エッフェル塔は、いつも画面の中心にいるわけではない。雨に濡れた坂道の先で細い影になり、屋根と煙突の間から頭だけを出し、洗濯物や工事現場の向こうへ退く。アンリ・リヴィエールの版画集『エッフェル塔三十六景』で主役になるのは、塔だけではなく、塔を見るパリである。
国立西洋美術館は、この版画集を1888~1902年制作、1902年出版のカラー・リトグラフと記録している。同館所蔵の扉絵は500部中19番。フランス国立図書館も、五色刷りの36図を500部刊行した作品として紹介する。題名が示す通り、出発点は葛飾北斎の『冨嶽三十六景』だった。
「三十六景」は、数よりも見方を受け継いだ
北斎の『冨嶽三十六景』は1830年代初頭に刊行された。富士は大きく描かれることもあれば、桶や橋、波の向こうに小さく置かれることもある。場所、季節、天候、仕事が変わるたび、同じ山が別の役割を担う。連作は名所の姿を繰り返すのではなく、人と風景の関係を組み替えた。
リヴィエールが受け継いだ最も重要なものは、富士の輪郭ではない。一つの目印を固定し、視点の方を動かす方法だった。佐川美術館は、『エッフェル塔三十六景』に北斎だけでなく歌川広重の色彩、構図、題材、表現の影響も見られると説明する。
そのため、塔を富士に置き換えた、とだけ言えば半分しか伝わらない。富士は長い信仰と文化の蓄積を持つ自然の山であり、エッフェル塔は建設されたばかりの産業建築だった。リヴィエールは両者を同じものと見なしたのではない。北斎の形式を使い、まだパリの風景になり切っていない塔が日常へ入り込む様子を描いた。
建設現場から始まった近代の「名所」
エッフェル塔は1889年のパリ万国博覧会のために建てられた。塔の公式記録によれば、基礎工事は1887年1月26日に始まり、1889年3月31日に完成した。工期は2年2か月5日。フランス革命百周年を記念する博覧会で、フランスの工業力を示す建造物となった。
しかし、完成前から誰もが歓迎したわけではない。巨大な鉄の構造物は、歴史的なパリの景観を損なうとの批判を受けた。いまでは都市の象徴に見える塔も、当初は風景に割り込んできた新参者だった。
リヴィエールはその変化を外から眺めただけではない。佐川美術館によると、建設中の塔へ実際に登り、作業風景や塔からの眺めを写真に収め、その写真をもとにした図も制作した。鉄骨の内側から見上げた図では、塔は完成した輪郭ではなく、交差する部材と作業員の身体として現れる。
影絵で学んだ、見せない技術
リヴィエールは1864年にパリで生まれた。モンマルトルの芸術酒場「シャ・ノワール」で影絵芝居を長年手がけ、光、輪郭、奥行きを限られた色面で表す技術を磨いた。佐川美術館はその活動を11年間としている。
影絵では、細部を描き込まなくても形を認識させなければならない。この経験は、雨、夕暮れ、逆光の中で塔を見せる版画に生きた。塔を隠す建物や木々は障害ではなく、距離と空気をつくる枠になる。
フランス国立図書館は、リヴィエールが木版、リトグラフ、エッチング、水彩に取り組み、19世紀末の色彩版画で革新を重ねた作家と位置づける。同館が保存する作家のアトリエ資料には、完成作や準備作、本人が所蔵していた日本版画が含まれ、継続的な研究の痕跡を伝えている。
木版を志し、リトグラフを選ぶ
『エッフェル塔三十六景』は日本の多色木版を参照したが、完成形はカラー・リトグラフである。佐川美術館の解説では、当初は木版を想定し、二作を木版で仕上げた後、細部を表しやすいリトグラフへ移った。
フランス国立図書館の書誌は、印刷者をパリの Eugène Verneau と記録する。36図は五色刷りである。色数の制限は単なる技術的制約ではない。灰色の空、濡れた路面、赤みのある標識や印章が、パリの天候と都市生活を一つの調子にまとめる。
国立西洋美術館が所蔵する版画集の扉絵には、作者の署名と500部中19番の番号がある。そこには日本版画を思わせる装丁と印章風の意匠が見られるが、制作工程はフランスの石版印刷である。日本の形式とパリの印刷産業が、同じ本の中で出会った。
塔より先に、洗濯物と雨を見る
クリーブランド美術館所蔵の《From Lamarck Street》(「ラマルク通りから」は編集部訳)では、濡れた道が曲がり、風に身をかがめる人物の遠くに塔が立つ。美術館は1902年のカラー・リトグラフとして記録し、高解像度画像をオープンアクセスで公開している。
この一図が示すのは、ジャポニスムが扇や着物といった異国趣味の小道具だけではなかったことだ。画面の端で切れるもの、手前を大きく遮るもの、高い地点から見下ろす視線、雨や雪によって輪郭を弱める方法。日本版画から得た構成上の発見は、パリの労働者、住宅、川船、街路を新しく見る道具になった。
ただし、「日本が西洋に近代の見方を教えた」と一方向にまとめるのも正確ではない。国立国会図書館は、浮世絵の風景画が西洋由来の遠近法を取り入れたこと、輸入顔料のベロ藍(紺青、プルシアンブルー)が北斎の『冨嶽三十六景』にも使われたことを解説している。リヴィエールの作品も、写真、フランスの影絵、石版印刷、日本版画が交差した結果である。影響は一度だけ海を渡ったのではなく、技術と視線の往復として起きた。
塔が風景になるまで
制作が始まった1888年、塔は建設中だった。版画集が出版された1902年には、パリ万国博覧会から13年が過ぎていた。36の場面を通して見ると、鉄骨の建設現場は、やがて雨や雪の向こうにある日常の輪郭へ変わっていく。
記念建造物を大きく美しく描くことなら、一枚で足りる。三十六景という形式が必要だったのは、塔の意味が一つではなかったからだ。技術の勝利であり、景観への異物であり、労働の現場であり、遠くから現在地を測る目印でもあった。
今日、エッフェル塔を見て「パリらしい」と感じる視線は自然に生まれたものではない。写真、ポスター、映画、絵画が長い時間をかけて、その輪郭を都市の記憶へ組み込んだ。リヴィエールの36図は、その過程の早い段階にある。北斎の富士を参照しながら、鉄の塔が風景になる瞬間を記録したのである。
