る観察から、「何が、どこで、どう動くか」を問い続ける観察へ。その一歩を示す研究である。
出典と取材方法
原著論文と研究機関の公表資料を照合した文書取材。実験画像の引用や現地取材は行っていない。
