目の前に大きな花が咲き、その向こうに池と空がひらける。近くのものを確かめていた視線が、いつの間にか遠くへ運ばれている。小田野直武(おだのなおたけ、1749〜1780)の《不忍池図》は、眺めるという行為そのものを意識させる絵だ。秋田・角館に生まれた武士が描いたのは、江戸の風景。その一枚から、秋田が外の世界と結んだ関係をたどりたい。[1][8]

描かれた不忍池は、いまの東京・上野にある。秋田とのつながりは池の所在地ではなく、作者と、作者を育てた人々の交流にある。作品は秋田県立近代美術館が所蔵する重要文化財で、同館は制作時期を1770年代としている。[4] 2026年度の公開予定では、横手市の同館で8月14日から9月23日まで展示する計画となっており、今回の日曜版はその期間に重なる。[10]

花の重さと、遠くの空気

所蔵館が公開する画像を見ると、画面の右側に鉢植えの花と太い木の幹が集まり、左側には水面と空の広がりが残されている。花びらや葉の濃淡、鉢の丸み、地面に落ちる影が、手前の物に量感を与える。対岸の建物は小さく、淡く描かれる。近景の鮮明さと遠景の静けさが、一枚の中で向き合っている。[9]

遠くへ向かう道を順番にたどるような構図ではない。手前の鉢から池の向こうへ、目が大きく跳ぶ。そのため、花は風景の一部でありながら、見る人のすぐ近くに置かれた独立した存在のようにも感じられる。絵の中に入っていく感覚と、画面の前に立ち止まる感覚が同時に生まれる。

ここで働いているのが、遠近法と陰影の表現だ。近い物と遠い物の大きさや鮮明さを変え、明るい面と暗い面を描き分けることで、平らな画面に距離や厚みを感じさせる。秋田県立近代美術館も、この二つを直武の作品を理解する手掛かりとして示している。[4]

ただし、この絵をカメラのように一つの視点を記録したものとして見る必要はない。どこを強く見せ、どこを遠ざけるかには、画家の選択がある。描写が細かいほど客観的になるとは限らない。細部の確かさと構成の大胆さが同居するところに、この作品の面白さがある。

角館から江戸へ、武士の仕事が開いた道

直武は、角館城代に仕える武士の家に生まれた。サントリー美術館の解説は、若い頃から模写を重ねて画力を磨いたことを紹介している。[3] 秋田蘭画の新しさには、それ以前に身に付けた筆の仕事が下地としてあった。

転機となったのは1773年だった。鉱山調査のため秋田藩を訪れた平賀源内(ひらがげんない)との関係を通じ、直武は江戸へ出ることになる。[1] サントリー美術館は、源内が角館で直武に西洋画法を教えたという伝承には研究上の疑問があると説明する。一方、直武が藩の命で同年末に源内のいる江戸へ派遣されたことを、重要な節目に位置付けている。[2]

一度の出会いですべてを学んだという物語より、仕事を通じて人に会い、書物や図に接し、試みを重ねた過程に目を向けたい。秋田の資源開発と、江戸での知識の交流は、直武の歩みの中でつながっていた。藩の仕事は行動の枠組みであると同時に、新しいものに触れる機会にもなった。

「蘭画」の向こうに、中国とヨーロッパがある

秋田蘭画とは、秋田藩の武士たちが中心となって描いた、オランダ風の絵画を指す呼び名である。直武だけでなく、藩主の佐竹曙山(さたけしょざん)や角館城代の佐竹義躬(さたけよしみ)も、その担い手となった。[1] 地名は作者たちの関係を示すが、描かれた場所や学んだ表現を秋田の内側に限定するものではない。

西洋からの影響と並んで大切なのが、南蘋派(なんぴんは)の花鳥画だ。サントリー美術館は、中国由来の精緻な描写と西洋の画法を、秋田蘭画の二つの源流として説明する。[2] 日本の絵画に西洋の技法が一方向に入った、とだけ捉えると、この重なりを見落としてしまう。

《不忍池図》も、洋風の奥行きを見せながら、素材は絹本着色、つまり絹に色を施した作品である。[8] 新しい空間表現を得ることは、従来の材料や筆の技術をすべて捨てることではなかった。何を取り入れ、何を使い続けるか。その組み合わせによって、直武は独自の画面をつくった。

書物の中から広がった世界

海外との交流が統制されていた江戸時代にも、知識が動く道はあった。国立国会図書館の解説によると、徳川吉宗は1720年に禁書令を緩め、キリスト教に関係しない書物の輸入を認めた。輸入された蘭書は、西洋の学術を学ぶ媒体となった。[5]

