細胞1個の小さな「利き手」が、集団では数センチの渦になる。
一つひとつは気ままに動く。それでも集まると渦になる
わずか数十マイクロメートルの細胞が、培養皿の中にセンチメートル級の渦を描いた。しかも、その腕は好き勝手な方向には巻かない。理化学研究所などの共同研究チームが観察した細胞性粘菌の集団は、時計回りの複数の腕を持つスパイラルをつくった。10月26日付の「Nature Communications」に掲載された成果である。絵のように見える形の背後には、個々の細胞が持つほとんど見えない「右回りの癖」があった。
「細胞の利き手」をどう定義するのか
ここでいうキラリティは人間の利き腕そのものではない。鏡に映した像と元の姿が完全には重ならない、左右非対称の性質を指す。らせん構造を持つ分子から、細胞の形、移動の向きまで生命のさまざまな階層に現れる。今回の研究が扱ったのは、細胞が不規則に向きを変えながら移動する際、平均すると時計回りへのごく小さな偏りがあるという「細胞運動のキラリティ」だ。
森の土にいる細胞性粘菌が主役
実験の対象はキイロタマホコリカビ(Dictyostelium discoideum)という細胞性粘菌。名前に「カビ」が付くが、一般的な菌類とは異なるモデル生物で、単細胞のアメーバ状の時期と、多数の細胞が集合する時期を持つ。研究では、化学物質の濃度勾配に反応して進む走化性を失ったKI株を利用した。化学物質を追う反応を取り除くことで、集団が方向をそろえる働きと、個々の細胞の小さな左右の偏りを調べやすくした。
5センチの培養皿に現れた巨大な模様
直径5センチの培養皿に寒天の基盤をつくり、中央のくぼみに多数の細胞を置く。細胞はそこから周囲に継続して移動する。最初にできたのは供給源を囲む密度の高い輪だった。その後、輪から複数の細胞の帯が外へ伸び、時計回りに回りながら大きなスパイラルを描いた。理研の説明では、8時間後には環状領域が見られ、29時間後にはセンチメートル級の模様に成長した。論文の代表図では別の撮影時点も示されるため、時刻は図ごとに区別したい。
集団の中には「回転コア」がある
模様が美しいだけでは科学的な説明にならない。研究者は細胞の動く向きを画像解析し、中心の輪にある細胞が同じ時計回りへ集団的に進むことを確かめた。その領域を「回転コア」と呼ぶ。向きのそろい具合を表す秩序パラメータは中心で0.94、外へ広がる帯でも0.88だった。1に近いほど方向がそろっていることを意味する。細胞の群れが見かけだけの線を描いているのではなく、運動の方向までそろえていることが分かる。
衝突すると、進む向きがそろう
では細胞同士は何をしているのか。低密度で2個の細胞が接触する場面を調べると、衝突前よりも衝突後のほうが進行方向がそろう傾向があった。研究チームはこの働きを配向相互作用と位置付ける。細胞同士の接触や一時的な接着が関わる可能性はあるが、具体的な分子の仕組みをすべて特定したわけではない。それでも集団に共通の向きを生む要素が実験で裏付けられた。
1分にたった2〜3度。その癖が渦の向きを決める
個々のKI細胞の移動速度は1分に約25マイクロメートル。回転コアから少数を取り出して追跡すると、進む向きはほぼ無作為に見えた。しかし約2万9819件の方向転換を詳しく解析すると、1分当たり平均約2〜3度という、時計回りのわずかな偏りが浮かび上がった。この小さな性質が集団運動で増幅され、安定した時計回りの渦に結び付くという説明だ。左巻きと右巻きが同程度に出現した実験ではない。
重要なのは細胞が増え続ける「開放系」
従来の集団運動の理論では、粒子の数が一定の「閉鎖系」を扱う研究が多かった。ところが生体の組織には、ほかの場所から細胞が流入する場面がある。今回の培養皿では中央から細胞が継続的に供給され、その流れが模様を維持した。論文によると供給量を減らして回転コアをつくれない条件では、帯は見られても組織立った時計回りのスパイラルにはならなかった。模様をつくるには、左右の偏りだけでなく、供給の仕方と集団の整列が大切だった。
コンピューターの中でも渦を再現
チームは「ヴィチェック(Vicsek)モデル」と呼ばれる、自ら動く粒子が近隣と進行方向をそろえる理論を拡張した。わずかな右回りの偏り、近接粒子との方向の整列、中心からの継続的な粒子供給を組み合わせると、実験に似た多腕スパイラルが再現された。実際の細胞のすべての分子反応を計算したわけではない。最小限の要素で形が現れる点に意味がある。実験とモデルが互いを確かめ合う、物理学と生物学の接点を示す研究だ。
歴史の流れ――形は誰が決めるのか
生物の形がどのように生まれるかという問いは古い。発生生物学は細胞の分化や化学物質の分布を追い、物理学は集団の相互作用から秩序が現れる仕組みを研究してきた。1995年に発表されたヴィチェックらの自己駆動粒子モデルは、近くの粒子が方向をそろえるだけで集団運動が成立し得ることを示した代表例である。今回の成果は、その系譜に、細胞固有の左右の癖と新たな細胞の継続供給を加える。形の成り立ちを分子だけではなく集団の力学として捉える。
人間の心臓や臓器にもそのまま当てはまるのか
人の心臓や内臓の左右配置を、この粘菌の渦で直接説明できたわけではない。動物の発生には遺伝子、細胞間シグナル、組織の力学、繊毛運動など多様な仕組みが関わる。今回の成果は、微小な左右差が大きなパターンへ拡大し得る一つの原理を実証したものだ。臓器の形成を再現した実験でも、疾患の治療につながることを実証した研究でもない。
「つくる科学」への展望と、未解決の問い
研究チームは、集団が秩序を生み出す原理が将来の技術やものづくりにもつながる可能性を示している。ただし、具体的な製品や材料性能がすでに実証されたわけではない。細胞の接着機構は何か、細胞供給が変わると模様がどう変化するのか、ほかの生物でも同じ原理が働くのか。これからの課題は多い。見慣れない模様が教えるのは、生命を動かす小さな偏りが、集団では見過ごせない大きさになるということだ。
出典・検証資料
2026年10月26日の理研発表と公開査読論文を照合。細胞性粘菌の培養実験とモデル解析について述べ、人の臓器形成や医療応用として実証されたと扱っていない。研究者への独自取材は行っていない。
