雨が四ツ橋を色調へと変えている。路面は暗く、その下の水はさらに暗い。空には、完全には晴れない夕方の汚れたような柔らかさがある。場所を特定できるだけの建築的な正確さは残るが、輪郭は硬くない。石、木、湿った空気、反射する光が、同じ表面へこすり込まれたように見える。

1918年の織田一磨《四ツ橋雨景》は、連作『大阪風景』の一枚である。観光地として大阪を売り込む作品ではない。変わりつつある都市が、どのように感じられるかを問う。橋には近代の土木があり、雨には古い風景表現の記憶がある。測られた橋桁には都市の秩序があり、影の一粒一粒には不確かさがある。

この緊張が、織田を大阪を見るためにきわめて有効な作家にしている。1917年から19年に制作された20点の連作は、道頓堀、中之島、津村別院、四天王寺、住吉、安治川口、築港を行き来する。歓楽街と寺社、水路と工業、月光とインフラを同じ視線で見る。都市は一直線に「進歩」しない。異なる世紀が、同じ紙面を占める。

1882–1956明治、大正、昭和戦後初期を生きた
20景1917~19年『大阪風景』の構成
1918年日本創作版画協会の発起人
318冊現存する江戸期絵本135タイトルの織田旧蔵資料

商業の技術が、作家の言葉になる

織田は1882年11月11日、東京の芝公園で、剥製や標本の製作を生業とする両親のもとに生まれた。16歳で兄から石版画を学ぶ。当時の石版は、ラベル、広告、挿絵などを複製する商業印刷と深く結びついていた。一点だけの絵の前に立つ個人作家という、権威ある芸術家像とは距離があった。

織田はその実用の世界で作版に携わった。同時に図案や水彩画を制作し、展覧会への出品を続ける。1907年の第1回文展には《日光山の奥》、2年後には《竹林遠望》を出し、日本水彩画会の審査員にもなった。若い天才が一気に名声へ運ばれた経歴ではない。複数の制作工程を、時間をかけて身につけた職人の歩みである。

石版には独特の利点があった。木版は通常、彫って残した凸部からインクを移し、銅版などの凹版はへこんだ線からインクを紙へ運ぶ。石版は平版であり、表面は基本的に平らなまま。油と水が反発する性質を使って印刷する。筆圧、ためらい、にじみ、濃淡を、描く手の感覚に近いかたちで残せる。細かな粒子は、霧、煙、雨、薄暮を、単なる題材ではなく物質として存在させる。

その技術的な性質は都市に向いていた。街の経験は、線だけでも量塊だけでもない。石積み、看板、湿気、交通、人の体、照明の積み重なりである。織田の黒は建物の重さを担いながら、次の瞬間には天候へ溶ける。黄土色の光は、夜を昼に変えずに灯りを伝える。

織田は石版によって大阪を永久に固定したのではない。移ろいがまだ「歴史」と呼ばれる前、その感触を残した。

33歳で、都市が最大の主題になった

石版画家としての本格的な出発は、比較的遅かった。武蔵野市立吉祥寺美術館は、織田が33歳で着手した20点組《東京風景》を転機とする。1918年に完成した連作で、近代化の下に明治、さらには江戸の残像が読める場所を探した。河岸、坂、寺社、雪、雨、日常の道から見る低い都市である。

大阪がすぐに続いた。公的な収蔵記録によれば、《道頓堀》《永代濱》《東横堀川》《道頓堀川(夜景)》は1917年。1918年には《天神橋遠望》《津村別院横》《四ツ橋雨景》《中之島》《四天王寺東門(雨景)》《安治川口》《茶臼山》《浮世小路(月夜)》《住吉(雪景)》が生まれ、1919年にも築港、橋、神社の景観が加わった。

それは個人的な記憶を帯びた帰還でもあった。美術館の調査は、織田が形成期を大阪で過ごし、浮世絵、文楽、カフェー文化への関心を身につけたとする。網羅的な地誌を作る測量者として戻ったのではない。自分の記憶がまだ何を見分けられるかを試す人として帰った。

選んだ場所が重要だ。名所はあるが、縁辺もある。寺院の正面ではなく「横」、記念建築ではなく河岸、川と海が接する工業の口。題名《津村別院横》の「横」は、織田の方法そのものに近い。有名な場所が日常の都市組織の一部になる斜めの位置を、繰り返し選ぶ。

