脚本家、劇作家、演出家の倉本聰(くらもと・そう)が9月18日夕刻、多臓器不全のため自宅で死去した。91歳だった。倉本財団が9月28日に公式発表した。葬儀は近親者で執り行われ、11月3日に富良野演劇工場で「お別れの会」を予定している。[1]

倉本は、ただ数多くの人気ドラマを書いた脚本家ではなかった。テレビが都会のスタジオで作られるものだった時代に、北海道・富良野へ生活と創作の拠点を移し、土地の時間、雪、森、家族の沈黙までをドラマの一部にした。『北の国から』で富良野を全国の記憶に刻み、若者を育てる「富良野塾」を開き、晩年には環境教育や舞台活動まで創作の範囲を広げた。

富良野市は訃報を受け、「『北の国から』を通じて富良野の魅力を全国へ発信するとともに、『富良野塾』の設立や演劇文化の振興に尽力され、本市の文化・芸術の発展と地域振興に大きく貢献された」と追悼した。北海道知事の鈴木直道も、倉本が北海道の自然と人々を描き続け、その価値を全国、世界へ伝えたことを「北海道にとって大きな財産」と表現した。[2][3]

東京から富良野へ――1977年の移住

倉本は1935年1月1日、東京都生まれ。東京大学文学部を卒業後、1959年にニッポン放送へ入社し、のちに退社して脚本家として独立した。フジテレビの公式プロフィールでは、1977年に北海道・富良野へ移住したとされる。[4]

この移住が、その後の日本のテレビドラマ史を変えた。倉本の公式サイトは、東京では得られなかった「人の体温」「瑞々しい空気」「迫りくる自然」に魅了され、富良野を創作拠点にしたと説明している。[5]

都市の利便性から離れた土地へ移ることは、当時のテレビ作家にとって異例だった。だが倉本にとって、自然は背景ではなく、登場人物の価値観や選択を変える存在になった。

倉本聰がテレビドラマへ持ち込んだ最大のものは、「地方を舞台にしたこと」だけではない。土地の時間そのものを物語の速度にしたことだった。

『北の国から』――21年にわたった家族の物語

『北の国から』は1981年10月、フジテレビ系で放送を開始した。東京を離れ、北海道・富良野で暮らし始める黒板五郎と、子どもの純、螢の家族を描く連続ドラマで、1982年3月まで全24回が放送された。[6]

物語は連続ドラマで終わらなかった。1983年の『北の国から’83冬』から2002年の『北の国から 2002遺言』まで、8本のスペシャルドラマが制作された。子どもだった純と螢は成長し、恋愛、仕事、結婚、別れ、家族の老いが時間とともに描かれた。[7]

普通の連続ドラマなら、俳優と登場人物の時間は放送終了時に止まる。『北の国から』では、俳優の成長と役の人生が重なった。1981年から2002年までの21年間、視聴者は黒板家とともに年を取った。

富良野は「ロケ地」ではなく、物語の登場人物になった

『北の国から』の舞台となった富良野市麓郷地区には、現在も「五郎の石の家」「拾って来た家」「麓郷の森」などのロケ地が残り、多くのファンが訪れる。ふらの観光協会は、1981年から2002年まで長期間にわたり北海道ロケが行われた作品として紹介している。[8]

ドラマが観光地を作ったというだけではない。倉本作品では、家や庭など物語の舞台そのものを実際に作ることで、土地と人物を切り離せない状態にした。2008年の『風のガーデン』では、富良野に約600坪のブリティッシュガーデンを2年がかりで造成し、365種類の花を植えた。[9]

セットが撮影のためだけに存在するのではなく、その後も場所として残る。その手法は、映像作品と地域の関係を変えた。

富良野三部作――家族、生と死、自然

フジテレビは、『北の国から』『優しい時間』『風のガーデン』を「富良野三部作」と位置付けている。[9]

2005年の『優しい時間』では、富良野の喫茶店を舞台に、疎遠になった父と息子の関係を描いた。フジテレビは『北の国から 2002遺言』で約20年にわたるシリーズが幕を閉じた後、倉本が再び富良野から新しい物語を発信した作品と説明している。[10]

2008年の『風のガーデン』では、死を目前にした医師が絶縁していた家族のもとへ戻る。家族の再生、生きること、死ぬことを、富良野の季節の変化とともに描いた。[9]

倉本が繰り返し描いたのは、派手な事件よりも、人間が自然や家族や死の前でどう振る舞うかだった。

1984年、無料の私塾「富良野塾」を始める

倉本の影響は作品だけにとどまらない。1984年春、富良野市の山間に、シナリオライターと俳優を育てる私塾「富良野塾」を開設した。[11]