源内は、オランダ語をほとんど解さなかった一方、海外の博物図譜を集めていたと同館は説明する。植物や貝、昆虫を扱う図入りの本が、その関心の広さを伝えている。[7] 言葉の理解と、図から得られる知識は、同じ速度で広がったわけではない。

異国の図を見るとき、そこに描かれた動植物だけでなく、陰の付け方、物の置き方、輪郭をどう浮かび上がらせるかも目に入る。図版は知識を運ぶとともに、描く方法を考える材料にもなる。直武をめぐる歴史は、書物を読むことと絵を見ることの距離が、思いのほか近かったことを教えてくれる。

『解体新書』で、絵が知識を支える

1774年、直武は『解体新書』の挿絵を担当した。[1] 国立国会図書館は、前野良沢(まえのりょうたく)、杉田玄白(すぎたげんぱく)、中川淳庵(なかがわじゅんあん)らによる同書の翻訳刊行を、蘭学が広がる大きな画期としている。[6]

ここでは、絵は文章に添える飾りではない。体の形や部分の関係を伝える図は、読者が説明を理解し、互いに同じ対象を指し示すための手掛かりになる。文章を別の言語へ移す仕事と、図を読み取れる形にする仕事は、違う技術を必要としながら一つの本を支える。

直武を翻訳者と呼ぶことはできないが、知識を伝える営みの一員として見ることはできる。風景の遠近と解剖図の明瞭さには、目的の違いがある。それでも、何を見せれば相手が理解できるのかという問いは共通している。

本号で取り上げる大学の研究や病理標本づくりと、この歴史を並べる意味もそこにある。直武から現代の装置や研究へ一直線に技術が継承された、という話ではない。対象をよく見て、形にし、他者が確かめられるようにする。その仕事の重要性を、美術と科学の双方から考えるための接点である。

短い生涯を、伝説だけで閉じない

直武は1780年に亡くなった。サントリー美術館は、前年に藩から謹慎を命じられた理由や死因の詳細は不明としている。同館はまた、平福百穂(ひらふくひゃくすい)の『日本洋画曙光』(1930年)が、その後の秋田蘭画の再評価に関わったと説明する。[2]

死の事情がわからないことと、作品が語ることは分けて考えたい。謎を埋める劇的な結末がなくても、直武が残した画面には十分な驚きがある。そして、作品の価値が後の調査や紹介によって見いだされてきたことは、文化を受け継ぐ仕事の大きさも示している。

原作を見るために

今回参照したサントリー美術館の「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画」は、2016年11月16日から2017年1月9日まで開かれた展覧会の記録である。[1] 2026年の開催案内ではない。《不忍池図》の今年度の公開については、所蔵館である秋田県立近代美術館の予定を確認したい。同館は9月23日までの展示を告知している。来館前には最新の案内も確認を。[10]

所蔵館による原作紹介を見る際は、まず画面全体を眺め、次に花と鉢、地面の影、対岸へと視線を移してみるとよい。一つの細部を見た後で全体に戻ると、最初とは違う距離の感じ方が生まれるかもしれない。

本ページ上部の画像は、直武の画風に着想を得た現代の編集用イラストであり、《不忍池図》の複製ではない。原作の構図や細部は、所蔵館の画像で確かめていただきたい。

角館の町並みを歩く記事と合わせて読むと、武士の町を建物だけでなく、人が学び、外へ出て、新しい表現を持ち帰った場所として見る視点も加わる。秋田から世界へ開いた窓は、遠い国をそのまま写すためだけのものではなかった。身近な花や、江戸の池を、もう一度見直すための窓でもあった。

出典・参照

  1. サントリー美術館「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画」展・概要(2016〜17年)
  2. サントリー美術館・同展の展示構成
  3. サントリー美術館「秋田蘭画の謎をひもとく10のトリビア」
  4. 秋田県立近代美術館「秋田蘭画」収蔵品紹介
  5. 国立国会図書館「江戸時代の日蘭交流」第1部・蘭学の興隆
  6. 国立国会図書館「江戸時代の日蘭交流」第2部・蘭学者の活躍
  7. 国立国会図書館「平賀源内と蘭学」
  8. artscape・影山幸一「小田野直武《不忍池図》」作品解説(2013年、所蔵館学芸員への取材)
  9. 秋田県立近代美術館掲載《不忍池図》画像(原作の構図確認用)
  10. 秋田県立近代美術館「2026年度・秋田蘭画の公開予定」