1902–1999畦地梅太郎の生涯
1953年愛媛県美術館《山男》
三間町現在の宇和島市
創作版画日本近代版画の重要な潮流

山男は、なぜこちらを見つめるのか

山から下りてきたのか、これから登るのか。厚い服に身を包んだ人物が、単純化された輪郭の中でじっと立つ。周囲の空気は冷たく見えるのに、その姿には不思議な温もりがある。畦地梅太郎(あぜち・うめたろう)の「山男」は、山を征服する英雄ではない。自然の大きさに圧倒されながら、それでも山へ向かう人間そのものを思わせる。

2026年10月11日の愛媛県特集で取り上げるのは、現在の宇和島市三間町で生まれた版画家だ。愛媛県美術館が所蔵する1953年の多色木版画《山男》は、風景を描き続けた作者が、山に生きる匿名の人物へ主題を移した転機の作品と位置づけられている。山そのものではなく、山と向き合う心が画面の中心になった。

三間町から東京へ――職業を探し、表現を探した青年

畦地は1902年12月28日、愛媛県北宇和郡二名村、現在の宇和島市三間町に生まれた。宇和島市の年譜によれば、1918年に郷里を離れ、大阪で貨物船の仕事を経験したのち、1920年に上京。新聞配達などで生計を立てながら正則英語学校に通った。絵に専念できる環境が最初から用意されていたわけではない。

1922年には油彩画の通信教育を始め、1926年には内閣印刷局で働くなかで鉛版による版画制作を試みた。印刷の現場にいたことは偶然以上の意味を持つ。絵を一枚の原画で終わらせず、版を通じて届ける技術に、生活と創作の接点を見いだしたからだ。

創作版画――自分の眼と手でつくる

畦地の歩みを理解する鍵は「創作版画」にある。近代日本の版画には、分業による伝統的な木版制作とは別に、作者自身の発想と制作過程を重んじる運動が生まれた。畦地は平塚運一の助言を受け、恩地孝四郎らの仕事に触れて、この表現の世界を深めていった。

1927年には日本創作版画協会展に初入選し、1932年には日本版画協会会員となる。初期作品には街の風景が多い。練馬区立美術館の作家資料に記された《宇和島郊外風景》という題名には、東京で活動しても郷里が創作から消えなかったことがうかがえる。

伊予の山河から全国の山へ

1936年、版画集『伊豫風景』を発表。愛媛県美術館には『創作版画 伊豫風景』に含まれる《石鎚霊峰(石鎚山)》が収蔵されている。石鎚山を描くことは、故郷の地形を写すだけではない。生まれ育った土地の記憶を、版木の線と色に置き換える仕事だった。

東京文化財研究所の資料は、1937年に浅間山を目にした経験が、その後の山岳表現を決定づけたと記す。やがて畦地の作品には全国の山が現れる。ただし、その出発点にある伊予の山河を忘れてはならない。山は旅先の対象であると同時に、故郷の記憶に結びつく場所でもあった。

1953年《山男》――風景から人間へ

愛媛県美術館の作品解説によれば、《山男》(1953年、多色木版・紙、39.0×28.5センチ)は、50歳を過ぎた作家が開いた独自の境地を示す一作である。ここで重要なのは、山を描かなくなったという単純な変化ではない。山で感じた畏れ、孤独、発見を、無名の人物の姿に託すようになったことだ。

町田市立国際版画美術館は1958年の《白い像》を代表作として紹介し、その人物を作者のいう「心象的人物」と説明している。特定の登山家の似顔絵ではない。見る者が自分の記憶や経験を重ねられる、名前を持たない人間像である。

木版の簡潔さが生んだ、複雑な感情

太い輪郭、限られた色、思い切った省略。畦地の山男は、人物の細部を写実的に描くほど雄弁になるのではなく、描かない部分があるからこそ感情を呼び起こす。版木を彫り、インクを載せ、紙に刷る工程は、線と面の選択を厳しく要求する。その制約が、畦地の造形を強くした。

山を背景として描きこむのではなく、人物と山岳の気配をほぼ同じ重さで画面に配置する。この特徴を「孤独」の一言だけで片づけるのは惜しい。鳥と人、親子、山道の同行者など、作品群には他者とのつながりや生命への親しみもある。

戦争を越え、世界に届いた版画

畦地の仕事は戦前の創作版画運動に根を持ちながら、戦後の国際的な版画交流へ広がった。練馬区立美術館は、サンパウロ・ビエンナーレ展やルガノ国際版画展への出品を紹介している。国境を越えて理解されたのは、特定の日本の峰を知っていることが前提ではない画面だったからだろう。

しかし国際的評価を、無条件の成功談にしてはいけない。版画がどのような流通経路で収集され、どの作家が展覧会に選ばれたのかという問題も残る。畦地の意義はむしろ、地方出身の働く青年が独自の画風を築き、美術館に残る作品へと結実させた長い制作の過程にある。

故郷が守る作品と、もう一つの故郷

宇和島市三間町には畦地梅太郎記念美術館があり、作品と資料を伝えている。愛媛県美術館の所蔵品一覧をたどれば、1926年の《風景》から1930年代の伊予風景、1953年の《山男》、1985年の《石鎚山》緞帳原画まで、造形の変遷を読み取れる。

一方、晩年を過ごした東京都町田市も畦地の大切な拠点となった。町田市立国際版画美術館は《白い像》などを収蔵し、2019年には「畦地梅太郎・わたしの山男」を開催した。郷里を離れた人の生涯を一つの土地だけに閉じ込めず、複数の場所に広がる文化資産として考えたい。

愛媛の2026年を「山男」で読む

人口減少、若者の移動、産業の転換。2026年の愛媛には厳しい論点が多い。だが、その数字に登場する一人ひとりにも、山へ向かう理由があり、戻る場所があり、家族や仕事の記憶がある。畦地の無名の山男を今見る意味は、人間を統計の一単位に還元しない眼差しにあるのではないか。これは作品の時代を超えた編集部の読みであり、作家本人の政治的意見として述べるものではない。

山は険しい。しかし畦地が彫り出した人影は、恐怖だけを語らない。厳しさとぬくもりを同時に抱える。愛媛の山河から始まった表現が、多くの人に届く理由は、その両方があるからだ。

作品画像と著作権について

この記事の上部に掲載する画像は、Japan.co.jpが制作した「畦地梅太郎の造形に着想を得た新規の編集イラスト」であり、畦地本人の版画《山男》の複製でも、作者による未発表作品でもない。真作を確認したい読者には、愛媛県美術館や町田市立国際版画美術館の所蔵作品ページを案内する。

畦地は1999年に没したため、2026年時点では著作権保護期間中にあると考えられる。特定の作品の高精細画像を転載する場合には、権利者と所蔵館の利用条件を確認する必要がある。

出典・参考資料

  1. 宇和島市「畦地梅太郎を知る」
  2. 宇和島市「畦地梅太郎のあゆみ」
  3. 愛媛県美術館《山男》(1953)
  4. 愛媛県美術館 畦地梅太郎所蔵作品
  5. 町田市立国際版画美術館《白い像》
  6. 町田市立国際版画美術館「畦地梅太郎・わたしの山男」
  7. 練馬区立美術館 作家データ
  8. 東京文化財研究所「畦地梅太郎」
  9. 国立美術館 所蔵作品検索

資料確認:2026年10月8日。作品名・制作年・人物略歴は各館・自治体の公式資料で照合。