富良野GROUPの公式説明によると、全国からオーディションで毎年約20人が選ばれ、2年間の共同生活を送った。倉本の講義は無償で、入塾料・受講料も無料。塾生は近隣農家で働いた収入を生活費にし、住居や稽古場の一部も自分たちで建てた。2010年の閉塾までに375人が卒業した。[11]

これは単なる脚本学校でも俳優養成所でもなかった。自然の中で働き、暮らし、身体感覚を鍛えることを創作教育の一部にした。

倉本が重視した考え方を、富良野GROUPは「技術を超える『心』を磨く」と表現している。技術だけでは人の心を打てず、創作には人間そのものの感受性が必要だという思想だった。[11]

富良野塾が閉じても、人材育成は終わらなかった

富良野塾は2010年春に閉塾した。しかし、卒業生の俳優、脚本家、演出家らは富良野GROUPとして舞台制作やワークショップを続けた。ふらの観光協会によると、卒塾生375人の多くが映像、舞台、脚本、放送などの現場で活動している。[12]

2026年9月にも、富良野塾の跡地を使い、農作業、共同生活、演技を組み合わせた短期集中ワークショップが行われていた。倉本が作った教育方法は、本人の晩年まで更新されながら続いていた。[11]

晩年も「テレビの外」へ

2017年にはテレビ朝日の『やすらぎの郷』を執筆。テレビ業界で働いてきた高齢者たちが暮らす施設を舞台に、老い、恋愛、死、テレビ業界そのものを描いた。テレビ朝日は作品を「大人の、大人による、大人のためのドラマ」として紹介した。[13]

2024年には、長年構想してきた映画『海の沈黙』が公開された。倉本は原作・脚本を担当し、作品側は本人が「どうしても書いておきたかった」と語った物語として紹介している。美とは何か、芸術の価値は誰が決めるのか、人生の最後に何が残るのかを問う作品だった。[14]

そして2026年8月29日、富良野演劇工場で2017年から続けてきた「倉本聰プライベートライブラリー」は第90夜をもって「一区切り」となった。公式サイトによれば、これは倉本本人の意向によるものだった。死のわずか20日前のことである。[15]

自然を「物語」ではなく実際の森へ戻す

倉本の晩年で重要なのが環境活動だ。富良野自然塾では、閉鎖されたゴルフ場跡地を植樹し、元の森へ戻す「自然返還事業」と、その土地を使った環境教育を行ってきた。[16]

そこでも演劇的手法が使われた。自然を講義で「知る」のではなく、裸足で地面を歩き、暗闇を体験し、五感を使って地球環境を考える。

脚本家の仕事が、人間と自然の関係を書くことから、人間が自然との関係を体験する場を作ることへ延びていった。

『北の国から』が残したもの

『北の国から』は2026年で放送開始45周年を迎えた。フジテレビは記念コンサートを開き、富良野公演を配信した。2025年には全24話を地上波で再放送し、「44年の時を経て、今なお色あせない人間の物語」と紹介していた。[17]

長寿作品には、懐かしさだけで生き残るものもある。しかし『北の国から』は、都市と地方、便利さと不便さ、親と子、自然と文明という問いを繰り返し突きつけた。その問いは、人口減少、地方移住、環境問題が社会課題となった現在、別の意味を持って読み直される。

「電気がなければ暮らせませんよ」と考える都会の感覚と、「電気がなければ暮らせないんですか」と問い返す土地の論理。その衝突が、作品の根にあった。

富良野という町に残った、テレビドラマ以上の遺産

倉本は2026年に亡くなるまで富良野を拠点にした。富良野市は倉本を名誉市民としており、訃報に際して、作品だけでなく地域振興、文化、芸術、人材育成への貢献を強調した。[2]

富良野には、ドラマのロケ地、富良野演劇工場、富良野GROUP、富良野自然塾が残る。テレビ番組は放送が終われば通常は画面から消える。しかし倉本の作品は、家、森、劇場、人材という物理的な形でも土地に残った。

それが、倉本聰の仕事を「脚本家」という職業だけで説明しきれない理由である。

11月3日、富良野で別れ

倉本財団によると、葬儀は家族の意向で近親者により執り行われた。故人の遺志により、11月3日に富良野演劇工場でお別れの会を開く予定で、詳細は後日発表される。[1]

91年の人生のうち、ほぼ半世紀を富良野で過ごした。

東京で書くことをやめたわけではない。テレビを捨てたわけでもない。むしろ富良野へ移ったことで、倉本はテレビに、それまで画面の外に置かれがちだったものを持ち込んだ。

雪が降るまでの時間。森の静けさ。働く手。家族が言葉にできない感情。そして、人間が自然より大きい存在ではないという感覚。

倉本聰が残したのは、数え切れない台詞だけではない。物語は場所から生まれ、人は土地に育てられるという、一つの創作の生き方だった。