虎は、まだ飛びかかっていない。竹のそばで背を丸め、前脚を出し、水の流れへ顔を向けている。もう一方では、龍の長い胴が雲に隠れ、現れ、再び折れ曲がる。二つの姿を見比べるうちに、描かれていない音まで聞こえてくる気がする。水が落ちる音、風が竹を揺らす音。そして、何かが起こる直前の静けさだ。

9月12日の「本日のアート」は、クリーブランド美術館所蔵の《Dragon and Tiger》。本稿では《龍虎図》と呼ぶ。17世紀前半から半ばの六曲一双の屏風で、同館は作者を「曽我二直庵に帰属」としている。紙に墨と淡い彩色、金、銀を用いた作品だ。作者名の前に残された留保も含めて、この一双を見ていきたい。[1]

龍を追う目、虎にとどまる目

公開画像では、龍の屏風を上、虎の屏風を下に並べている。まず龍の尾から胴をたどってみる。鱗の細かな反復に目を近づけたかと思うと、墨の濃い雲が形を遮る。身体のすべてを一度に把握しようとしても、視線はそのつど進路を変えさせられる。見せる部分と隠す部分が交互に現れることで、龍は画面に収まる以上の大きさを感じさせる。

虎のほうには、足を置く場所がある。背の縞、腹の斑点、丸く開いた目。輪郭を追えば一頭の動物としてまとまりを捉えられるが、その足取りは落ち着かない。前方には白く開けた水の面があり、後方には竹が立つ。龍のように空間を自在に曲がることのできない身体が、次の一歩を選んでいるように見える。

ここで面白いのは、強さの表現が一つではないことだ。龍は姿を見失わせることで、虎は身体の重さを意識させることで迫ってくる。画面を同じ調子で埋め尽くさず、違う仕組みで視線を引き付ける。この対比が、一双を往復して見る楽しさを生んでいる。

堺曽我派の画家を、鷹から知る

島根県立美術館の作家解説は、曽我二直菴の生没年を不詳とし、作画期を17世紀前半から半ば頃とする。曽我直菴の子とされ、堺曽我派に連なる画家だ。同館は同派の前身を朝倉家の庇護を受けた越前の曽我派に求め、天正期頃から堺を中心に活動したと説明している。[2]

二直庵の仕事を知るうえで、龍や虎以上に欠かせないのが猛禽である。島根県立美術館の《梅鷹図》では、両側から伸びた梅の枝に鷹を配し、羽の模様を細かく描き込む。同館の解説によれば、背景には金泥が使われている。生き物の細部と大きな画面構成を同時に扱う画家の技量を考える、よい比較対象になる。[3]

《龍虎図》でも、細部を見る距離と全体を見る距離がせめぎ合う。鱗や縞を追っていた目が、次には雲の大きなうねりへ戻る。小さな形を積み重ねるだけでは、この動きは生まれない。何を細かく描き、どこを大きくまとめるか。その判断に注目すると、動物の迫力を支える画面の設計が見えてくる。

二頭の対決には、長い前史がある

龍と虎の組み合わせは、二直庵の時代に初めて現れたものではない。同じクリーブランド美術館には、南宋の牧谿による13世紀の《Dragon; Tiger》もある。こちらは絹に墨で描かれた掛幅の対で、同館は陰陽、すなわち相反しながら補い合う力との関わりを説明している。[4]

その説明を踏まえれば、龍虎を勝者と敗者の決まる一場面だけに閉じ込めずに見られる。強いもの同士が向き合うことと、片方がもう片方を消し去ることは同じではない。二直庵に帰属する屏風にも、互いの存在によって一方の性質が際立つ構成を読み取れる。雲の中の運動を見た後では、地を踏む虎の重みがいっそう強く感じられる。

ただし、古い図像に意味があるからといって、後の画家がすべて同じ表情を与えたわけではない。京都国立博物館の尾形光琳筆《竹虎図》は、18世紀の小さな墨画だ。同館はその親しみやすく戯画的な表現を、力と力の対決を強調する龍虎図と対比している。虎は、威厳だけを担う役ではなかった。[5]

この広がりを知ってから屏風の虎に戻ると、大きな目や丸みのある顔も見逃せなくなる。恐ろしさと、どこか身近な感じが一頭の中に同居していないだろうか。画題の説明は鑑賞の入口になるが、実際の顔つきや身構えを見れば、その絵ならではの感情が立ち上がる。

墨だけでは生まれない明るさ

墨の強さに目を奪われる一方で、画面には淡い色の広がりがある。暗い雲に挟まれた明るい部分と、水面の白さは、同じ空白には見えない。前者は龍を包む奥行きを、後者は虎の前に開けた距離を感じさせる。描き込まれていないように見える場所にも、目を動かす働きがある。

金や銀を含む実物の表面が光を受ける様子は、端末の画像だけでは確かめられない。それでも、画面全体が均一な黒白ではないことには気付ける。濃淡と色味の差を追ってみると、輪郭の強さだけでこの絵ができているのではないと分かる。実物を想像する余地を残すことも、デジタルで見る楽しみの一つだ。

また、屏風には折れ目がある。一枚の平面として画像を見ていると忘れがちだが、六つの面は、それぞれ角度を変えられる。龍の長い胴や水の流れが折れ目をまたぐことを意識すれば、絵と、その絵が立つ空間との関係も考えたくなる。どの室内に、どう立てられたのか。本作の元の設置場所を決めつけることなく、屏風という形式そのものに目を向けたい。

「帰属」の二文字も、作品情報

美術館の紹介は署名と印章の存在に触れる一方、作者欄には帰属を示す表現を付けている。署名があるという説明と、作者を確定して表示することとは別なのだ。本紙もその区別を保ち、「二直庵の真筆」と言い切らない。[1]

それは絵を見る楽しさを減らす留保ではない。誰が描いたかを問うことと、目の前の形がどう働いているかを考えることは、ともに鑑賞を深める。作者名を先に答えとして置くだけでは、かえって見えなくなる細部もある。雲の重なりや虎の足の位置へ戻れば、確かなのはまず、その画像の中で起きている視覚の経験だ。

対馬の野生、土俵の間合いとともに

本日の版でこの一双を選んだのは、対馬のヤマネコをめぐる記事と、秋場所を迎える相撲の記事の間に、視覚的なつながりを感じたからだ。虎はツシマヤマネコの姿を説明する標本ではない。それでも、地面に近い身体、周囲をうかがう目、次の動きに備える脚は、野生動物を見る私たちの注意を呼び起こす。

相撲とのつながりも、本紙が今日の読者に提案する見方である。勝負が動く前の間合い、相手の存在によって定まる姿勢、力を出す直前の緊張。そうした感覚を伴って見ると、龍虎の対比は単なる勇壮さを超える。ただし、この屏風を相撲の寓意として描いたという意味ではない。

雲の中へ目を移し、水辺へ戻る。その往復のたび、同じ一双が少し違って見える。動物の顔だけを切り出すより、二つの画面を残して見たい理由がここにある。対立する姿を一緒に置くことで、片方だけでは生まれない世界が開かれる。