創作版画運動のなかの石版画家

織田の制作は、作者とは誰かをめぐる論争の中で成長した。1907年に石井柏亭、森田恒友、山本鼎が創刊した美術文芸誌『方寸』は、視覚芸術と文学を結んだ。自刻木版、自画石版を、北原白秋、木下杢太郎、高村光太郎らの文章と同じ誌面に載せた。織田も同人に加わり、雑誌は1911年までに全35号を刊行した。

台頭した「創作版画」は、自画・自刻・自摺を掲げた。絵師、彫師、摺師が版元のもとで分業する江戸以来の仕組みに対し、下絵、版、摺りを作家自身が担う。大正期に広がった個人主義や自我の尊重を背景に、制作の全工程を引き受けることが作者の主体性の宣言になった。

1918年、織田は山本鼎らと日本創作版画協会を組織する。ただし石版は平らな面に化学的に描くため、「自刻」という有名な定式にはきれいに収まらない。織田の答えは「自画石版」だった。磨石版を含む高度な技術を使い、像と摺りを自ら制御する。商業印刷の通常業務から石版を切り離し、美術として認めさせる実践だった。

作者個人の権限を求めながら、織田の視線は公衆から離れなかった。吉祥寺美術館が紹介する彼の考えを短く言えば、「版画は民衆美術」だった。複数性は大切だった。小部数であっても、版画は一点物の絵画の排他性とは別の道を示す。像は移動するためにある。

「大大阪」前夜の都市

『大阪風景』の時期は特別だった。織田が制作したのは、都市が公式に「大大阪」の時代へ入る直前である。工業化と人口増加が地域を変え、大阪では1903年から市電が走っていた。連作の中間年である1918年には、中之島に大阪市中央公会堂が完成する。1920年ごろからは、鉄、コンクリート、ガラスが、新しい業務建築の主役になっていく。

1925年、大阪市は周辺44町村を編入した。人口は約225万9,000人となり、当時の市統計上、東京市を上回り世界第6位とされた。「大大阪」という呼称は工業力と大都市の自信を表した。一方で、住宅難、貧困など、急成長の社会的費用も覆い隠した。

矛盾は1918年にすでに見えていた。第一次世界大戦下の物価上昇と格差は米騒動の背景となり、8月には大阪市内でも騒ぎが広がった。近代は、広い道路、明るい電灯、壮麗な公会堂としてだけ到来したのではない。圧力としても到来した。

織田の版画は経済統計を図解せず、騒動を報道もしない。価値は別のところにある。商流を結ぶ橋、商品を運ぶ水路、古い時間を保つ宗教空間、電気の夜を消費する歓楽街、次の用途を待つ周縁。その近代化を身体で経験した物理的な世界を見せる。

織田の大阪画面に入るもの見えてくること
《道頓堀》1917水路、劇場、店、密集する歓楽街夜の娯楽と継承された都市形態はすでに相互依存していた
《四ツ橋雨景》1918橋、水、天候、制御された粒子インフラは誇示ではなく空気になり得る
《津村別院横》1918都市の縁から出会う仏教寺院聖なるものは商い、道、日常の移動の中に存在した
《安治川口》《築港》1918~19河口、港、工業の水平線大阪の拡張は海運と機械のシステムに支えられた
《京町橋(夜景)》1919わずかな光で形を得る暗い橋人工照明が都市の見え方を組み替えた

水が、都市を不安定にする

水都という大阪の古い自己像が、連作の内部構造をつくる。道頓堀、東横堀川、土佐堀川、安治川口、中之島、築港、いくつもの橋。水を避ける方が難しい。都市は安定した陸地の上に置かれていない。切断され、反射し、二重になる。

石版はこの不安定さに敏感だ。橋の線は固くても、水面の反射は粒へほどける。川が建物の光を運び去ると、建築は権威を失う。雨は、印刷された表面と、表現された天候を結ぶ。どちらも無数の細点からなる場である。

ここが、勝利を誇る都市パノラマとの違いだ。大都市全体を支配する高い俯瞰を必要としない。堤防、橋の向こう、狭い脇道など、歩く人の高さから街に出会う。鑑賞者は大阪を所有しない。大阪へ入っていく。

水は記憶もつくる。建物が壊され、水路が埋められ、橋が架け替えられても、古い経路は目に見えないまま移動を組織し続ける。織田は1934年、後年の石版画集『大阪の河岸 明治大正時代』で再び大阪の水辺に戻った。四ツ橋の柳、端建蔵橋、千秋橋などからの6景である。最初の連作が終わっても、大阪は終わらなかった。

夜は暗闇ではなく、新しい主題だった

夜景は、織田が古い大阪を新しい大阪へ対立させたという単純な見方を崩す。彼はカフェー、酒場、映画館、屋台、明るい河岸に引かれた。近代の娯楽を支える感覚的なインフラである。大英博物館は、織田を20世紀日本のカラー石版を代表する作家とし、作品が大正末から昭和初期の国際的な都市の空気を伝えると評している。

1919年の画集『都会夜趣』は45部。浅草の屋台、京都の加茂川畔、大阪・法善寺近くの小料理店、大阪・松島の河岸という、3都市4景で構成された。松島の一枚では、明るい室内と遠くの花火が、暗い水路に対置される。

織田の電灯やガス灯は、単なる白い部分ではない。周囲に暗闇を築くことで光る。そこには社会的な意味もある。明るい部屋は、客、会話、芸能、金銭を約束する。外の道には労働、孤独、待つ時間がある。近代の快楽は、大きな夜の内部に開いた壊れやすいポケットだ。

後年の銀座、新宿の画集は、映画館、カフェー街、震災復興後の東京へ向かった。1930年には《セメント工場》を帝展へ出した。消える街を惜しむ作家は、それに代わるものにも魅了されていた。郷愁と近代への欲望は敵対する陣営ではなく、織田の内部で出会っていた。

織田の近代が説得力を持つのは、そこにまだ影があるからだ。郷愁が説得力を持つのは、交通を止めないからだ。

道の横にある寺――三津寺ではない。しかし重要な並行線

8月19日号で織田を選んだ理由の一つは、その大阪像が、本日のトップ記事で取り上げた三津寺と響き合うからである。ただし事実の境界は明確にしなければならない。織田の『大阪風景』で名指しされる寺院は、本願寺津村別院、通称・北御堂である。三津寺ではなく、確認できる収蔵記録には織田が三津寺を描いたとする作品はない。

それでも並行線には意味がある。1918年の《津村別院横》は、働く都市の中に仏教寺院を置く。北御堂と南御堂は、御堂筋という名の由来になった。織田の制作時、古い道はまだ狭く、大通りへの拡幅工事が始まるのは1926年である。版画は、道路が寺院の周囲をつくり替える前の、寺と都市の関係を残す。

その後、二つの寺の歴史は大きく分かれた。北御堂の木造伽藍は1945年の大阪大空襲で焼失し、1960年代に岸田日出刀設計の巨大な鉄筋コンクリート建築へ生まれ変わった。大阪市は現在、この建物を、生きた信仰が大胆な近代形態を採用した代表例として紹介する。

三津寺の1808年本堂は空襲を生き延びた。現在の再開発では木造本堂を残し、その周囲にホテルと商業施設を含む現代建築が建った。一方は焼失してコンクリートで再構成され、もう一方は生き残った木造建築を新しい複合施設が包む。二つは異なる方法で、同じ命題を見えるものにする。都市仏教は開発の外にあるのではなく、開発と交渉する。

だから織田は、三津寺を描いたからではなく、「隣接」を理解していたからふさわしい。寺の横に何が立ち、前を何が横切り、聖なる屋根が変わる街の輪郭へどう入るかを見た。彼にとって継承は抽象的な価値になる前に、空間の関係だった。

北斎を通して過去を見つめ、現在を描いた

織田の現代都市は、江戸期の版画文化を熱心に研究することで支えられた。東京文化財研究所によれば、とりわけ北斎に心酔し、その絵入読本を集め、自作の参考にし、浮世絵と挿絵に関する研究を発表した。

収集は本人より長く生きた。1970年、東京国立文化財研究所が絵本類を収蔵する。後にゲティ研究所との共同事業で、135タイトル318冊がデジタル公開された。このアーカイブは、織田を別の意味の橋にする。近代の石版画家が、自分に近代の街の組み立て方を教えた印刷の過去を守った。

北斎の影響を、波や輪郭の借用に縮めてはならない。それは連作で考える方法だ。一つの決定的な記念物ではなく、複数の景観の差によって都市を立ち上げる。名所の前に労働者や通行人を置く。橋と水で視線を導く。天候を出来事にする。

織田はその知性を、西洋由来の印刷法と20世紀の大都市へ移した。日本の伝統と輸入技術のどちらかを選ばなかったことが、彼の達成だった。選択そのものを不要にした。

織田の都市を見る五つの入口

織田の劇性は中央の主人公ではなく、色調の全体へ分散している。ゆっくり見るほど開く。五つの問いが手がかりになる。

  • 最も明るい場所はどこか。灯り、窓、反射、空の一部が、感情の道筋をつくる。
  • 画面の端に何があるか。寺の壁、欄干、店先、堤防が、名所を暮らしの町へ戻す。
  • 水は建築をどう中断するか。反射が都市を安定した図面になることから守る。
  • 人はどこにいるか。小さな人物が尺度と用途を示す。その小ささが大都市の大きさを測る。
  • 織田は何を明確にしなかったか。粒、煙、闇が曖昧さを守る。都市は完全には所有できない。

色も構造として読む必要がある。広い色数は要らない。木と夜に重さを与える木炭の黒、石を和らげる灰色、人工の明かりを運ぶ古びた黄土、遠景を退かせる青灰色。抑制されているから、一つの暖色の窓が重要になる。

本日のJapan.co.jpのイラストも、その論理に基づく。木炭と黄土を中心とする石版的な色調で、匿名の版画家が制作する外に、現実には一つの視点から見えない複合的な大阪を配置した。寺院、橋、市電、水路、工場は編集上の解釈として集めた。人物は織田の肖像ではなく、街も特定の日付や場所の復元ではない。

織田が知った都市の先に残ったもの

その後の織田は、風景連作、著述、制度づくり、技術教育を続けた。1925年には松江に版画研究所を設ける。1930年には石版・銅版作家らと洋風版画協会をつくり、『新宿風景』と『浮世絵の知識』を刊行した。1931年に吉祥寺へ移り、1956年3月18日に心臓麻痺で亡くなるまで制作を続けた。

東京文化財研究所の年譜によれば、1949年には自作石版画216点を米国ボストン美術館へ寄贈した。ほかの作品も国内外の美術館に入った。現在、同じ大阪の主題が、国立美術館、東京都現代美術館、大阪中之島美術館、大英博物館、クリーブランド美術館などに分かれて存在する。

その分散は版画家にふさわしい。唯一の「織田の大阪」を、一つの館だけが所有しない。複数の刷りが別々の場所にあり、紙、保存状態、鑑賞の履歴も異なる。複製可能性が、存続の方法になる。

それでも織田は、木版を中心に語られがちな新版画・創作版画の物語に比べ、国際的には知られていない。日本の版画史の一般像の中で石版は落ち着きが悪い。輸入され、工業的で、桜材を彫るという魅力的な物語がない。織田の作品は、その偏りを明らかにする。技術として生まれた媒体だからこそ、近代生活の内部に属し、記憶の器になれた。

大阪はいまも、複数の時制のあいだに立つ

『大阪風景』から一世紀以上が過ぎ、多くの場所は見分けにくいほど変わった。橋は架け替えられ、水路は変わり、歓楽街は密度を増し、寺は焼け、あるいは再開発され、狭かった御堂筋は幅43.6メートルの大通りになった。織田が刷った大阪全体を取り戻すことはできない。

しかし中心にある観察は残る。大阪は、古さを失った後に近代になるのではない。両立しない時間が同時に働くから近代である。商業の大通りが仏堂から名を受け、ホテルの足元に木造本堂があり、19世紀の印刷技術が電灯を記録し、北斎の収集家がカフェーとセメントを描く。

もう一度《四ツ橋雨景》を見る。橋は実用の仕事をする。雨がそれを隠す。水が像を壊す。石版は、構造と、その溶解を同時に残す。恒久を宣言するものは画面にない。それでも織田の「見る」という行為は持続した。

都市の記憶の最も深い形とは、変化する前の街を凍結することではないのかもしれない。変化を感じ取れる表面を与えることなのだ。

編集画像について:トップ画像は、織田一磨の石版画に見られる粒子感、抑制された色調、都市主題に着想を得てJapan.co.jpが新たに制作した編集イラストである。織田の原作、特定作品の複製、織田本人の肖像、歴史的に正確な復元図ではない。織田が三津寺を描いたとの主張もしない。
調査・収蔵資料

方法注:制作年、寸法、作品名、制度史は、リンクした美術館、図書館、行政の記録に従った。解釈部分はJapan.co.jpの分析である。収蔵データベースの表記や略歴に差がある場合、東京文化財研究所の年譜を主要な基準とした。